第11話:リクエスト

「お、お邪魔します……」

「どうぞ」

陽葵は少しおずおずとした様子で、505号室の玄関をまたいだ。

今日の陽葵は、ふんわりとしたカットソーにスキニーパンツ、薄手のカーディガンというラフな格好に身を包み、背中にはひよこらしきキーホルダーがついたリュックサックを背負っている。


「なんでそんな緊張してんだよ。もう何回も来たことあるだろ」

「それはそうですけど……今回のはまた違うというか」

「? どういうことだ?」

「知りません! 榎本さんのばか」


陽葵はどういうわけか、少し染まった頬を膨らませている。何か怒らせるようなことをしたのだろうか……


「……今日って勉強するんですよね?」

「そのために来たんだろ。ほら、あがれ」

これからすぐにとは言わないが勉強をするのに、陽葵は既に疲れた顔をしている。


時刻は九時半を回ったところだ。もう少ししたら始めるとしよう。今日は夕飯の時間まで多分ずっと陽葵がいるので、彼女のやりたい範囲くらいは余裕で終わるだろう。


「そういえば、言っておいたテスト、持ってきてくれたか?」

「持ってきましたけど……本当に見るんですか?」

「そうしないと、どの範囲ができないのかがわからないだろ?」


要は事前に、例の数Ⅰのテスト以外のものを持ってくるように、陽葵に言っておいた。あまり気乗りしていないような表情だったが、ちゃんと持ってきてくれたようだ。


「点数とか解答とか見て笑ったりしないから安心しろ。持ってきてくれてありがとな」

「うぅ……あんまりじっくり見ないでくださいね?」


陽葵はリュックサックから取り出した透明なクリアファイルを、こちらに手渡してきた。中身はもちろん、名前の欄に神原陽葵と書かれたテストたちである。

要はそのテストを、一つ一つ確認していく。点数ではなく、間違えた範囲を重点的に。


「一通り見た感じ、酷いのは古典と数学か」

「ひ、酷いとか言わないでくださいよぅ!」

「ああ……すまん。悪気はなかった」


彼女が言うデリカシーがないとは、こういうところなのだろうか。反省反省……


「それじゃあ、そろそろ始めるか」

「えっ、もうちょっとあとでも……」

「や、る、ぞ」

「……はい」


勉強から逃れようとする陽葵を言葉で威圧してみる。すると、しょげたような表情を浮かべ、泣く泣くペンケースを取り出している。


「じゃあ最初は数学からな。俺は俺で勉強してるから、わからないところがらあったら聞いてくれ」

「了解です……」


げんなりしている陽葵は、赤ペンを手に持ちテストの見直しを始めた。先日配布された正解答と自分の解答とを見比べて唸っている。


(……俺も数学でもやるか)

要はテストの見直しを事前に終えている。そのため、今から始めるのは次の範囲の予習である。



こいつも根は真面目なのか、一度ペンを持つとおちゃらけることも無くなった。たまに伸びをしたりすることはあったが、許容範囲だろう。


「意外と頑張ってるな。三十分くらいでやめるかと思ってたのに」

要は陽葵に麦茶を差し出し、話しかける。

「ありがとうございます。三十分って……」

陽葵は口を尖らせてそう言った。小ぶりな口で、麦茶をちびちびと飲んでいる。


「そういえば、榎本さんって勉強してても嫌な顔しませんよね」

「まあもう慣れたというか」

「慣れた、ですか」

「もちろんやらなくていいならやらないが、勉強しないと特にやることもないしな」

「そういうものですか……あっ」


ふと陽葵の方から、くぅ、と可愛らしい音がした。見れば、卵のように白く小さい顔を、みるみる紅潮させている。


「ごめんなさい、お腹空いちゃって……お昼にしませんか?」

「……そうだな」

集中していて気が付かなかったが、時刻はもう一時を回っている。いつもなら既に昼食を取り終えている時間だ。腹が減るのも仕方ない。


「それじゃあ作りますね! リクエストの通り、オムライスでいいですか?」

「ああ、頼む」

要が今回の昼食として陽葵にリクエストした物。それはオムライスだ。久しぶりに食べたいと感じたからである。


陽葵は勉強をしている時とは対照に、軽やかな手つきでオムライスを作っている。しばらく待つと、芳醇な香りがキッチンから漂ってきた。


「それじゃあ、いただきます!」

「いただきます」


要と陽葵は同時にオムライスを一口大に掬い、舌鼓を打った。作るのに時間もあまりかけずにこのクオリティとは。店でも出そうものなら、黒字は堅いだろう。


「いつもありがとな。今日は夜だけじゃなくて昼まで」

「いえいえ! 作ると言ったのは私ですから!」


要は日頃、料理の面では手伝えることがあまりないので、言葉で伝えることにしている。

陽葵は顔をほころばせると、オムライスをぱくりともう一口。


「午前中はどうだった?」

「久しぶりにこんなに勉強した気がします!」

「テスト期間とかどうしてたんだ」

「やろうやろうとは思うんですよ! でもつい後回しにしちゃって……」


陽葵は照れたようにはにかんだ。こんな会話をしているうちに、要のオムライスは半分をきっている。




「「ご馳走様でした」」

それからほどなくして、皿に乗っていたオムライスは、きれいさっぱりなくなった。


「じゃあ片付けは俺がやるから、ちょっと休んでてくれ」

作ってくれたのに片付けまでさせるのは悪い。そう思って立ち上がった。しかし、陽葵は釈然としていない様子だ。


「私も手伝いますよ! 榎本さんばっかりにさせられません!」

「ばっかりって……ご飯作ってくれたのにか」

「それはそれ、これはこれです! 」

どうやら何を言っても聞きそうにない。要は反論をやめた。


ところが、立ち上がらんとしている彼女を見れば、膝まである丈の長いカーディガンの裾を踏んでいる。陽葵はそれに気がついていない様子だ。


「――っ! 神原!」

「なんですか? ……あっ!」


陽葵は要が予期していた通り、すてんと転んだ。それは最早避けられなかった。

しかし、それを予想していた要は、陽葵と床の間に手を滑り込ませ、背中にかかった栗色の髪ごと、彼女の体を引き寄せた。



「いってて……神原、怪我はしてないか?」

「はい……榎本さんこそ、大丈夫ですか?」

陽葵は今にも涙腺が壊れてしまいそうな表情だ。そんなに気負うこともないのに。


「俺なら大丈夫だ、怪我もない。神原が無事てよかったよ」

「うぅ……ごめんなさい」

「いいって」

陽葵は要の頭や体をぺたぺたと触ってくる。怪我の確認だろうか。ちょっと転んだくらいで大袈裟である。


陽葵は寸刻それを続けていると、だんだんといつもの顔に戻っていった。それより……


「なあ、神原」

「はい?」

「その……そろそろどいていただけると」

「……あっ!」


ようやく自分たちの体制に気づいたのか、陽葵は火がついたように赤くなった。

どんな体制かと言うと、陽葵が要の上に馬乗りになっている、というものだ。


「ごごごっ、ごめんなさい!!!」

陽葵は早口で捲し立てると、迅速な動きで退いた。要と反対の方を向き、手をグーにして正座している。


「……俺、洗い物してくるな」

「よ、よろしくお願いします……」

要は顔の熱を冷ますべく、足早に洗面所に向かった。

そこから少しの間、互いに顔を見られなかったのは、言うまでもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る