第2話:神原陽葵という美少女
「それでは、気をつけて帰るように」
委員長の号令とともに終礼が終わると、教室内は放課後特有の騒々しさに包まれた。
七限の授業を耐え抜いた要は、大きく息をつき脱力した。窓ガラスから入り込む涼しい風が肌をなでる。
要は部活も委員会もやっていないため、今から帰宅準備をするところだ。
ふと、こちらに近づいてくる人影が目に入る。
「かなめ〜」
眠そうに声をかけてきたのは要の友人、
要が誰かと帰る時は大抵この男と一緒だ。しかし、彼が終礼後すぐに要のところに来るのは、用事などで帰宅出来ない時である。
「今日はマミと行くところがあるから、楽しい下校はまた今度な」
「ごめんね〜要、今日はひーくんもらってくね!」
響をひーくんと呼んでいる女子は
優しくて人当たりもよく、誰とでもすぐに距離を詰める
先の会話から察した人もいるだろうが、この二人は交際関係にある。人前でイチャつくことも多い。そのため一年生カップルの中で一番仲がいいと、度々話題になっているそうな。
「はいはい。あとおまえら、できれば俺を巻き込んでイチャつくな。俺まで嫉妬の目を向けられてるようで、なんかいたたまれなくなってくる」
「善処する」
「あのなぁ……」
これを言うのは三回目くらいなのだが……口では善処すると言っていても、やめるつもりは毛頭ないようだ。
「まあまた明日な! 寄り道せずにまっすぐ帰れよ〜」
自分たちは寄り道していくつもりのくせに……などと思っているうちに、二人は教室を去って行った。
響がいれば教室で駄弁ることもあるのだが、これでは長居する理由もない。残された要は、机の横に掛けてある黒いリュックを取った。明日の予定を確認し、置いていっていいものとそうでないものを選別する。
要には、決して響や舞海のような友達がいないわけではない。しかし、ほとんどの人は部活や委員会、もしくは先程の響と舞海のように遊びに行く。よって教室に残っているのは、要のように帰り支度をしている人か、机を囲んで談笑している女子のグループくらいだった。
「……帰るか」
少し重くなったリュックを担ぎ、教室の戸をくぐった。
校舎を出ると、少しだけ強い風が吹いていた。いつもは聞こえる吹奏楽部の楽器の音も、運動部の喧騒も風に流され聞こえない。代わりに、木の葉がざわめく音が、要の鼓膜を叩いていた。
「……なんだ?」
ふと、いつもより校庭が盛り上がっている事に気がついた。見れば、周囲の人々の視線が一つの場所に集まっている。視線を追ってみると、そこには一人の女子がいた。
髪の長さと制服の形を見る限り女子だろうか。手には今日の天気に不相応な傘が握られている。彼女の置き傘だろうか。邪魔にならない脇で佇んでいるところを見ると、人を待っているのだろうか。しきりに辺りを見回している。
しかし、あれだけ注目される人と、要は知り合った覚えはない。赤の他人に時間を割くのもなんだか気が向かない。通り過ぎることにした、そのときだった。
――要がこの先、忘れることなどないであろう出来事が起こったのは。
「あっ、あの!」
「……ん?」
その鈴のように涼しく、だが振り絞ったような声は、要の聴神経を刺激した。何かと思い声のした方を見れば、注目を集めていた女子と視線が絡む。偶然かとも思ったが、その大きな金茶色の目は、少しもぶれることなく要のことを捉えている。
(ん? 俺?)
不幸と言うべきか、要と女の子の距離は差程離れていたわけではない。この場をどう切り抜けようか考えている間に、女の子は要の目前まで迫ってきていた。
――視線を向けられることに慣れていなかったのか、ほんのりと頬を染めながら。
「あの……えっと……」
「あっ……き、君、名前は?」
要はたじたじになりながら女の子に尋ねた。初対面の人に対してアガってしまうのは、悪い癖である。
女の子はなかなか切り出せないといった風にもじもじとしている。要も目線をあちこちに惑わせながら、答えを待っていた。
しかし、その子の口からもれた言葉は、予想の斜め上をいっているものだった。
「み、神原陽葵といいます!!」
なるほど、神原陽葵ね。
みはら……ひまり?
