第121話
彩花の様子が、少しおかしい。
それはもしかしたら、彩花をいつもそっと目で追ってしまう理久にしかわからないような、わずかな変化かもしれない。
けれど、ある日を境に彩花は確実に変化していた。
「……………………」
理久はキッチンで洗い物をしながら、彼女を盗み見る。
彩花はリビングで勉強道具を広げていた。
少し詰まっている部分があるとのことで、理久は解説を求められていた。
自分が役に立てるのなら今すぐにでも向かいたいところだが、彩花にはあらかじめ「洗い物が終わったらで大丈夫ですので」と微笑まれている。
なので、理久はせっせと洗い物をこなしているのだが。
ふとしたときに、つい彩花を見てしまう。
彼女は真剣な表情で、ノートと睨めっこしていた。
無意識なのか眉を少しだけひそめて、シャーペンを唇に軽く当てている。
音もなく、髪が数本さらりと揺れた。
その横顔に、今まで何度も見惚れてきたというのに、今だって視線が吸い寄せられてしまう。
好きな人がリビングで、自分のことを待っている。
状況だけ見れば、こんなに幸せなことはないに違いない。
「ん…………」
彩花は小さく声を漏らすと、シャーペンを動かし始めた。
問題が解けたらしい。
ほっと息を吐き、視線が別の場所に向かう。
そのときだった。
ふっと、彩花は顔を上げた。
そのまま、何もない場所に視線を向けたまま、固まってしまう。
……これだ。
彩花は最近、時折この状態になる。
何か、考え込んでいるようだった。
それが今のように勉強中だったら理解できるのだが、食事中やテレビを観ているときでも、時折ふっと意識を別のところに飛ばしている。
ちょうど理久は洗い物が終わったので、彼女のそばに向かった。
隣に腰掛ける。
とはいえ、それほど近くはなく、あくまで適性の距離だが。
「お待たせしました。聞きたいところってどこですか?」
声を掛けると、彩花ははっとした様子でこちらを見る。
理久がそばに来たことにも、気付いてなかったらしい。
照れ隠しのように笑いながら、彩花は参考書を指でなぞった。
「ええと、ここなんですけど……」
彼女は何事もなかったかのように、勉強を再開する。
やはり彩花は、少し変だ。
その理由を、理久は薄々察していた。
だからこそ、「どうかしたんですか?」ともう尋ねるわけにはいかない。知らないふりをして聞き出そうとするなんて、さすがに彼女に失礼だ。
けれど以前、事情を知らないときに尋ねたことがある。
食事中に彩花の手が止まったので、どうかしました? おいしくなかったですか? と。
彼女はそのときも取り繕うように笑い、「いえ、なんでもないです。ご飯はとってもおいしいです」と返事していた。
もし今聞いたとしても、同じような返答があるだけだ。
きっと彩花は、その悩みを理久に明かすことはない。
そして、本来だったら理久はその悩みを知らないままだったろう。
事情を知ったときのことを、理久はそっと思い出す。
ある日、不思議なことに佳奈から連絡がきた。
一応連絡先の交換はしているものの、佳奈とはほとんど連絡を取っていない。
せいぜい、事務的なものくらい。
佳奈から真剣にごめんなさいをされたあの日から、五人で集まることもなかった。
珍しいこともあるものだ、と佳奈からのメッセージを開く。
少しだけ警戒してしまったのは、無理からぬ話だろう。
今まで佳奈とはいろいろあった。
とはいえ、以前のことがあっただけにその警戒は杞憂になるかと思ったが……、まさかの疑念を募らせることになった。
そこには、こう書かれていたからである。
『小山内さん。お会いできませんか。彩花も後藤くんもいないところで。そこまで時間は取らないですし、ファミレスでいいから。でも、ほかの人には内緒にしてほしいです』
「……なんで?」
自室でスマホの画面を見ながら、首を傾げる。
なぜ佳奈から呼び出しを喰らっているのだろう。
しかも、後藤はともかく、彩花もなしだなんて。
妹の友達とふたりきりで会うことなんて、普通ないだろう。
さらに、ほかの人に内緒にしろ、なんて怪しさがすごい。
「ん~……? これなんかまずい呼び出しだったりしないよなぁ……?」
ノコノコ待ち合わせ場所に行ったら、ガタイのいい男子に囲まれたりしないか。
「彩花に手を出したら、こうですよ」なんて言われながら、ひどい目に遭ったりしないか。
いや、さすがにそれは過剰な妄想と言えど、悪いが佳奈には信用がない。
今までのことを考えると、余計に。
とはいえ、特に断る理由もなかった。
佳奈が理久自身に用があるとも思えないから、十中八九彩花に関することだろう。
会いに行く理由は、それだけで十分だ。
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