第75話:夢じゃなかった

 「一緒に寝よ?」

「——!」

 寝ぼけているのか。

 俺を誰か別の人と勘違いしているのか。

 いきなりベッドに引き込まれた要は、陽葵の横で声にならない声を漏らした。とろけた瞳に見つめられ、痺れてしまったように喉も体も動こうとしない。寝起きの体に血が巡っていき、体温が上昇していく。きっと間の抜けた表情が、陽葵の網膜には映っていることだろう。


 陽葵は横になった要の胸板に額をつけると、満足そうに目を閉じる。

 陽葵のことだ、どうせ寝ぼけているのだろう。要とは対照的に憎たらしいほど安穏な顔をしている。

 きっと今なら、概ね何をしても陽葵は気にするまい。要を誘惑するように、陽葵はなおも要に擦り寄ってくる。心臓の鼓動は加速し、空いている両手を陽葵の両頬に伸ばす。

 「お! き! ろ!」

「!?」

 すんでのところで理性が本能に打ち勝ち、陽葵の誘惑を遠ざけることに成功した。陽葵も突然のことに驚いたのか、涙を輝かせながら目をひらく。

 「夢じゃ、ない?」

「夢? 寝ぼけてんのか?」

「!?!?!?!?」

 要に負けじと加熱する陽葵の体温を、要は手のひらを通して感じていた。





 「大変申し訳ありませんでした」

 要の寝室で、陽葵は見事な土下座を披露していた。

 自分がいるのは夢の中などではなく現実だ、と理解してからの彼女の行動は早かった。目にも留まらぬ早さで要の布団を引き剥がし、ベッドから降りたと思えば次の瞬間には膝と手のひらを床につけていた。

 「その、昨日の映画で寝ちゃったことは覚えてるんですけど、なんやかんやで自分の部屋に帰っているものかと......すみません」

「わかったから、もういいよ」

 要は陽葵に頭をあげるよう促す。


 状況説明のため早めに起きようと六時三十分にアラームをセットしていたのだが、それより先にリビングに置きっぱなしだった陽葵のスマホに起こされた。起きているか確認しに部屋へ行ったところ、夢と現実を混同している陽葵にベッドに引き込まれた、というわけだ。


 「......その、この部屋までは要くんが?」

「まあな。頑張って運んだ」

「!? 重くなかったですか......!」

「全然。思ってたより軽かったぞ」

「それならよかったんですが......」

 陽葵としては、どうやって運ばれたのかが非常に気になるところである。背中におぶって運んだのか、それとも多くの女性が憧れるあの運び方か。どちらにせよ申し訳ないのは変わらない。後者なら恥ずかしさと嬉しさが上乗せされるのだが。ただでさえ最大級の羞恥を抱えている最中なので、これはまたの機会に聞くことにする。これ以上はキャパオーバーだ。朝から頭がパンクしてしまう。


 「とりあえず、一旦自分の部屋に戻るか? 俺も着替えとか、まだ今日の準備もできていないし」

「そ、そうですね、そうしましょっか」

 要はベッドから、陽葵は床から膝をついて起立した。

 「じゃあ、いつもの時間くらいにまた来ますね」

「おう、また後でな」

 ぎこちなく微笑を浮かべ、陽葵は部屋を後にした。しばらく待っているとドアの鍵を開け、出ていく音が聞こえる。


 「......なんか、朝から疲れた」

要は顔に手を当てため息をつく。ソファでの寝心地は意外と悪くなく、身体的な疲れが残っているわけではないのだが。

 陽葵が飛び出したかけ布団をいそいそと整える。自分の匂いに混じって女性の香りがすることに妙な羞恥を覚えてしまうのは、思春期の健全な男子としては真っ当な反応だろう。

——さっきまで、陽葵が寝ていたんだな。

 などと妙なことを考え始めてしまった脳に喝を入れ、言い表せない引力を放つ布団から早急に離れることにする。

 時計を見ると、まだ六時を少し回ったところだ。いつもならまだ寝ているところだが、今日は陽葵のせいというべきか、すでに脳が覚醒してしまった。それに今ベッドに入っても、すぐに寝つける気はしない。

 要は仕方なしに古典の教科書を取り出し、昨日できなかった予習を行うことにした。今夜寝るときに悶えるであろうことは、想像に難くない。



 「夢じゃ、なかった......」

 501号室の扉を閉め、陽葵は扉を背にしてヘナヘナとへたり込んだ。血の気が引こうとしない顔を両手で覆い、自責の念を口から漏らす。

「どんな顔して会えばいいのぉ……」

三つの部屋を隔てた二人は、似たような形相で長い溜め息をついていた。

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