第23話



 理久たちがいっしょに暮らし始めて、数日後。


 その日も、理久と彩花はふたりで作った晩ご飯を食べた。


 いつもどおり、「お先にお風呂どうぞ」と微笑まれ、理久が先に風呂に入る。


 それまでは普段どおりだったが、違う点がひとつあった。



 彩花の気配が消えていた。


 風呂から上がった理久は、キッチンに飲み物を取りに行く。


 すると、この時間はいつもリビングかキッチンにいる彩花が見当たらない。


 部屋に戻ったのかとも思ったが、テレビの音は聞こえている。


 トイレかな、と思いつつ、一応リビングに目を向けた。


 そこで、その光景に腰を抜かしそうになった。



「…………っ」



 申し訳なさで己の頬を叩きそうになり、寸前で思いとどまる。


 ここで大きな音を立てるわけにはいかない。


 その理由は簡単だ。



 彩花が、ソファで眠っていた。


 テレビの前にあるソファに横になり、穏やかな表情ですぅすぅと寝息を立てている。


 長い髪がソファの上に広がり、芸術的な絵画を描いているようだった。


 ソファから落ちた髪がはらりと床に手を伸ばし、それらが重なって滝のように流れている。


 整った顔立ちは眠っていても変わらず、目を瞑っているせいで長いまつ毛が主張を強くしていた。


 唇が小さく開いていて、そこからほのかに息が漏れている。それがやけに色っぽかった。



 今日の彼女は紺のトップスに白いロングスカートを履いており、ソファの上でスカートも広がっている。


 可愛らしく手を胸の前に重ねており、眠る姿はまるでお姫様のようだ。


 それを前にして、理久はへなへなとその場に崩れ落ちそうだった。



「……こんな、無防備な……」



 女子の寝顔。


 そんなもの、軽々に見ていいわけがない。


 全力で顔を逸らしたものの、頭の中にはもうこれだけ彼女の寝顔が刷り込まれている。


 おそろしい。


 あまりのことに頬を叩いて記憶を消してやろうかと思ったが、それは今ではない。


 ここで目が覚めたら、きっと彩花は激しく取り乱してしまう。



 それは、女子としての恥ずかしさとか、そういったものもあるだろうけど。


 何よりも、後ろめたさが強いのではないだろうか。



「…………はあ」



 それを考えるだけで、彩花の寝顔を見てしまった昂揚感と罪悪感、それらの思いが別の感情に塗り潰されていく。


 きっと彩花は、「ふたりが帰ってくるまで仮眠しよう」と思っていたわけではない。


 多分、ちょっとソファで休憩していたら、つい寝入ってしまったのだろう。


 この場に理久がいないことも大きい。


 ちょっと楽な姿勢を取っちゃおうかな、と横になって、そのまますぅっと眠りに落ちてしまったのかもしれない。


 


「そりゃ、居眠りもするよな……」



 彩花は理久と違い、いつも朝早くから起きている。


 具体的に言えば、父や香澄の出勤前には。


 夏休みなんだし、彼女はゆっくり眠っていてもいいだろうに。



 きっと父も香澄も、朝食の準備なんてしなくていいと思っているだろうし、実際に口にもしているだろう。


 けれど彼女は、健気に朝から起きて朝食の準備をし、昼間は家事をし、夜は勉強しているようだ。


 そして、早く眠るわけでもなく。


 夜な夜な、部屋から抜け出していることを理久は知っている。



「相談したほうがいいのかなあ……」



 彼女が夜、何をしているかを理久は薄々察している。


 その原因もわかっている。


 けれど、それを口に出すことはできなかった。


 彼女がそれを望んでいないから。


 それを理久が指摘できるような間柄でもないから。



 お互いに遠慮し、他人の壁を張って、理久たちはこの生活をやり過ごそうとしている。


 これからもいっしょに暮らしていくのだから、互いの配慮は絶対に必要だと思うし、香澄も彩花も礼を失することはない。


 今のところ、殊更に嫌な思いをすることはなかった。


 彼女らにとっても、理久はそういう存在でありたいと思う。



 だからこそ、言うに言えない。


 せめて彼女が望んでくれないと、このぎこちない関係は変わらないままだ。



「……とりあえず」



 理久はテレビの電源を切り、リビングの照明を落とした。


 ちょこまかと動いてみても、彩花は目を覚ます様子はない。


 それならば、このまま寝かしておいてあげよう。


 父たちが帰ってくるまでそれほど時間があるわけでもないけれど、少しは眠れるだろう。


 そのまま立ち去ろうとして、ふと思う。



「……何か、掛けたほうがいいのかな……?」



 リビングはクーラーが利いていて、快適な温度だ。


 けれど、眠っていたら寒いかもしれない。風邪をひく可能性もある。かといって、クーラーの温度を上げるのもちょっと心配。


 理久はそそくさとタオルケットを持ち出した。



「……ううん。こういうのって気持ち悪かったりするかな。……微妙か?」



 若干の心配を抱くものの、それでも彼女が体調を崩すよりはマシだろう、と結論付けた。


 タオルケットを持って、そうっとリビングに戻ってくる。


 暗い部屋の中で、彼女はやはり眠ったままだ。



 物音を立てないように彩花に近付くと、穏やかな顔が目に入ってしまう。


 普段よりも幼く見え、それでも優艶な顔立ち。


 無防備に眠る彼女は、普段の困ったような表情から解き放たれ、穏やかでやさしい顔をしていた。


 こんな表情、理久には決して向けられることはない。



 ……女子の寝顔をじろじろ見るなんて、ほぼ犯罪だ。


 さっさと立ち去ろう。


 そう思って、彩花のすぐそばに立つ。


 そして、いざタオルケットを掛けようとして――、彩花の表情に気付いてしまった。


 彼女を目の前にして、ようやく気付いた異変。



「…………っ」



 それを見て、脳が痺れるような感覚に陥る。


 心がずぅんと重くなった。


 女子の寝顔を近くで見てしまったからじゃない。


 あまりの綺麗さに見惚れたわけでもない。



 彼女の頬に、涙がこぼれ落ちていたからだ。


 彩花は、眠ったまま泣いていた。


 その顔を見つめ、動けなくなる。


 胸がきゅうっと痛む。


 理久は、その涙の理由を知っている。 


 そうして。


 以前、父から聞いた話を思い出していた――。

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