第128話



『……理久? どうした? 聞こえてる?』


「彩花さんが、熱を出した。高熱なんだ。この雨の中、濡れて帰ってきたみたいで。今も苦しそうにしてる」



 理久は父の言葉には答えず、この状況を口にする。


 ただそれで、いかにひっ迫しているかは伝わったらしい。


 電話越しに息を呑むのが聞こえる。


 返事も待たずに、理久は弱音を吐いた。



「父さん、俺どうすればいい……? 彩花さん、三日後には試験なのに……。めちゃくちゃ苦しそうで、熱も高くて! 俺は、なにをすれば? ひとりじゃ無理だって、早く帰ってきてくれよ……!」



 泣き出しそうになりながら、弱音を吐く。


 どうにかしてほしい。


 今すぐ彩花を助けてほしい。



 いや、わかっているのだ。


 香澄や父が帰ってきたところで、大局が変わるわけではない。


 ただ理久が願っているだけだ。


 何でもいいから、だれでもいいから、今すぐ彩花を救ってほしい。


 そう願わずにはいられなかった。



『理久。落ち着きなさい』



 電話越しの父の言い聞かせるような声色に、取り乱した気持ちがわずかに落ち着く。


 話を聞く体勢ができたと思ったのか、父はゆっくりと確かめるように口にした。



『今、理久よりも彩花ちゃんのほうがずっとずっと不安なんだ。なのに、そばで理久が慌てていたら、休まるものも休まらない。今できることは、風邪薬、水分……、あぁそれらは用意したんだな? なら、あとは彩花ちゃんの要望を待つだけでいい。こういうとき、できることは案外少ないんだ。ただ、近くで『大丈夫だよ』って言葉と態度で示してあげる。それが大事なんだよ』



 理久も、覚えがある。


 熱を出して苦しくても、父がどっしりと「大丈夫大丈夫。心配ないよ」と笑っていたら、それだけで安心できた。不思議とよく眠れた。


 頼りになる存在が近くにいてくれるだけで、精神的に随分と楽になる。


 そして、それは。



『それは、家族にしかできない。理久。理久はお兄さんだろう。なら、理久が彩花ちゃんを安心させてあげなさい。頑張れ』


「――うん、わかった。ありがとう、父さん」



 電話を切る。


 家族だから。お兄さんだから。


 その言葉で、驚くほどに自分がやるべきことがわかった。


 ふっと息を吐き、ノックしてから扉を開ける。


 彩花は先ほどと変わらない姿勢のまま、目を薄く開いた。



「兄さん……?」


「ごめん、彩花さん。薬飲めます? 飲んでおこうか。大丈夫だよ、寝ていればすぐに治る。熱が下がらなければ、明日にでも病院に行きましょう。それできっと、十分ですよ」



 理久は努めて、落ち着いた声色でそう語りかける。


 すると、今までずっと苦しそうだった彩花の顔が、ほんのわずかだけ緩んだ気がした。


 しかし、すぐに張り詰めてしまう。


 理久が落ち着きを取り戻したからか、今度は彩花が崩れる番だった。



「でも、兄さん……、わたし、もうすぐ、試験で……」



 そこなのだ。


 高熱でぼんやりした彼女の頭の中には、ずっと試験のことがちらついているはず。


 熱が下がらなかったら。


 試験が受けられなかったら。


 その焦りと重圧は、どれほど心を蝕むだろうか。


 理久は心が重くなるのを感じながら、それを見せないように穏やかに笑う。 



「気にしちゃダメですよ。ほら。彩花さんなら根詰める必要はないですし、受けさえすれば合格できます。だから大事なのは、よく眠って治すこと。それ以外にいらない。そうでしょう?」



 ほとんど、自分に言い聞かせているようなものだ。


 けれどそれで、彩花はにこりとわずかに笑う。


 そのまま、こてん、と頭の位置を下げた。


 ……眠ったらしい。


 まさか、こんな意識を手放すように眠るとは思っていなかった。


 その姿に、抑えつけていた不安が一気に膨れ上がる。


 大丈夫なんだろうか。


 いや、大丈夫じゃないと困るんだ。


 不安を飲み下し、理久は席を立つ。



 おかゆでも作ってみよう。


 彩花のことだから、この状況でもパクパク食べられる可能性もある。


 食欲があれば、治るのだってその分早いはずだ。



 そこに希望を持って、理久はレシピを見ながら一生懸命おかゆを作ってみたのだが。



「……すみません、食欲、なくて」



 そのあと、しばらくしてから彩花は目を覚ました。


 おかゆ作りましたけど、食べます? と尋ねて返ってきた言葉がそれだった。


 彩花に食欲がない。


 それだけで十分にショックだったけれど、理久はその本心を覆い隠す。



「わかりました。食欲が出たら食べましょう。ゼリーやプリンはどうですか?」



 問いかけると、彩花は横たわったまま小さく首を振ってしまう。


 しかも、そこでせき込んでしまった。


 痛みが伴いそうなほどの激しい咳に、彼女の身体がくの字に曲がる。


 げほげほげほっ! と傷ましい咳を前に、理久は何も言えなかった。 


 さっきまで咳はなかったのに。


 彩花の表情はさらに辛そうなものに変わり、顔色もずっと悪い。


 薬は飲んだはずなのに、症状は悪化していた。


 はっはっ、と苦しそうに息をして、時折、「兄さん、すみません……」とうわ言のように謝る。



 謝らないでほしい。


 彼女はこの状況を申し訳なく思っているようだが、そんなこと思わないでいいのに。


 けれど彼女にそう伝えても、聞いたのを忘れてしまったかのように繰り返してしまう。



 そして、その中で少しずつ、彩花がなぜ雨の中を雨具もなしで帰ってきたのかが、わかった。


 雨は突然降り出した。


 けれど彩花はちゃんと、雨合羽を用意していたそうだ。


 きちんと雨合羽を着て、自転車で学校から帰宅している最中。


 軒先で、震えていた小学生の女の子を見つけたらしい。



『その子、泣いていたので……。どうしたの、って尋ねたんです。傘を忘れたらしくて、家に帰れなくて……。早く帰らないと怒られるのに、この雨じゃ帰れない……、寒い……、って泣いてたんです……。だからわたしは……、着ている雨合羽をその子に渡して、そのまま……、帰ってきて……』



 その話を聞いて、理久は呻きそうになった。


 本音を言えば、そんな見知らぬ子なんて放っておいて欲しかった。


 だって、彩花は三日後に高校受験を控えているのに。


 そんな他人のために、こんな状況に陥っている。


 たとえ困っている人がいても、自分のために見て見ぬふりをしてほしかった。



 けれど。


 彼女は――、亡くなった父に、言われているのだ。



『気にしないでください。お父さんがいつも言ってるんです。『困った人がいたら、助けてあげなさい』って』



 かつて理久が困っていたときも、彩花はそう言って理久を助けてくれた。


 困った人を放っておけない彼女だからこそ。


 自分の身を顧みず、手を差し伸べられる人だからこそ。


 理久は、三枝彩花という少女に恋をしたのだ。



 でも、こんなの、あんまりだ。


 その場で項垂れて、神様を恨みそうになる。


 なぜ、正しいことをした彩花がこんな目に遭うのか。


 こんなことになってしまうのか。


 それが、理久の心をぐちゃぐちゃにかき乱していた。

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