幕間:小さな冒険

夏真っ盛りということもあり、朝八時前なのに気温は高い。日はさんさんと照り、外気はじっとりと蒸れている。部屋から飛び出せば、解放廊下に差し込む日照りに目を細め、思わず眼の前に手をかざした。


解放廊下を歩く一つの人影は、長い栗色の髪をなびかせている。その足取りは暑さを感じさせないほど軽く、鼻歌が聞こえてきそうだ。口元には笑みが見て取れる。

少女は目的のドアの前に到着すると、あがりかけた右手を止めた。

いつもならインターホンを押して部屋の主人を呼び出すのだが、今日からはその必要がない。昨日この部屋に住む少年に、合鍵を貰ったからだ。

ポケットから羊のキーホルダーがついたそれを取り出す。鍵穴に差し込むと、微かな抵抗感を残し突き刺さる。慎重に回すと、『ガチン』という音とともに錠は解かれた。


「おじゃましま〜す……」

音をたてないよう注意しながら、少女は恐る恐るドアを開けた。

一応断ってはいるが、本人にも聞こえるか微妙なボリュームだ。理由は寝ているであろう部屋の主を起こさないためである。不審者のような挙動をしているのも、同じ理由だ。

鍵穴から引き抜いた鍵をポケットにしまい、室内の様子を伺う。

いつもよりだいぶ早めに訪れたこの505号室は、物音一つなくしんとしている。冷房がつきっぱなしなのか、外に比べれば少し肌寒いくらいだ。少女の部屋とは違う、植物のような香りがする。最早安心感を覚えるほど慣れた匂いだ。


「あっ、キンちゃん!」

少女は昨日増えた家族に声をかけた。


今日いつもより早く来たのは、この金魚の様子が気になったからである。

金魚の飼い主は少女だが、諸事情によって少年の部屋に住んでいる。ラックの中段に置かれた金魚鉢からは、ろ過装置の音が微かに聞こえてくる。

金魚鉢の中では、比較的小柄な金魚が朝から活発に泳いでいる。ペットは飼い主に似るというが、早くもその片鱗が見える。昨日買ってきた餌をあげてからというもの、ずっとこの調子だ。

その姿を見て、少女は顔を綻ばせる。

金魚からすれば移動しているだけなのに関心を向けられるようなもので、変な話である。少女にはわからないが、小さい子を持つ親とはこんな気持ちなのだろうか。


ともあれ、今日早くからここに来た目的は達成である。

――二つのうち片方は。


少女は金魚鉢から目を離すと、部屋の一角を見た。視線の先には、銀の取っ手が付いたドア。何の変哲もないドアだが、少女には不思議な魔力を放っているように見える。

このドアの先には、この部屋の主人が眠っている。少女が鍵を開けてもなんだなんだと出てこないことから、それは明らかだ。


少女はおずおずとノブに手をかける。このまま少し力を込めれば、ドアは簡単に開くだろう。

しかし、もし寝顔を見たことがバレようものなら、この少年はしばらく口を聞いてくれないかもしれない。正直今まさにそれを実行しようとしている少女からしてみても、寝顔を見られるのは相当に恥ずかしい。


だがそうとわかっていても、少女の細い手がドアノブから離れることはなかった。力を加えれば、ドアノブはくるりと四十五度ほど回転する。

押してみると、先程開けた玄関の鉄のドアより、その木製のドアは重く感じた。それでも好奇心を抑えられず、しかし音がならないよう気をつけながら押し開く。


「……ふふっ」

思ったよりあどけない寝顔に、思わず笑みをこぼしてしまう。普段は気を張っているのに、寝ているところを見ると年相応だ。


少女はスマホを取ろうとポケットに手を伸ばすが、思い留まりその手を止める。

このいつもは見られない無防備な寝顔を写真に収められないのは残念だが、シャッター音で少年の目が覚めてしまっては元も子もない。楽しいことは楽しいことのうちに留めておくのが賢い判断だろう。


その代わりと言うべきか、少女は眉尻を下げて遺憾いかんを示すと、この寝顔を忘れるまいともう一度少年の方を見た。その頬に触れてみたいという湧き上がる衝動を抑え、五感の一つに力を入れる。


「……よしっ」

少女は己の網膜にその姿が焼き付いたところで、すっと身を翻した。できることならこのままこの顔を見ていたいが、もう少しすると彼も起きるだろう。もしかすると、そのタイミングはあと一分後かもしれない。そうなる前には、この居心地のいい部屋から離脱しなければならない。少女は忍び足で歩きだした。

しかし、名残惜しそうな背中とは裏腹に、その表情は充足と幸福に満ちていた。

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