第41話:朝の電話

「おじゃましま〜す」

「ん、おはよ」

陽葵が小声とともにドアを押し開けると、要からの挨拶が返る。彼は既にリビングで待機していたようで、情報番組に出演しているキャストたちの談笑が微かに聞こえてくる。


「……起きてるんですか」

「なんでちょっと不機嫌なんだ」

「べつに? 普通ですけど?」

当人は普通と言うが、明らかに口が尖っている。そっぽを向く目線もどこか不満げだ。

自分の荷物をテーブルの足元に置くと、いつもより幾らか手荒にエプロンを取る。


「ほんとに朝ご飯作ってくれるのか……」

「……嫌なら自分の分だけ作りますけど」

「いやそうじゃなくて、なんだか申し訳ないというか」

「昨日も言いましたけど、私がやりたいからするんです。要くんのご飯を作るのを、苦だと思っことはないですよ」

胸を熱くさせる台詞せりふを聞き、要は口角を少し持ち上げた。膝に手をついて立ち上がり、彼女のいるキッチンへ向かう。


「手伝うよ。目玉焼きくらい作れる」

「今日の献立に目玉焼きは入ってないんですが……お礼なら明日は私が来るまで寝てていただければ」

「昨日は起きてろって言ったのに、めちゃくちゃだな」


陽葵としては、是が非でも要公認の寝顔写真が欲しいらしい。「まあいいです」とこぼしながらも、期待を込めた視線をチラチラと向けている。


「バカなこと言ってないで飯作るぞ。腹減った」

「は〜い」



今日のメニューは白米に味噌汁、野菜、焼き魚といったザ・和食だ。昨日のもそうだったが、彼女の料理は美味しさはもちろん栄養面にも気が配られていると実感する。ただ美味しいものを食べさせるだけではなく、いつかのスーパーで言った「栄養が偏る」というのにも留意されているのだから驚きだ。

二人で手を合わせるときには、既に陽葵の機嫌も直っていた。そもそも初めから悪かったのか疑問だが。

「今日は何をしますか? またお買い物にでも……」

「陽葵おまえ、宿題は」

期待の込もった視線を要は一刀両断。陽葵を問い詰めると、わかりやすく目を逸らす。


「ま、まああとちょっとで終わりますから、特段気にすることはないかと……」

「じゃああのプリント集見せてみろ」

「うっ」

たじろぐ陽葵をまじまじと見つめると、彼女は観念したように自分のリュックに手を伸ばす。チャック口を開き、件のプリント集を渋々差し出す。


全三十頁のそれに彼女の字が書き込まれているのは、実に三分の一ほど。残りはプリントの余白部分に名前が書いてあるのみで、肝心の解答欄はまっさらだ。


「少なくとも『あとちょっと』には見えないんだが」

「だって! 夏期講習で追加の宿題が出るなんて聞いてませんよ!」

「夏休み前のホームルームで言われただろ」

「それはその……うとうとしてたかもです」

実は要との夏休みの計画を考えていたなんて言えない。そんなことは知らず要は息をつくが、陽葵はげんなりした顔で聞き流す。


夏期講習からはや一週間が経つが、もちろん要は宿題などとうに終わっている。陽葵が自発的に十頁を終わらせたことを褒めるべきか、それとも一週間で十頁しか終わっていないと責めるべきか。どちらにせよ宿題をしなければというのは変わらない。


「ほら、食器片付けたら宿題やるぞ。今日でそれ終わらして、残りの夏休みを楽しく過ごせばいいだろ」

「うぅ……すぐ終わるので、もう少しあとでも」

「そんなこと言ってたら――」


なおも引き下がる陽葵に要は続けようとするが、途端着信音が響く。ポップにカスタマイズされたそれは、要のではなく陽葵のものだ。まるで助け舟を出されたように、彼女はそれに飛びつく。


