第84話



 ある日の夜。


 香澄が洗い物をしていたので、理久がその手伝いをしていると。


 風呂の呼び出し音が鳴った。


 今お風呂に入っている人から、ちょっと来てくれ、と呼び出されている。



「あれ? 今入ってるのって、彩花よね?」



 香澄が顔を上げ、風呂のほうを見る。


 先ほど理久が風呂から上がり、いつものように彩花が入っていった。


 呼び出し音なんて滅多に鳴らないために、ふたりして顔を見合わせる。


 そこで理久は、しまった、と思い出した。



「すみません、俺です。シャンプー使い終わったのに、補充するの忘れてました。俺、ちょっと渡しに――、行くのはまずいですね……」


「そうね……、本当に行くのかと思ってびっくりしちゃった……」



 先走って向かいそうになったが、赤い顔で足を止める。


 香澄も変な格好で固まっていた。


 ここは香澄に任せるしかない。



「すみません、香澄さん……。行ってもらっていいですか……」


「はいはい、大丈夫ですよ」



 パタパタとお風呂に向かった彼女を見送り、はあ、とため息を吐く。


 香澄がいてくれたからよかったものの、そうじゃなかったらまずかった。


 こちらがいくら扉越しにシャンプーを渡そうとしても、限界がある。


 ちらりとでも見えてしまったら、その時点で――。



「バカたれが!」



 不埒な考えが浮かびそうになり、全力で頬をビンタする。


 頬は赤くなっているだろうし、痛みは強いが、そのおかげで妄想はかき消えていった。


 何を考えているんだ、馬鹿者め。


 大体、香澄がいなければ彩花も呼び出しボタンを押さないだろう。


 頭を振ってから、理久は洗い物を再開させる。



「……それにしても」



 香澄がなかなか戻ってこない。


 用はシャンプーだと思っていたのが、別のものだったのだろうか。


 ちょっとだけ心配になる。


 かといって風呂場に様子を見に行くわけにはいかないので、キッチンから廊下を確認した。


 脱衣所の扉は少しだけ開いており、そこで香澄と彩花が何かを話しているのは聞こえてくる。



 話の内容まではわからないが、意思疎通は取れているようだ。


 問題なさそう、と理久はキッチンに戻った。



 しばらくしてから、香澄がようやく戻ってくる。


 しかしその表情は浮かないもので、むむむ……、という声が聞こえてきそうなものだった。


 理久は首を傾げる。



「ありがとうございます。遅かったですけど、シャンプーじゃなかったんですか?」


「いや、シャンプーで合っていたんだけど……、ううん……」



 香澄は頭を抱えながら、理久の顔を見た。


 その目がジトッとしたものになっている。 


 困惑していると、香澄はおずおずと理久の肩に手を置いた。



「理久くん。洗い物が終わったあとも、ちょっとここにいてくれる……?」


「いい、ですけど……」



 なんだろう……、何とも不安になる言葉だった。


 どうやら彩花のことに関わりがあるようで、「お風呂から出てくるのを待っててね」と言われてしまう。



 風呂に彩花と、理久には話の内容が全く想像がつかない。


 いくら何でも、シャンプーを忘れたくらいで家族裁判には発展しないだろうし。


 ほどなくして、風呂上がりの彩花がリビングに入ってきた。



「お風呂、頂きました……」



 ほこほこになったパジャマ姿の彩花は、とても艶っぽい。


 長い髪は乾かしても少しだけしっとりしていて、普段以上に綺麗だった。


 顔もほのかに赤く染まっていて、可愛らしいことこの上ない。


 けれど、彼女はなぜか気まずそうにお腹に手をやっていた。


 そんな彩花に、香澄は静かに言葉を突き付ける。



「彩花。座って」


「はい……」


 


 とぼとぼとダイニングテーブルの椅子に腰掛ける彩花。


 それを指示した香澄は、理久のほうに目を向けた。



「理久くんも、座ってくれる?」


「あ、はい……」



 異様な空気に呑まれながら、理久も同じように座った。


 完全に親が子供を説教するときのソレだ。


 本当に家族裁判が始まるのだろうか。


 三枝家では、それほどシャンプーの補充忘れが重罪なのだろうか、と不安に思う。


 香澄も定位置につき、ゆっくりと口を開いた。

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