第31話:準備

祭りが始まる一時間と少し前。要と陽葵は準備に勤しんでいた。要は自分の部屋で、陽葵はリビングで、それぞれ浴衣の着付けをしている。それぞれの部屋にわかれてから、かれこれ二十五分が経過しようとしていた。女性は準備に時間がかかると言うし、仕方がないことだろう。

「…………」

要は浴衣の裾を摘み、軽く持ち上げて複雑な顔をしていた。そのまま嘆息をひとつ。しばらくすると手を離し、窓の外に目をやる。


日が落ちかけている夏の空は、朱色と青のグラデーションを作りだしていた。ちらほらと見える雲は陽の光に彩られ、まるで燃えているようだ。

一時間前というのに、祭りが開催される通りは既に賑わいを見せていた。親子連れやカップルが渡り歩き、屋台も照明を灯している。僅かに開いている窓からは焼き物の匂いが香り要の、おそらく陽葵の鼻腔をもくすぐっていることだろう。


その景色を何かするでもなく眺めていると、リビングと要の自室とを隔てるドアから、コンコンと音が聞こえた。

「要くーん、着れましたか〜?」

「ああ、多分大丈夫だ」


ドア越しの陽葵が言っているのは、浴衣の着付けについてのことだ。なぜここに浴衣がと思うかも知れないが、これは要のものではない。彼の実家に帰ればあるにはあるが、高校生活中にこんなイベントがあるとは思ってもみなかった要のことだ。家族にもちろん送ってくれなどとは言っていない。


ならばレンタルショップかということも考えられるが、要たちが夏祭りに行くことを決めたのは一週間ほど前だ。前々から計画していた響たちとは違い、結構急である。

この時期混雑するレンタルショップで夏祭りに間に合わせるには、きっと予約が必要だろう。予約なしで行ったとしても、どれだけ時間がかかるかはわかったものではない。


これは陽葵が持ってきたものだ。正確に言えば、紅音が送ってきたのを陽葵が持ってきたもの、である。



「要くん、これを」

「……またか」

見覚えのあるダンボール箱を陽葵が持ってきたのは、つい昨日のことだ。

送り主の欄には「神原紅音」の文字。もちろん角が取れた字である。ダンボールに印刷された運送企業の名前は、記憶に新しい。陽葵は既に中身を確認したのか、例によってセロハンテープがついている。


「中身は?」

「開けてみてください!」


陽葵は箱を地面におろすと言った。自分のカバンから筆箱を探す。携帯タイプのコンパクトなハサミを取り出すと、要に差し出してきた。その顔は興奮を隠せておらず、要が箱を開けるのを心待ちにしているようだ。おずおずと暖色のハサミを受け取る。


「! これは……」

要は目を見張った。思わず手を止め、陽葵の方を見る。

ダンボールに入っていたのは、高級感のある木の箱だ。平たく言うと桐箱である。表面はは居間の照明を受けてつやめき、小綺麗な木目が見てとれる。燻製くんせいにしたような木材の香りが放出されており、しかし芳香剤などの類は入っていない。


「なぁ陽葵、これって……」

「いいですから! 早く開けてください!」

(なんかすごい高そうなんだが……)

要は尋ねるが、陽葵は満面の笑みで先を促す。驚いたような要の顔を柔らかい両手でむんずと挟み、強引に箱の方に顔を戻させた。


初めて触れる桐箱は、少しひんやりとしていた。思っていたより軽い。何重にもやすりがかけられているようで、手触りはすべすべとしている。

蓋を持ち上げると、木と木が擦れる僅かな抵抗感と音を残し、意外にもするりと外れた。


「……!」

箱の中身を見て、要は唖然あぜんとした。

「どうです? びっくりしました?」

陽葵は意地悪な笑みをこちらに向けてくる。


「これ……浴衣だよな、多分」

桐箱の中に入っていたものは、縦縞たてしましじらの刺繍ししゅうがなされた男物の浴衣と下駄である。墨色すみいろのそれは、落ち着いた印象をこちらに与えてくる。


「見ての通りお姉ちゃんから送られてきたんですけど……もしよかったら明日の夏祭りに着ていけたらなって」

「いいのか? 俺は構わないが……」

「もちろんです! じゃあ、そういうことで!」

陽葵はもじもじとした仕草から一転、顔を輝かせた。


浴衣の方に再び目を戻すと、ダンボールの中にもう一つ、桐箱が入っている。桐箱一つあたりの大きさを考えると、入っているのはこれで最後だろう。要は箱の端に手をかけると、右腕に力を込め持ち上げようとした。


「あっ、要くん!」

「……なんだ?」

「そっちにはわたしの浴衣が入っておりまして」

「はあ」

「それでその……当日までのお楽しみと言いますか」

「なるほど」

「と、とにかく! まだ開けないでください! 明日お見せしますので!」

「……りょうかい?」

要が圧されながらも了承すると、陽葵は安堵あんどの表情を浮かべた。要も開いている桐箱の蓋を閉じる。


「要くん」

「なんだ?」

箱をダンボールに戻すと、陽葵が口を開いた。


「夏祭り、楽しみましょうね!」

「……そうだな」

陽葵ははにかむと、夕飯の用意をするべくエプロンを取り出した。

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