第40話:朝食の見直し
「……なんでいるんだ」
要は自分の部屋にいた陽葵に、頬を引き攣ら《つ》らせた。あんな夢を見た後すぐだと、どうしても意識してしまう。
もちろん陽葵はそんなこと知るはずもなく、いつも通りの笑顔である。
「キンちゃんのことが気になって……合鍵使って入っちゃいました!」
「入っちゃいましたって……俺今起きたんだが」
「はい! おはようございます!」
「そうじゃなくてだな……」
どこか論点がずれた会話に、要はため息をついた。
しかし、金魚の様子を見にきたという陽葵はやけに嬉しそうな表情だ。満足げな顔は、
「なんかあったのか?」
「へっ?」
「いや、なんか嬉しそうな顔してるから」
要の予想が的中していたのか、陽葵は笑顔のまま、表情筋が硬直した。ジト目を向けると、視線を逸らしながら顔をみるみる紅潮させる。
暫く状況は動かなかったが、要の腹が空腹を訴えてきたので、とりあえず朝食をとりに行くことにする。
「まあ後で聞かせてくれ。俺も朝ごはんを……」
「えっ、あっ、その」
「? どうした?」
後で聞かせてくれ、という部分に過剰な反応を示す陽葵に、要は首を傾げた。嬉しいことなら喜んで報告する性格なのに、今回は困ったように
「えーっと……嬉しいことはあったにはあったんですが、私の身内のことでして……」
「そうなのか」
彼女の身内のことを言われても、一緒に喜んだりはしづらいと気づいた要は会話を切り上げた。彼女が気遣ってくれたのに話を掘り下げるのは栓のないことだ、と思った要はそれ以上追求することもなく、朝食をとりに向かう。
(ごめんなさい、要くん……)
陽葵はこの場から離れていく背中に、心の中で平謝りをした。
もちろん身内で嬉しいことがあったというのは真っ赤な嘘だ。思いの外鋭い要に、口をついて出たものである。
誤魔化すのが下手な陽葵では、今朝あったことが露見しかねない。要が烈火の如く怒るとは思えない。それはわかっている。
それでもなぜか秘めなければという気持ちが先行し、咄嗟に嘘を吐いてしまった。何気に要に向かって嘘を吐くのは初めてである。
初めてという文字に気づき少し心を踊らせるが、すぐに人に嘘をついてしまったことに罪悪感を覚える。少ししゅんとしながら、陽葵はキンちゃんに向き直った。
「おかえりなさい!」
「ん、ただいま」
陽葵がキンちゃんによって心を修復し終わった頃に、要は戻ってきた。未だ眠たげな反応を返す。手には細長い直方体の箱。
「なんですか? それ」
「チョコチップクッキー。食べるか? 美味いぞ」
「あ、じゃあ一ついただきます!」
そう言うと陽葵は箱に手を伸ばした。八つ入っている袋の一つに手を伸ばす。
この暑さのせいか、表面に露出したチョコは少し溶けていた。袋にぺったりと茶色が付着している。
口に入れると、ほんのりとした甘みが広がった。陽葵は甘々なミルクチョコやホワイトチョコが好物なのだが、たまには苦味のあるビターチョコも悪くない。一欠片(かけら)食べるごとに、陽葵は顔を綻ばせた。
「こんな時間からおやつですか?」
「朝飯」
「えっ」
「朝飯」
陽葵は凍ったように動きを止め、クッキーの欠片をポロリと落とした。そもそもおやつというのは二時くらいに食べるものだ、と言いたくなったが、咀嚼中のクッキーと一緒に飲み込む。
「……毎日それじゃないですね?」
「毎日ではないぞ。昨日はバタークッキーだ」
「そういう話じゃないです……」
毎日でないと聞いて安堵の表情が伺えたが、その後の言葉によってそれはかき消された。一転して困惑した表情を見せる。
「なんで要くんがこんな朝食で授業に集中できるのかわかりません……」
「こんなじゃないぞ、普段はゼリー飲料もついてる」
「それでもです!」
陽葵は残りのクッキーを頬張ると、甘い香りを振りまいて立ち上がった。空になった袋をゴミ箱に放ると、カウンターに置いてあるエプロンを取る。要がもう
「何するんだ?」
「要くんの朝ごはんを作ります。と言ってもだいたい昨日の余り物なので、手抜きですけど」
