第8話

「あ、あのっ。わたし、家事やります。お任せしてもらっていいですか?」



 どうにかその空気を破るように、彩花は弱々しくも明るい声を出した。


 それに乗っかろうとして、父が大袈裟なくらいに何度も頷く。



「おお。それは助かるよ、彩花ちゃん。うちの家事はありがたいことに、全部理久がやってくれてたんだけどね。これからは、ふたりで分担してもらってもいいかな? な、理久。彩花ちゃんにも協力してもらおう」



 話を振られて、理久は頷く。先ほどの空気は見なかったことにして。


 彩花たちが軌道修正しようとするのなら、理久だってそれには逆らわない。


 思考を家事に向ける。


 そうか、良いこともあるんだな、とちょっとだけ嬉しくなった。



 理久は家事が好きなわけではない。


 むしろ今でも面倒だと思っている。


 それでも理久が家事を担当しているのは、父に任せきりでは申し訳ないと感じたからだ。


 母親が亡くなってからというもの、父親が何かと自分のために無理をしていることはわかっていた。



 ただでさえ、仕事が忙しかったというのに。


 その負担を少しでも軽くしてあげたい、と家事を少しずつ覚えていくうちに、ほとんどの家事を理久が担当していた。


 それを特別嫌だと感じたことはないけれど、楽になるのなら歓迎だ。


 目の前に座る少女に、そっと話し掛ける。


 当然緊張したが、それは必死で飲み込む。



「ええと。じゃあ、ふたりで分担しましょうか」


「はい。あ、でも……、ごめんなさい。わたし、料理だけは全然できなくて……」



 しゅん、としながら肩を落とす彩花。


 しゃなり、と長い髪が肩の上を滑っていく。


 それに目を奪われそうになりながら、理久は下手くそな笑顔を作った。



「わかった。じゃあ料理当番は俺がやりますね」


「すみません……。では、掃除はわたしがやります」


「掃除やってくれるんですか? それなら、俺が洗濯やろうかな」



 一番面倒だと思っていた掃除を担当してくれるのは、とても嬉しい。


 しかし、掃除は範囲が広いし負担も大きい。


 それなら、ほかのことを自分が受け持ったほうがよさそうだ。



 そう思っての発言だったが、彩花は気まずそうにそっと視線を伏せた。


 そうしてから、隣の香澄に目を向ける。


 それは明らかに、助けを求めるような目だった。


 香澄はその目を受けて、頬に手を当てる。小さく首を傾げ、何かを言い掛けて、閉じた。困ったような顔をしている。



 ……なんだ、この空気は。


 理久が困惑していると、父がそっと口を開いた。



「えーと……、理久。女性がふたりもいるんだし、洗濯は彩花ちゃんにやってもらったほうがいいんじゃないかな……。ほら、彼女も見られたくないものだってあるだろうし、いくら家族になるとはいえ……、ね……?」



 父親に諭すように言われ、急速に理解する。


 その瞬間、羞恥で頭がおかしくなりそうになった。


 理久は、こんな可愛らしい子の服、そして下着を「俺が洗っておくね」と宣言したのだ。


 バカタレか。


 思春期女子がどうのこうの父親に言っていたのは、どこのだれだ。


 沸騰したように顔が熱くなり、しどろもどろになりながら必死で弁明する。



「いやあの、すみません、そういうつもりじゃなくて! わ、わざとじゃなくて、あくまで家事の分担の流れで言ってしまっただけで、見ようと思って言ったわけじゃないんです! せ、洗濯はお任せします!」


