第29話



「俺も彩花さんの立場だったら、足りなくても言えないかもしれない」



 申し訳なさが先立って、おかわり、の一言が言えない。 


 満足するまで食べられない。


 何せ、いっしょに食べる理久が小食で、食事量が少ない。食にもそこまで執着がない。


 そんな相手よりも、もっと食べたい、と言うには彼女の状況は複雑すぎる。


 ならば、理久のほうから強く、「もっと食べてください」と言うべきだったのかもしれない。



 けれど、彼女はそれに応じるだろうか。


 応じたところで、根本的な解決にはならない。


 申し訳ない、と思いながら茶碗を差し出すだけで、その心労は確実に彩花を蝕む。


 それに。 


 理久がそれをできなかったのは、赤の他人である彼女に対し、踏み込むことを恐れたからだ。


 自分を強く持ってこの場に来た彼女に、生半可なことは言えない。言う権利もない。そんな思いもあったかもしれない。


 彩花の姿勢は、ここに来てからずっと一貫していた。


 それをようやく、理久は指摘する。



「彩花さんは、いつも物凄く遠慮してる。気を遣ってるよね。家事を多くやろうとするのも、朝ちゃんと起きるのも、風呂に最後に入るのも。居候だから、とか、家やお金を出してもらってる立場だから、とか。そんなふうに考えてるんじゃないかと思って」



 理久の言葉に、彩花は顔を上げる。


 その表情は悲痛な色に染まっていたが、決して否定しようとはしなかった。


 何もかも受け入れて、彼女はこの場にいるのだ。


 家の中でもちゃんとした服に着替えて、見咎められないように丁寧な生活をして。


 お腹いっぱい食べることも放棄して。


 大学の費用も自分で稼ぐと決めて。



 家の中でも、決して気を抜くことなく。


 欲求を抑えながら、彩花はこの生活を続けている。


 それを指摘すると、彩花は静かに口を開いた。



「そのとおり、ですから……。わたしや母は、この家に置いてもらってる立場です。慎吾さんのお家を借り、小山内さんの生活を圧迫し、そのうえで生活させてもらってます。だから少しでもお手伝いしたいですし、これ以上を求めるなんて、とても……」



 彩花は小さな肩をさらに小さくさせて、目を伏せた。


 哀憐の表情で、じっと己の手を見ている。


 居候だから。


 置いてもらっている立場だから、なんでも我慢するっていうのか。


 食事も、自由も、身体さえも。 


 満足することはおろか、差し出すことさえ彼女は覚悟している。



 彩花の状況を考えれば、仕方がないのかもしれない。


 だが、父や香澄はこんな状況を絶対に望んでいない。


 父たちといっしょにいれば、彩花の心境も少しずつ変わっていたのかもしれない。


 けれど彩花のそばにいるのは、いつだって理久だけだ。


 ふたりとは、過ごす時間が圧倒的に違う。


 夏休みであることや、理久自身の未熟さがこの状況を作ってしまった。 



 だからこれは、理久の責任だ。


 理久が、彩花とは他人としての関係を保とうとしたから。


 だって、おかしい。


 突然、先日初めて会ったばかりの女の子と、中学生の女子と、家族になれ、だなんて。


 彼女の兄になるだなんて。


 おこがましいと思うし、何様だ、とも思う。


 戸惑うばかりで全く受け入れられない。



 それはきっと、彼女も同じだったから適切な距離を保とうとしていた。


 理久は赤の他人。住ませてもらっている家の、一人息子。


 決して兄ではない。


 そう思う彩花と理久の思考は、よく似ていると思う。


 でもひとつだけ、決定的に違うことがある。


 


 彩花のほうから、家族として歩み寄ることは決してない。


 彼女自身は、自分を居候だと感じているのだから。


 理久以上に、おこがましい、図々しいと感じるはずなのだ。



 だからこそ、彼女との関係を変えようと言うのなら――、理久が前に進むしかなかった。



「彩花さん」



 彼女の名前を呼ぶ。


 彩花は顔を上げて、不安そうな瞳をこちらに向けていた。


 今から自分はどうなるのだろう、という思いが滲み出ている。


 そんな不安はもうたくさんだ。


 そういったものから逃がれるために、父たちは再婚したというのに。



「彩花さんがそう感じるのも仕方がないと思います。こんなところに急に連れてこられてさ。知らない男子を兄と思え、知らないおじさんを父と思え、本当の家みたいに過ごしてほしい。そんなことは無理だよ。俺だって、彩花さんを急に妹だと思え、なんて無理だ。でもさ」



 ぎゅっと拳を握る。


 父親の話を思い出して、彼女の境遇が頭の中に蘇って、激情がせり上がってきた。


 それを感情のままに吐き出さないよう、拳を強く強く握る。



「彩花さんは、めちゃくちゃ辛いことがあったわけでしょ。自分たちの家がなくなって、お父さんまでいなくなって。いろんなものを失って、ここに来たわけでしょ。来たくて来たわけじゃない。戻りたいって、思ってるよね。そりゃそうだよ。知らない他人と過ごして、自分の家とは思えないほど遠慮して、あんな……、あんな食パン一枚食べるのに……、必死になって隠してさ……」



 あぁダメだ。


 彩花のことになると、どこまでも感情的になってしまう。


 大して知らない相手のくせに、こんなふうに辛くなって、泣き出しそうになって。



 そんなの、彩花だって迷惑なはずなのに。


 でも、それでも伝えずにはいられなかった。


 声が震えようとも、格好悪くても、これだけは彼女に伝えなきゃ、自分たちは前に進めない。


 はっ、と吐く息は震え、涙に染まっているのが自分でもわかる。


 それでも、伝えた。

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