「いや、朝から作ってもらうのは流石に申し訳ないというか……」
「私が作りたいから作るんです! チョコクッキーのお礼とでも思っておいてください!」
「お釣りがくるんだが」
そこまで言われては、止める方が失礼かもしれない。要からすれば朝から陽葵の料理を食べれるなど、願ってもみないことだ。彼女の厚意に甘んじることにする。
キッチンに向かう少女の横顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
「ありがとう、美味かった」
三十分も経たないうちに、要は箸を置いていた。机を挟んで終始ニコニコしていた陽葵は、一緒になって「ごちそうさま」と手を合わせる。
メニューは野菜炒めや目玉焼きといった庶民的なものだったが、料理人の腕によって一級品になっていた。
しかも陽葵は既に要の好みを把握しているようで、久々に食べるまともな朝食は非常に美味であった。
「いえいえ、私が好きでやったので!」
陽葵は微塵も気にしていないように笑った。
何の見返りも求められず毎日彼女の手料理を食べられるとは、幸せものである。もちろん買い物時の荷物持ちやお礼などは積極的にするようにはしているものの、それでも恩は返しきれない。
「ところで、明日の献立は何がいいとかありますか?」
「……明日も作りにくるのか」
「要くんはもっと肉をつけるべきです!」
「そんな細くないと思うんだが。お前こそ折れそうで怖い」
「女の子はこれくらいです〜! 明日からはちゃんと起きててくださいね?」
「起きてなかったら?」
「寝顔を撮ります」
「……今日からアラームかけるわ」
他愛ないやり取りをしながら、陽葵は両手で頬杖をついてはにかんだ。少し窄めた目に見つめられ、要の頬はじんわりと染まる。
エプロンを着たその姿は、夢に出てきたものと同じである。彼女があのようなことをするとは思わないが、無意識に口元を二の腕で覆う。
陽葵もまた要の瞳を射たまま動かなかった。しかし流石に変だと感じたのか、暫くした後に声をかける。
「要くん?」
そこで陽葵は一つの考えに至ったようだ。落ち着かない様子で立ち上がり、要との距離を詰める。
「し、失礼しますっ」
陽葵は要の赤くなった頬を両手で包んだ。余りに似た光景に、今朝見た夢が否応なく思い起こされる。要はいっそう首筋から上を熱くさせるが、陽葵の色香に惑わされ抵抗できない。
もちろん陽葵も何も感じないわけがない。朝の白い肌は新雪に赤い塗料を撒いたように上気し、金茶色の瞳は形のいい唇と同様潤んでいる。
そのまま目をきつく結ぶと、ゆっくりと顔を近づけた。
「……熱、ありますか?」
陽葵は自分と要の額の温度を比べ、尋ねた。密着した額からは、明らかに自分のものより高い熱が感じられる。
要もうっすらと目を開けると、陽葵の目と至近距離で目が合った。今まで体感したことない異性との近さに、心臓が暴れる。
「ひ、陽葵、かお」
「えっあっ、ごめんなさい!」
要から顔の距離を指摘されると、陽葵は上擦った声をあげ飛び退いた。りんごのように色づいた顔を手で覆う。
「その、要くんのお顔が少し赤かったので、もしかしたら私が昨日連れ回したせいで夏風邪をひいたのかと……」
「熱はない、けど……心臓に悪いから、誰にでもするもんじゃないぞ」
「し、しませんから!」
いきなりこんな行動をとったのには、彼女なりの理由があったらしい。今にも心臓が破裂しそうなほど驚いたが、心配してくれたのなら文句も言うまい。
「……わ、わたし、キンちゃんにもご飯をあげてきますね」
「ああ……頼む」
陽葵は言い訳をつけて立ち上がった。キンちゃんには要が起きる前に一度餌をあげているので、正確には餌をやるフリをするだけだが。
「……要くんにしか、しないもん」
少し不機嫌そうに誰にも聞こえないようこぼしながら、いつもより歩幅大きめで金魚鉢の前に歩いた。
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