第66話



 昼間にそんな話をしたものの、もちろんそれを態度に出すわけにはいかない。


 夕方ごろ帰ってきた彩花を含め、四人で夕食を終えたあと。


 理久はいつもどおり風呂に入り、飲み物を求めてキッチンに向かった。


 すると、何やら言い合っている声が廊下まで聞こえてくる。



「お願い、お母さん。お願いお願い」


「嫌よ、お母さんだって怖いもの。ひとりで観てってば」


「だから~……。わたしも怖くてひとりで観られないから、いっしょに観てほしいの」


「なんで怖いとわかってるものを観なくちゃいけないの……。いいじゃない、無理に観なくとも」


「だって、クラスの子たちがみんな観てるし……」



 どうやら彩花と香澄が、珍しく何か言い争っているらしい。


 盗み聞くつもりはないが、邪魔をするのも悪い。


 音を立てずに部屋に入ると、ふたりの言い合いはそのまま続いていた。


 彩花は香澄の腕を両手で掴み、何度も引っ張りながら言う。



「ね? ね? すぐ終わるよ。映画一本だけだもん、そんなに時間掛からないよ」


「えぇー……。お母さんがホラー苦手なの、彩花も知ってるでしょ~……? 嫌なのよ、本当に……。というか、勉強しなよ。受験生なんだし」


「わたしが普段ちゃんと勉強してるの、お母さんも知ってるでしょう? 映画一本くらい、平気だよ」


「まぁ……、それは……。確かに模試の結果も良かったし……」


「ね? だから、お願い! お母さぁん」



 ニコニコしながら、彩花が香澄に甘えている。


 それ自体がとても珍しい。


 だからこそ、香澄は邪険に扱えないようだ。しかし、そのかわいいお願い自体は本当に嫌なようで、困り顔で唸っていた。


 当然と言えば当然なのだが、彩花も本物の家族には家族としての顔を見せる。


 普段の丁寧な彼女ばかり見ている理久からすると、今の表情や態度はとても愛らしくてほっこりした。



「あっ……」



 彩花は、そこで初めて理久に気付いたらしい。


 香澄から手を離し、恥ずかしそうに顔を背けた。なぜか乱れていない髪を直し、挙動不審になっている。


 真っ赤な顔を隠しながら、「お、お風呂、次入ります……」とパタパタ出て行ってしまった。


 かわいい。



 駄々をこねる彼女や、甘える彼女がとても可愛らしかった。


 香澄も同じことを考えているのか、困っていたのにちょっとだけ残念そうな表情をしている。


 目が合って、お互いに苦笑を浮かべた。



「香澄さん、どうかしたんですか?」



 大体は把握しているものの、改めて香澄に尋ねる。


 すると香澄は頬に手をやって、眉を強く顰めた。



「なんかね、学校で流行ってるホラー映画があるんですって。で、今日観るってお友達と約束しちゃったらしくて……。ひとりで観るのは怖いから、いっしょに観てって言われて……」


「観てあげたらいいじゃないですか」


「わたしホラー本当にダメなんだってぇ~。絶対観たくないの、絶対ぃ~」



 うう、と顔色を悪くする香澄。


 理久は平気なので共感できないが、ダメな人はとことんダメらしい。香澄はそのタイプのようだ。


 大人が本気でホラー映画に怯えているという状況に、何だかほのぼのした。


 本人はそれどころではないだろうけど。


 彩花は多少耐性があるものの、ひとりで観るのは怖い、という感じか。


 彼女はげっそりとしていたが、ちらりと理久のほうを見た。



「……ところで。理久くんって、映画好きだったよね。ホラーは平気なほう?」


「まあ。あんまり怖いと思ったことはないです」


「え、ほんと? それなら悪いんだけど、理久くん、よかったら彩花に付き合ってもらっても――」



 光明を見つけた、とばかりに顔を明るくさせた香澄だったが、徐々に言葉尻が弱くなってしまう。


 そのままゆるゆると手を口元に当て、ううん、と唸った。



「いや……。若い男女が夜中にリビングでふたりきりって、よくないか……」


「……あ、そこは、まぁ……。そうだと思います……」


「いやでも、そんなの、今更……? この状況で今更気にしてもしょうがない……?」


「いえ……、そこは、はい、注意してもらったほうがいいです……」



 急に違う問題が出てきて、理久もどぎまぎしてしまう。


 ホラー映画よりもよっぽど大変な問題だ。


 なあなあで慣れられるよりも、ちゃんとそこを分別してもらうほうが理久としても安心だった。


 実際、理久と彩花がふたりきりでホラー映画を観るというシチュエーションは、理久自身が恐れ戦いてしまう。


 そもそも、彩花だって「それはちょっと……」となるに違いない。



「なになに。珍しいね、ふたり揃って。どうかしたの?」



 理久と香澄が難しい顔をしていたせいで、リビングにやってきた父の興味を惹いたようだ。


 事情を説明すると、父は懐かしそうに目を細めた。



「あぁ。そっか、香澄は昔っからこういうのが苦手だったもんな。でも覚えてる? いっしょにホラー映画を観たことあっただろう。それこそ、香澄が観たいって言って来たのに、全然ちゃんと観られなくて……」


「ちょっと! やめてよ、慎兄。そういう昔の話を引っ張り出すの」



 ぱん、と父の腕を叩く香澄。


 普段はふたりとも親の顔をしているのに、昔の話をするときは子供のような表情になる。きっと当時の顔なんだろう。


 毎度ながら、こういうとき息子はどういった顔をしていいかわからない。


 しかし、当の本人はあっけからんとこんな提案をした。



「じゃあ、どうだろう。いっそのこと四人で観るっていうのは」


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