第126話

 ある日の夕方。


 理久は玄関の前で、大きなため息を吐いた。


 さっきから聞こえる、ザァァァァ……、という音は、何とも耳障りだった。


 ぶるりと、身体が震える。


 まだ夕方だというのに、外はすっかり真っ暗だ。



「あぁもう、降るのは夜からって言ってたのになぁ……」



 冷えた身体を擦ったあと、理久は折り畳み傘から水気を取る。あとで干しておこう。


 その間も、勢いよく雨は降り続けていた。


 理久は玄関の扉を開ける。


 冷たい空気がするりと家の中にまで入っていった。



「るかちゃんが折り畳み持ってて、助かった……」



 家を出るときは快晴だったので、理久は傘を持たずに学校に行ってしまった。


 それが帰り際、土砂降りの雨に降られてしまったのだ。


 折り畳み傘を持っていたるかと身体をくっつけて帰り、るかの家まで寄ったあと、そのまま傘を借りて帰ってきた。


 傘を差していても、随分と濡れてしまっている。風も強いせいだ。



「彩花さん、大丈夫かな……」



 余裕がなくて自転車の有無まで見ていないが、家に電気が点いていないので、まだ帰宅していないのだろう。


 彩花は自転車通学なので、雨の日は雨合羽を着ていく。


 だが、朝は晴れていた。ちゃんと持って行ったのだろうか。


 心配になりながら家の中に入ると、違和感にはすぐに気付いた。



「え……」



 廊下が、濡れている。


 水滴が点々とリビングに続いていた。


 そこで、ようやく気付く。


 玄関には、既に彩花のローファーが置かれていたのだ。


 当然のように水浸しになっていて、小さな水たまりを作っている。


 それを見た瞬間、嫌な予感が駆け抜けた。


 彩花は既に帰宅している。


 しかし、家の電気はついていない。


 これだけの雨の中帰宅すれば、濡れるのはしょうがない。


 けれど、彩花が廊下に水滴を落としたまま、放置するとは思えなかった。



「彩花、さん……?」



 リビングの扉を開く。


 リビングも暗いままだ。


 人の気配はない。


 当然だ、水滴はリビングのほうには続いていない。


 お風呂場に向かって、足跡を作っていた。



 ……入浴中だというのなら、それでもいい。


 雨合羽を着ていても、靴までは守れない。それで足がずぶぬれになって、とにもかくにもお風呂場に直行したのなら。


 一旦シャワーを浴びてから廊下を拭こうと思っていたのに、理久の間が悪くて現状が見つかってしまったのなら。


 それだったら、いい。



「彩花さん」


 


 お風呂場の扉を、コンコンとノックする。


 申し訳ないと思いつつも、耳を澄ました。


 水音は聞こえない。身じろぎする音も聞こえない。


 着替え中や、風呂に入っている様子はなかった。


 もう一度、強めにノックをしてから、「彩花さん。開けますよ」と声を上げた。


 それでも、返事はなかった。


 これで、中にだれもいなかったら、笑い話。


 それでも、いい。


 


 覚悟を決めて、理久は扉を開けた。


 そこにある光景を一瞬、理久は理解できなかった。



 見慣れたお風呂場の脱衣所には、彩花がいた。


 そばにはずぶ濡れのセーラー服が無造作に脱ぎ捨てられており、こんな状況でなければ目を逸らすほどに扇情的だったかもしれない。


 でも彩花は、普段なら絶対にこんなふうに制服を脱ぎ散らすことはない。


 そばにはタオルが広げられている。


 


 そして彩花は、その場でうずくまっていた。


 かろうじて着替えることはできたのか、見慣れたパジャマを着ている。


 けれど、そこで力尽きたようにぴくりとも動かない。


 床に広がった長い髪が、ぞっとするほどに不安を煽った。



「あ……、彩花さん! 彩花さん!?」



 彼女のそばに駆け寄る。


 ブレーキが掛かることなく彼女の肩に触れると、驚くくらいに冷え切っていた。


 髪も濡れたままだ。


 そして、ガタガタと震えている。


 彩花はこの雨の中、雨具もなく帰ってきたらしい。


 どうにか帰ってきて着替えることはできたけれど、そこで限界を迎えてしまったのか。


 


 理久は真っ青になる。


 真冬の雨は異常に冷たく、彼女の体温と体力をあっという間に奪い取ってしまった。


 着替えるのがせいぜいで、風呂場で動けなくなるほど、彼女は体調を大きく崩している。



 高校の試験は。


 三日後に控えているというのに。



「……ぁ、にい、さん……。すみません、床……、濡れた、ままで……」



 理久に気が付いたのか、彩花は熱い息でそんなことを言う。


 顔は真っ赤になっていて、目はぼんやりとしていた。


 息苦しいのが、表情だけで伝わってくる。


 そんな顔を見て、理久は泣き出してしまいそうだ。この状況で、気にするのが家のことなんて。



「そんなことはいいからっ。ごめん、触りますよ。とにかく、部屋に行きましょう……、布団に横になってください……!」



 彩花の身体を起こそうとするが、彼女はぐったりとしていて異常に重く感じた。


 華奢な彼女は、それほど体重があるわけじゃない。


 それでも脱力していると、人間の身体はここまで重くなってしまうらしい。



 理久の体格はそれほど大きくなく、そこまで力には恵まれていない。


 普段の理久なら、どうにか肩を抱いて連れていくか、何とかおんぶに持っていくくらいがせいぜいだ。


 けれど、一刻も早く、彩花をベッドに連れて行きたかった。


 自分でも驚くほどに力が出て、彼女の身体を抱える。


 いわゆるお姫様だっこだが、そんなことを考える余裕はなかったし、この火事場のバカ力もどれだけ続くかわからない。


 ただ、彩花の体温が異様に冷たく感じて、恐ろしかった。



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