好きな人が義妹になった
西織
好きな人が義妹になった
第1話
カラカラカラ……、と乾いた音が聞こえる。
ひっくり返ったタイヤが空回りする音だった。
その音を理久――、小山内理久は呆然とした状態で聞いていた。
ある晴れた、土曜日の昼のことである。
「……今日は、天気が良いな……」
完全に現実逃避で、理久はそう呟いていた。
さっきまで前を向いていたはずなのに、いつの間にか空を見上げている。
理由は簡単だ。
田んぼに、落ちた。
自転車で。
草むらから猫か何かが急に飛び出し、自転車の前を横切ったのだ。
それを避けた先が、水を張った田んぼだった。
抵抗虚しく、理久は自転車ごと田んぼに飛び込むことになってしまった。
「あぁ……」
腰から下、そして両手がやわらかいドロドロの地面に取り込まれている。
そばには逆さまに刺さった自転車。
全身が泥だらけで、自転車もスマホも財布も田んぼに沈んだ。
ここまで救いようのない状況になると、ただ呆然とするしかない。
幸いなのは、田んぼは水を張ってあるだけで、田植えまではされてなさそうなところだろうか。
「……こういうのって、どこに連絡したらいいんだろう……」
青い空を見上げながら、ひとり呟く。
これからのことを思うと、憂鬱で仕方がなかった。
まず、泥だらけの状態でここから這い出て、自転車を救出する。一旦家に帰って、風呂に入らなきゃ。でも泥だらけのままでは家に入れないから、どうしよう……、あぁ待ち合わせに遅れるって連絡しなきゃ……。スマホは壊れてるだろうから家の電話……、あ、番号わからない……。田んぼに突っ込んでしまったことも持ち主に謝らなきゃ……。
「はあ……」
考えている途中で、身体から力が抜けてしまう。
そのせいで理久は、ただただ空を見上げてしまっていた。
田舎の田んぼ道で、辺りに人影は見えない。
夕方になれば犬の散歩に出てくる人たちも多いが、今は見渡すかぎり人の姿がない。
人目がないからこそ、理久はなかなかその場から動けなかった。
しかし。
「わ……、わぁ! だ、大丈夫ですか……!?」
そんな頓狂な声が後ろから聞こえて、ビクッと振り返る。
そこには、女の子が立っていた。
自転車を漕いでいたらしいが、慌てて降りたせいで自転車がガシャン、と横たわってしまう。
しかし、それも全く気にせずに、彼女は急いで駆け寄ってきた。
綺麗な子だった。
歩くたびに、彼女の長い髪が陽の光を反射する。その光景に目が奪われた。美しい髪が一本一本輝き、揺れている。
幼さを残しながらも完成しているような、矛盾めいた見目麗しい顔立ち。
大きな瞳はくりくりとしていて、その奥に吸い込まれそうな輝きを持つ。まつ毛が己の長さを主張していた。
つんと上を向いた鼻に、小さくて色素の薄い唇。真っ白でみずみずしい肌。
触れることは絶対に許されないような、神聖なものすら感じさせた。
それは、その制服姿も理由のひとつだろう。
真っ白な生地に紺色の襟がついた、オーソドックなセーラー服。
同じ色のスカートは、膝が隠れる位置で揺れている。
胸元に結ばれたスカーフは深い赤色で、より白を際立たせ、全体の調和をしているように見えた。
高校生と違い、スカートも派手に折られることはなく、全体的に地味、下手をすれば野暮ったく見えるかもしれない制服姿。
しかし、彼女の場合はそれを品格に変えていた。
白色も紺色も、深い赤い色も。
普通のセーラー服が、やけに上品なものに見える。
深窓の令嬢、なんて言葉が理久の頭に浮かぶ。清楚なお嬢様。それは彼女が纏う品格がそう思わせるのだろうか。
なんて、なんて綺麗な子なんだろう。
理久がまるで夢のような光景に見惚れていると――、彼女は何の躊躇もなく田んぼに足を突っ込んだ。
「え――、えぇっ!?」
あまりのことに、我に返った。
言うまでもなく、田んぼは水に浸かっている。地面はドロドロだ。
そのせいで理久は泥だらけ、顔も髪も服も泥をかぶっている。
そんな場所に、彼女はローファーで立ち入ったのだ。
泥が跳ね、足やスカートが汚れていく。
「大丈夫ですか、ケガはありませんかっ……!?」
彼女はなおもこちらに駆け寄ってくる。
自分の身体や服が汚れることも厭わず、表情には心配の色を示していた。
むしろ、理久が慌てる羽目になる。
彼女は、理久がケガで動けないと思っているのかもしれない。だから血相を変えているのか。
理久は手を挙げて、急いで口を開いた。
「だ、大丈夫です! ケガはないです、だからお気になさらず……っ!」
そう伝えると、少女は明らかにほっとした表情になった。
けれど不可解なことに、まだこちらに近付いてくる。
穏やかな表情を浮かべて、手を差してくるのだ。
「そうですか、よかったです。起き上がれますか?」
「――――――っ」
笑顔でこちらに手を向ける彼女に、息を呑む。
美しいその姿とその手の意味が、理久の頭を痺れさせていた。
この状況で、何の抵抗もなく手を出せるのか。
当然ながら、理久はその手を辞退した。
「いや、そんな! 汚れますから! あ、あがってください……っ!」
そう、彼女の着ている服は白いセーラー服。
もう既に泥がところどころに跳ねているし、ローファーや靴下はとんでもないことになっているだろう。
神聖なものすら感じるその白が、泥で汚れている。
理久の手を取れば、それはさらにひどくなる。
だというのに、彼女はくすりと笑った。
「でももう、汚れてしまいましたよ。今更ですから」
穏やかに笑う彼女に、理久は目を奪われてしまう。
つい、ぼんやりしたまま手を差し出してしまった。
彼女は泥だらけの手をしっかりと握る。
女の子らしい小さい手だったけれど、やわらかく温かな手だった。
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