第9話



 香澄は風呂、彩花は部屋。


 リビングには、父と理久だけが残された。


 彼女が出て行った瞬間、理久はふっと息を吐く。


 自分でも思った以上に肩に力を入れていたようで、ようやく空気が緩むのを感じた。


 それは父も同じだったのか、脱力して背もたれに身体を預けている。



 同じ空間にほかの人がいても、構わず力を抜くことができる。


 家族というのなら、本来はこの形が正しいのだろう。


 互いにぎくしゃくしながら、何とか会話を合わせようとしながら、大して味を感じないまま食事をするのとは違う。



「……すまないな、理久」



 ぼそりと父が呟く。


 それがどのことに対しての謝罪なのか、わざわざ確認しなくともわかる。


 


「いや。俺が良いって言ったんだからさ。俺だって歩み寄れるよう頑張るよ。あのふたりだって、頑張ってくれてるんだし」


「そう言ってくれると、父さん本当に嬉しい……」



 眼鏡を抑えながら、父はぼそりと言う。


 泣いてないだろうな、と不安になりながら、理久は前を向いたまま口を開いた。


 思うところがあったのだ。



「でもさ、父さん。俺、軽く考えすぎていたかもしれない」


 


 その言葉に父が顔を上げて、こちらをまじまじと見てくる。


 泣いてはいなかったが、その表情は不安に染まっていた。


 大方、理久がもう嫌になったとでも思ったのだろう。


 そうじゃない、と手を振る。



「あの子からすればさ、歳が近い男子が家の中にずっといるわけでしょ。しかも、昼間は仕事で親がいない。ずっとふたりきり。そんなの、不安にならないわけがない。あの子はもちろん、香澄さんも。香澄さんが俺に念押ししていたのって、まぁつまりそういうことだよね。頼むから変なことをしないでくれ、っていう」



 彼女は「彩花のことをよろしくね」と言ってきたが、その意味を理久は最初理解できなかった。


 あれは言葉どおりに捉えるべきではなく、良心に訴えかける、とか、釘を刺す、といった意味合いが強い。


 頼むから大切な娘を傷付けないでくれ。


 信用してるから、お願いだから、という懇願だ。



「……気を悪くしたか」



 父がおそるおそる、顔色を窺ってくる。


 理久は手のひらを出して、首を横に振った。



「いや。逆。あの子は、それだけ心配されるような状況なんだ、って再確認して、俺はどっちも心配になったよ。あの子の心情も、香澄さんの心情も」 


  


 本音を言えば、香澄だって家を空けたくはないはずだ。


 大切な一人娘が、年頃の男とずっと家にいるなんて。


「何かあったらいつでも連絡して」と理久に言ってはいたものの、あれは彩花に向けたメッセージだろう。



 不安に思っているのは、彩花だって同じだ。


 保護者がいない家の中で、年上の男子だけが常にいっしょにいる。


 女子の気持ちがわからない理久にでも、それがどれだけ不安なことか。


 想像することはできる。


 そういった表情を、彼女自身が見せている。



「あの子、父さんが『部屋に鍵が掛かるから』と伝えたとき、心底ほっとした顔をしたんだよ。家の中に安全な場所があることに、物凄く安心してた。もちろん俺は、あの子に指一本触れるつもりはないし、嫌がることは絶対にしない。でもそんなの証明しようがないし、信じられるわけがない。そんな環境に放り込まれたんだ、ってことを、俺はちゃんと理解してなかった。だれよりも何よりも、あの子が一番辛いってことに。わかっていたつもりだったけど、理解が全然足りてなかったよ」



 いつの間にか、理久は独り言のように自分の気持ちを吐露していた。


 思春期だから可哀想、女子なのに可哀想。


 理久が考えていたのはせいぜいその程度で、身の危険や不安までは想像できていなかった。


 それはもちろん、理久にそんな気が一切ないから、ということもあるけれど。



 そんなもの、彼女たちからすればわからない。関係がない。


 歳が違い男性、というだけで、無条件で警戒すべき存在なのだ。


 だから理久は、自身が無害であることを一日でも早く理解してもらう必要があると感じる。 



 一目惚れした女の子が家に来た、なんて浮かれている場合ではない。


 それどころか、過去の感情は今すぐに握りつぶして捨ててしまうべきだ。


 それは自身が過ごしやすいためではなく。


 あの親子に、安心して暮らしてもらうために。


 だって、理久は知っている。


 あの子は、本当はもっと穏やかに笑う子なのだ。太陽のように温かく、周りを照らすような笑顔をする子だ。


 あのとき見た表情は、彩花はここに来てから一度も見せていない。


 彼女の境遇を考えると、それも当然だと思うけれど。



「……え。なに、なんで泣いてんの父さん」



 いつの間にか、父が眼鏡を外して両目を抑えていた。


 そこから思い切り涙がこぼれている。


 さっきから黙って聞いているかと思ったら、何やら嗚咽を堪えていただけらしい。


 こわ。


 父の号泣、かなり引く。



「理久……。父さんは、理久がこんなにもいい子に育ってくれたことが本当に嬉しいんだよ……」


「高校生にいい子とか言わないでくれない……」


「母さんにも顔向けできるよ……。理久はこんなにも立派に育ってくれたって……。いや、やっぱあの人の子供だよな……。本当にまっすぐに育ってくれた……」



 もう嗚咽を隠そうともしないで、鼻をずびずび言わせながら父は泣いている。


 ひとり面倒くさくなっていると、父はこちらの肩をぽんぽんと叩いてきた。



「ありがとう、理久。でも、彩花ちゃんほどじゃないにせよ、理久だって大変な状況なんだから。遠慮せずに、何かあったら僕たちに言ってくれ。な」


「ん、ありがと……」


「いや、お礼を言うのは僕のほうなんだよ……、本当にありがとな……」


「いいって……」



 いいから、もう本当に泣き止んでくれない、と思わずにはいられなかったが、父はむしろ嗚咽を強くしていた。


 部屋に帰りたい。理久はそっと息を吐くのだった。



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