第9話:乙女心

「……朝か」

窓から仄(ほの)かに差し込む光によって、要は目を覚ました。

首を捻って右を向くと、時計の表記は六時四十四分。支度を始めるにはちょうどいい時間である。


しかし、要はいつも目覚まし時計のアラームを六時きっかりにセットしている。そのためいつもは六時に起きるのだが、今日は寝過ごしてしまったらしい。夢も見なかった――見ているが内容を覚えていないだけかもしれない――ことを考えると、よほど深い眠りだたのだろう。なぜ疲れていたのかは、言うまでもない。


「起きるか……」

寝ぼけた頭を冷水で叩き起すべく、要は洗面所に向かった。





要が朝に食べるものは二つ。ゼリー飲料と少しのクッキー、それだけだ。一つは食べるものではなく飲むものだが。

四月はもう少しまともな朝食だったのだが、朝の食欲の無さと、四限目まで腹がもつことを理由に、このような献立に落ち着いた。ちなみにクッキーの種類は日によって変わる。


チョコチップクッキーを二枚、箱から取り出して頬張った。それを咀嚼そしゃくした後、マスカット味のゼリー飲料をゆっくり胃に入れる。所要時間五分足らずで、朝食は終了である。


あとは歯磨きに洗顔、着替えをして、支度完了だ。教科書などの準備は前日に済ませてあるので、朝になって慌てる必要もない。


「行ってきます」

無人の自室に独り言を残し、要はアパートをあとにした。




六月のまだ少し冷たい朝の空気を吸い、要の頭は少しずつ覚醒していった。

朝から賑わいを見せる光景は都会特有のもので、要の実家がある地域にはないものだ。


「よっ、要。相変わらずしけた顔してんな」

「うるさい。朝から元気なこった」


いちいち確認せずとも誰かわかるほど耳慣れた声は、無心で歩いていた要の意識に割り込んできた。


「そういえば響、昨日は舞海とどこに行ってたんだ?」

「駅前のファミレスだよ。マミがどうしても抹茶フェスタ限定のパフェを食いたいって言ってさ」

「駅前ってちょっと遠くないか? 俺はそこまで行ってアイスだのスイーツだのを食べて帰るのはあんまり気が向かないな」

「そうか? でも俺的にはそんなに苦じゃなかったぞ。マミも一緒だったし、あんみつ美味しかったし」

「あんみつか……もうちょっと暑くなってきたら食べたいな」

「お? 一緒に行くか?」

「響のおごりなら喜んで」

つつしんでお断りする」


他愛たあいない会話を交わしていると、少しずつ学校に近づいてきた。時折要たちと同じ制服を着ている人も見かけるようになる。


しかし、気のせいなのかもしれない、なんなら気のせいであってほしいのだが――



――視線を感じる。

それも昨日、陽葵といるときに感じたものとはまた違った、どこか探るような……


もちろん、要の思い違いなのかもしれない。もし見られていたとしても、視線を集めているのは要の隣のイケメンという説もある。


「どうした要、そんな不審者ふしんしゃみたいにキョロキョロして」

「ひとこと余計だ。いや、さっきから視線を感じて……」

「……おまえなんかやっちゃったのか?」

「やってない。ちかって何もやってない」

「それならあんまり気にしなくてもいいだろ。気のせいかもしれないし。ほら、学校行くぞ」

「……そうだな」


少しだけ歩くピッチを早くして、要たちはもう目の前に迫った学校へ向かった。



学校に着くと、そこは昨日となんら変わらないものだった。教室から聞こえる喧騒けんそうも、いつも通りである。

今思い返すと、やはり視線の件は気のせいだったのかもしれない。昨日視線をたらふく浴びたせいで、過敏かびんになっていたのだろう。


要は窓際の机に腰掛こしかけると、単語帳を開いた。この前、本を買ったときにもらったしおりが挟んであるページを開き、赤シートを取り出す。昨日は某美少女のせいで、放課後に単語帳ができなかったので、一昨日やったところの復習から始める。


一方響は、リュックサックを床に置くや否や、机に突っ伏して仮眠をとっているようだ。舞海が登校していればイチャつくのだろうが、彼女の姿は教室内に見受けられない。


朝休みの過ごし方は人それぞれだ。要のように単語帳を開いている者。または参考書を開いている者。課題を急いで写している者。机を囲み話に花を咲かせている者。誰かさんのように机に覆いかぶさっている者など……


