第12話:神原陽葵の休日

「ふわぁ」

鳥が朝を教える頃。間の抜けたあくびとともに、神原陽葵みはらひまりは起床した。寝ぼけまなこを擦り、ベッドから這い出でる。


「起きなきゃ」

自分に言い聞かせるようにこぼし、洗面所へ向かった。


陽葵は洗顔を終えると、キッチンに向かった。朝食を作るためだ。


「今日の献立は……いつも通りでいっか」

栗色の髪を後ろで一つにまとめた少女は、冷蔵庫から卵とベーコン、収納から少し小さめのフライパンを取り出した。慣れた手つきで油をひいていく。


「……榎本さん、何食べてるのかな」


陽葵はここ最近、気づけば四つ隣の部屋に住む少年のことを考えている。


「夜ご飯は作ってるけど、朝とお昼ご飯とか大丈夫かな……」

卵を割りながら、そうこぼした。朝の冷えた体が、少しずつ熱を帯びていくのを自覚する。

その少年はひと月ほど前、このアパートの近くで自分を助けてくれた。今も昨日のことのように思い出せる。


西谷にしのや学院高校の女子が、彼氏をとられたなどとのたまい、複数人で問い詰めてきたのだ。もちろん陽葵はそんなことをした覚えなどない。ただのとばっちりである。


あの時助けてくれた少年を、陽葵は長い時間をかけて探した。

学年も名前もわからず、わかるのは身体的特徴と、同じ学校の生徒ということだけ。


それから三週間が経ち、さすがの陽葵も諦めようとしたとき。校庭の中央広場で昼食をとっているその人を見つけたのは、本当に偶然だった。

名前と同じ学年だということを友達から聞き、帰り道の校門で待ち伏せたときの彼の驚き顔は傑作けっさくだった。思い返せば、今でもクスりと笑ってしまうほどに。


「榎本さん、何食べてるのかな……」

栗色の髪を揺らす少女は、ぽけーっとした様子で、独り言を繰り返した。




「何しよっかな」

朝食をとった陽葵は呟いた。

陽葵は計画を立てるのが苦手で、毎週土日にはこんなことを言っている。要の前で言おうものなら、「勉強しろ」と呆れた顔をされるのだろう。


「……勉強しよっかな」


それは勉強嫌いの陽葵の小ぶりな口から出るには、久しぶりの言葉だった。

昨日、要と勉強をしたのが効いたのだろうか。しかし発言と反して、表情はあまり気乗りしていない様子である。

神原はしばしの葛藤かっとうのあと、根を張ったように重い腰をあげて自室へと向かった。



「……あれ?」

目を覚ました陽葵は顔をあげた。壁掛け時計の長い針が、いつの間にか二周している。勉強をしているうちに、うとうとしてしまったらしい。寝返りをうったのか、ノートにはシワができていた。


やはりやる気がないときに勉強など、するものでない。それを再確認し、陽葵はリビングへと足を運んだ。寝ているうちに乾いた喉を潤すためだ。


もう一度時計を確認した。時刻は十一時を少し過ぎたくらいだ。この後昼食をとり、午後には買い物に行かなくてはならない。


「榎本さん、なすが嫌いって言ってたな……」

陽葵は買い物メモを作る手を止め、記憶を蘇らせる。

あの時は好き嫌いは考慮しないと言っていたのだが、しっかり入れないようにしている。あれからなすを買う頻度が少なからず減った。


「準備完了! しゅっぱつ!」


意気込んだ陽葵は長い髪を揺らし、最寄りのスーパーまでの道を急いだ。



「ええっと、野菜は……」

自分にしか聞こえない声量で呟くと、陽葵はスマホを取り出した。ロックを解除して、メモアプリを開く。


思えばここは、要と来た場所だ。あの時は卵をふたパック買うために呼んだのだが、正直来てくれるとは思っていなかったのだ。


そのせいか陽葵は、買うわけでもないのに、商品の方向を見ることがある。冷凍食品や桃の缶詰の方だ。


「あと買うものは……」

メモアプリの項目とカゴの中を照らし合わせて、買い忘れがないかを確認する。特にないようだ。


カゴの中身は野菜に豚肉、パンといった主婦的なものだ。もちろんなすは入っていない。

陽葵はレジに着くと、カートに吊るしていた兎の刺繍ししゅうが入ったエコバッグを提示した。とことん主婦的である。

商品をバッグに詰めてくれた店員に笑顔で一礼し、陽葵はスーパーをあとにした。


外に出てみれば日は少しずつ傾き始めていた。六月にもなったが、まだまだ涼しい。

重い荷物を玄関口の廊下によっこらせと下ろす。買う予定ではなかったものも入っているので、少々重くなってしまった。


時計の短い針は4から少し進んだところを指している。夕飯の支度を始めるにはまだ早い時間だ。


「榎本さん、何してるかな……」

陽葵は505号室の方に目を向ける。しかしその目には無機質な壁が入るばかりである。


「……今日は、ちょっと早めに行ってみよっかな」

あの人のことだから、どうせ勉強しているか寝ているとかだろう。

(行っても迷惑とかじゃ……ないよね?)


陽葵はくよくよしても仕方がないと言わんばかりに頭を振った。それに従って、長い髪もバサバサと揺れる。


要の部屋に持ち込む物とそうでないものを手早く仕分ける。それを終えると前者を持ち、部屋に鍵をかけ、505号室の戸をたたいた。しばらく待っていると、ガチャという解錠音かいじょうおんいで榎本要が姿を現す。


陽葵は自然にこぼれた笑みとともに、口を開いた。


「こんにちは、榎本さん! やることがなかったので、早めに来ました!」

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