「あ、はいはーい! 今出ますよー!」

「ちょっ、まだ話は」

要の制止も聞かず、陽葵はスマホを手に離れていってしまう。


「……まったく」

要はため息をつくと、皿を持って立ち上がった。自分のものに加えて向かいのもう一組を重ね、キッチンへ運ぶ。テレビと微かに聞こえる陽葵の声をBGMに、ここ数ヶ月でスキルが上がった皿洗いを開始した。



二枚目の皿に差し掛かる前に、陽葵は帰ってきた。携帯のマイク部分を手で抑えているのを見れば、まだ通話は継続しているようだ。腕を肘までまくっている要を見上げて言う。

「要くん要くん、電話変わってくださいって」

「……?」

突然のことに疑問符を浮かべるが、目の前に差し出されたスマホを手を拭いてから手に取る。


「はい、もしもし」

「あ、もしもしかなめ〜?」

「舞海か。こんな時間から何の用だ?」


朝から電話をかけてきたのは、数少ない陽葵と要共通の友達だ。何時に起きたのかは知らないが、こんな時間でも元気なのは変わらないようだ。

舞海は時候の挨拶もなしに、単刀直入に要件を告げた。


「花火しよ花火! わたしとひまりんと、ひーくんとかなめで!」

「陽葵の宿題が終わっていない」

「異議あり! 宿題が終わってないからって、ひまりんを拘束する権利はありません!」

「……そういうおまえは終わらせたのか?」

「……かなめ、こんどプリント見せて?」

一転して猫のように甘える舞海に、要はため息をつく。そんなことだろうと思ってはいたが。


「大丈夫だよ! あとちょっとで終わるし!」

最近誰かに聞かされた言葉と同じである。この調子じゃおまえも半分くらい残ってるんだろ、という言葉を要は飲み込む。


「……あの、要くん」

「ん、どうした?」

ふと声をかけたのは陽葵である。要のTシャツの裾を控えめに摘み、舞海との会話を中断させる。


「わたし、要くんとの思い出を作りたいです……だめ、ですか?」

「…………」

陽葵はこてんと首を傾げ、少し潤んだ上目遣いでこちらを見上げる。もし漫画なら背景に花弁でも舞ってそうな雰囲気で、要は無自覚に顔を赤らめる。


なんというか、すごくずるい。


「……それで、日時と場所は?」

電話越しの相手に聞き返すと、陽葵はしおらしく寄せていた眉を持ち上げた。

つくづく甘えられると辛い、と実感する。


「一応明日の予定なんだけど……大丈夫?」

「それはまた急だな……陽葵、明日空いてるか?」

「はい、いつでも!」

陽葵は摘んだ袖をぶんぶんと振り同意を示した。もっとも彼女の場合は、予定がないといっても課題が終わってないのだが。


「場所はまだ決まってないから、追って連絡するね。そんなに遠くないところにするから! あと花火は各自持参!」

「了解。適当に買っとく」

締めくくるような声音を聞き、要は通話終了ボタンをタップしようとした。残りの要点はメッセージなりで連絡してもらえばいいだろう。

しかし耳からスマホを離しかけると、舞海は余計なことを付け加える。


「そういえば、こんな時間から二人で一緒にいる」

んだね、という発音が聞こえる前に、要は通話を終了させた。彼女が電波の先でニヤニヤしている姿は、声から容易に推測できる。


「花火、明日なんですか!」

どうやら会話の内容は、彼女の耳にも届いていたらしい。結構大きめの音で通話していたので、聞こえていてもおかしくない。ということは、最後のアレも聞こえているはずである。


その表情は突然入った予定に当惑するというより、初めて(推定)の体験である花火への期待の方が大きいようだ。最後の一言のせいか、はたまた少し動いたことによって血流が促進されたせいか、頬は色づいている。


「……花火買いに行くか」

「はい!」

「言っとくけど帰ったら宿題するからな」

「……はい」


苦笑いを滲ませながら、陽葵は外出の準備を始めた。

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