神原陽葵。
要が通う羽星高校の中で一番と言われるほどの美少女の名前である。言い寄られた男の人数は数知れず、内訳は同学年の一年生から二つ上の三年生まで、様々である。
しかし、OKを貰った人はついぞいないらしい。どんな人からの告白も、全て「ごめんなさい」と一蹴しているそうな。
要も神原陽葵を間近で見たことはなく、それ故に受けるインパクトは大きかった。
容姿を一言で形容するなら、「人形のよう」。
腰まで伸びた、しかしきちんと手入れがなされている栗色の髪。先ほど要を見つめた、金茶色の大きな瞳。それを縁取る、細く長いまつ毛。くびれや凹凸のある体。
全てが作り物のように完璧で、「学校一」と呼ばれるのも頷ける。
だからこそ、と言うべきか。要はなぜ、この「学校一の美少女」に呼び止められているのか、見当もつかなかった。かといって、ずっと校庭にいる人々の視線を浴び続けるのもごめんである。
(何かしたかな……)
そう考えつつ、要は陽葵に用件を尋ねた。
「……何の用だ」
要が切り出すと、陽葵は一瞬身を震わせた。要の顔を見上げ、またすぐに目線を外す。迷いを表すように、持っている黒い傘を握りしめていた。空いた片方の手指で、艶のある髪をくるくると巻いている。
数刻待っていると、陽葵は言いにくそうにおずおずと答えた。形のいい桜色の唇が開く。
「か、傘を……」
「へっ?」
紡がれた言葉は意外なものだった。思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
なるほど、今日の天気にマッチしていない傘は、人に渡すためのものだったらしい。それなら持っているのも頷ける。言動と行動からして、要に渡そうとしているようだが……
「……人違いじゃないかな」
十中八九人違いだろう。要はこの少女に傘を貸すどころか、会話を交わしたことすらないのだ。見たことだって今の今まで無かった。
傘もよくある黒色のものだし、きっと誰かと間違えたのだろう。
しかし、要はこの認識を、次の陽葵の発言によって改めることになる。
「人違いなんかじゃありません! 榎本さんはあの雨の日、私を助け、傘とタオルを差し出してくれました!」
……なに?
確かに要は少し前に、家の近くの公園で女の子を助けたことがある。助けたというか、家の近くで騒ぎを起こされるのを嫌い、女子達を追い払おうとしただけなのだが……
あの時のいじめられていた女子が、神原陽葵?
「あの時いじめられていたのは、神原、おまえなのか……?」
要がそう言うと、神原の顔はぱっと華やぎ、笑みを帯びた。
「お、覚えててくれましたか! あの時貸して頂いた傘です! お納めください!」
陽葵は献上するように緩く腰を折り、黒い傘を差し出した。長い栗色の髪が風に揺れる。
返さなくていいと言ったのに返しに来るとは、律義なやつだ。そう思いつつも特に受け取らない理由もないので、素直に受け取っておく。彼女ほどの美少女に頭を下げさせるとは何者だ、という周囲の視線が刺さる前に。要が傘を取れば、陽葵はパッと顔を上げ笑いかけた。
「私、榎本さんにあの時のお礼がしたくて! 何がいいですか?」
「別にお礼を求めてやったことじゃないからいい。傘、わざわざ返しに来てくれてありがとう。じゃ、俺はこれで」
要は陽葵にそう告げると、逃げるようにその場から立ち去ろうとした。しかし陽葵は食い下がる。要の足の向く方に割り込み、見上げてくる。
「そんなこと言わず! なんなりとお申し付けください!」
「いやほんとにいいから」
「私の気が済みません!だからほら!なんでもどうぞ!」
こうなれば
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