「おはよう、榎本」

「ああ、梶下かじもとか。おはよう」

勉強方面にシフトし始めていた要の思考は、珍しい人物によって中断されることになった。

彼は梶下優樹かじもとゆうき。要と響の共通の友達である。彼が朝に話しかけてくることはあまりない。話しかけてくるのはせいぜい、日中の休み時間か放課後くらいだ。


「なんの用だ?」

「あーその、別にたいしたことじゃないんだけど」

梶下は、たいしたことじゃないと言いながらも、非常に言いにくそうにしている。視線が泳いでいて、言葉を探しているようだった。


「なんだ。もったいぶらずに言ってくれ」

「そうか、そうだな……じゃあ、言うぞ?」

「おう」

梶下は覚悟を決めるように息を大きく吸った。ていうかそんな重大なことなのか? なんかしたっけな……

呑気なことを考えていると、対して神妙(しんみょう)な面持ちの相手は、口を開いた。

「おまえって……」

「うん」



「……神原さんと仲いいのか?」

「……は?」


待て待て、なんのことだ、全然そんなじゃない。あとなんでこいつがこんなことを知っているんだ。


「……ちなみになんでだ?」

「昨日一緒に帰ってただろ?」

「どこ情報だ?」

「友達情報だ。俺は直接目撃したわけじゃないが」

……らしい。そういえば昨日は陽葵が要の後ろをぴったりついてきたので、見方によってはそう見えるのかもしれない。しかも相手は学校一の美少女様だ。あれだけ注目を集めていれば、そう考える人もいるだろう。


「異議あり。俺とあいつは家が一緒な方向なだけだ。昨日はたまたま帰る時間が同じだったもんで、そう見えたんだろう」

家の方向が同じというか、住んでいる家が同じなのだが。

「その前に二人で話をしていたという目撃情報もあるが?」

「それは……」


痛いところを突かれた。話をしていたことを出されたら、なんと言い訳しよう……うまく切り抜けられる方法が見当たらない。


「と、とにかく、俺と神原はおまえが思っている関係じゃない。してた話もそんなたいそうなものじゃないから」

「なるほど」


梶下はそう言いつつも、あまり合点がいっていないようだ。しかし、これ以上詮索を続けられると厄介なので、さりげなく話題をずらすことにする。


「ちなみにこれって、意外と広まってたりするのか?」

「多分? 俺も朝にこれを聞いたもので」

……らしい。


まあ相手が相手だから、話題にもなるだろう。今日から気をつけなければ、また深く詮索されるかもしれない。もしかして、今朝感じた視線の正体はこれだったのだろうか。


「梶下。もしおまえにこのことを聞いてくる輩がいたら、否定しておいてもらえると助かる」

「了解。ていうか、まさかおまえが学校の話題になる日がくるとはな」

「うるさい」


梶下はニマニマしてそう言うと、次は仮眠をとっている響のもとへ向かっていった。





――「ていうことが今日あってだな」

「私も聞かれました! なんででしょうね?」


場面は変わって午後七時前。要と陽葵と机はさんで座り、二日目のカレーを頬張っていた。二日目の方が美味いらしいが、要の舌には違いがわからない。


「なんであんなに話題になったんでしょうか……」

「そりゃあ、普段目立たないやつと学校一の美少女が仲良くしてるように見えたからだろ」

「学校一の美少女って、誰のことですか?」

神原はまるで理解していないように、首をこてんと傾げている。


「誰って、おまえのことだろ」

「へっ!? なっ、なんでですか!」

しゅぼっと音をたてそうな程赤くなった陽葵は、理由を求めて俺のことを見つめてくる。


「なんでって……みんなから見ればそう見えるからじゃないか?」

「わ、私より可愛い人、いっぱいいますよ……」

恥ずかしさを紛らわすためか、太ももの上で拳を握り、目を伏せている。

ところが、何かに気づいたのか、はっとしたように頭をあげた。


「……そう思ってるんですか」

「ん?」

「榎本さんもそう思っているのかって聞いてるんです!」

……困った。どう答えるべきだろうか。


素直に言えば彼女は、要の今までの人生において間違いなく一番可愛いだろう。

しかし、要には乙女心というものがわからない。隠さず言っても喜んでくれるかどうか……


かといって「そんなことない」と言った方が、相手の機嫌を損ねるのではないだろうか。こいつにはご飯も作ってもらっているし、こういうときには褒めておくのがいいだろう。

要は自分の考えを伝えようと、口を開いた。恥ずかしいので、目は合わせずに。


「まあ、そうだな……思っていないって言ったら嘘になるな」

「なっ!?」

「あとこのカレーとか、すごい美味いぞ。昨日は言えなかったけど、ありがとな」

「あうぅ……」


陽葵は湯気が出そうな程顔を赤くすると、水をコップ半分以上、一息に飲んだ。


「……神原?」

陽葵はこちらに反応することなく沈黙しているが、耳まで赤くなって、プルプルと小刻みに振動している。怒らせてしまったのだろうか……


「榎本さん」

「はい」

「……やっぱりなんでもないです」


そういうと陽葵は食事を再開し、洗い物を始めるまで口を聞いてくれなかった。

しかし、洗い物のときはその直前とは打って変わって、彼女の顔には花が咲いたような笑顔が浮かんでいた。


乙女心とは、わからないものだ。

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