「いや、あの、理久くん。ごめんね、最初からこっちがそう言えばよかったのに。うん、ごめん」



 あまりにも必死になったせいか、香澄が苦笑しながら手をふりふりとし、彩花は頬を赤く染めて俯いていた。


 申し訳なさすぎる。


 早速困らせてしまった……。



「洗濯はお任せするので……、掃除は、いくつか、俺も受け持ちます……」



 それだけ何とか伝えると、彩花はこくんと頷いた。


 理久は照れ隠しのために、お寿司に手を伸ばす。


 しかし、話し込みながら結構な量を食べていたせいか、胃袋が満腹を主張し始めていた。


 いくらを食べ終わったあたりで、ふう、と息を吐く。



「お腹いっぱいだ……」



 己の腹を撫でながら呟くと、香澄が目を丸くする。



「あれ。理久くん、もうご馳走様? 小食だったりする? 高校生の男の子だから、もっとたくさん食べるものかと思ってた」


「あぁ、そうですね。周りに比べたら小食かもです。部活やってた頃はもうちょい食べてましたけど、今はやってないですし」


「そっかぁ。慎兄と同じだ。慎兄も昔から食が細いもんね」


「あぁ、そうかも。その辺は僕に似ちゃったのかもしれないなあ」



 父は妙に嬉しそうに笑う。


 昔から父は、理久と似ているところを指摘されると、こんなふうに温かい笑みを浮かべた。


 息子としては何ともむず痒いのだけれど。


 そんな話をしていると、彩花がピクリと肩を揺らす。


 彼女の目が理久と父の間を行ったり来たりしていた。



「ご馳走様でした」



 彩花が上品に手を合わせ、静かにそう呟く。


 お祈りをするようなその仕草に、やけに心を奪われそうになって目を逸らす。


 彼女のひとつひとつの動作に、目が吸い寄せられてしまう。


 心を落ち着かせていると、香澄が不思議そうな声を出した。



「あれ。彩花、もういいの?」


「うん。もうお腹いっぱいだから。そんなにお腹空いてなかったのかも」



 彩花に合わせたわけではないだろうが、父も香澄も箸を置いた。全員が既に満腹のようだが、寿司桶の中にはまだまだ寿司が残っている。さすがに捨てるのは勿体ない。


 理久はそれを指差し、父に問いかけた。



「これ明日の朝食べる?」


「あぁ、じゃあそうするよ」


「ん。じゃあ冷蔵庫に入れておくよ」



 食器棚から皿を出して寿司を移そうとすると、慌てて彩花が立ち上がった。



「あ、あの。わたしやります」


「え、あ、いや、大丈夫です、これくらい……」



 ススっと近付かれると、思わずビクッとしてしまう。


 なんというか、家の中で女の子が接近してくるシチュエーションに馴染みがなさすぎる。るかは例外だし。 


 大袈裟に反応してしまうのも恥ずかしいが、これもしょうがないと思う。相手が相手だ。



 彩花は手を差し出していたが、理久が断ったせいで中途半端な位置にとどまっている。かといって、理久も今更お願いします、とも言いづらく、互いに微妙な姿勢で固まってしまう。



「あぁじゃあ、彩花ちゃん先にお風呂入ったら? もう沸かしてあるし」



 理久たちの不格好なやりとりを見兼ねたのか、父が助け舟を出す。


 けれど、彩花は驚いたように両手を持ち上げ、ふるふると横に振った。



「いえ、わたしは……。最後で大丈夫です。あの、勉強もしなくちゃいけないので……」


「あ、そう……? んー……。あ、じゃあ香澄が先に入ったら? どう?」


「え? でも……。あっ。うん、そうね。じゃあお先に頂いちゃおうかな」



 香澄は最初、微妙な表情を浮かべていたが、納得したようにそそくさと部屋を出て行った。


 ここで遠慮をすると、却って変な空気になると悟ったのだろう。


 理久も彩花も、その辺りがなかなか上手くできない。



 そう思っていたからこそ、彩花が「洗い物をする」と言ってくれたときは、理久は素直に任せられた。洗うものがそこまでなかったから、というのもあるけれど。


 彩花は手早く洗い物を終えて、「失礼します」と頭を下げてから、部屋に上がっていった。

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