第29話:策
「……やってしまった」
壁に額を押し付けながら、要はため息をもらした。目を閉じたまま、首を動かし額を離す。
いつもより少しだけ遅く起床した後、朝食をとっていた。メニューはもちろんクッキーとゼリー飲料。今日のはシンプルなバタークッキーである。枚数は二。
「やってしまったなぁ……」
ため息をもう一度繰り返す。
要が言っているのは昨日についてのことだ。
陽葵を夏祭りに誘った要だったが、翌日。今は
なんせ相手はあの「神原陽葵」である。羽星高校の生徒であれば誰もが知る名前だ。そんな彼女が一介の男子生徒と夏祭りに行ったとなると、どう思われるだろう。
もしかすると根も葉もない噂話が作られるかもしれないし、彼女が迷惑を被ることも有り得る。要だけならいいのだが、彼女にまで嫌な思いをするのは避けなければならない。
「……また考えよう」
そうこぼすと、要は立ち上がった。少し屈み、クッキーの箱を手に取る。すると図ったようなタイミングで、最早聞きなれた電子音が鳴った。
「おはようございます!」
「おう」
いつもと代わり映えなく、風鈴のような声が耳に届いた。ドアを開ければ、爛々と照る太陽が目に刺さる。室内との明度の差に、思わず瞼をすぼめた。
虹彩が光の量を調整すると、相も変わらずビシッと背を伸ばした陽葵がいた。その栗色の長髪は、生暖かい風に揺られている。
「どうしたんですか? そのおでこ」
「……なんでもない。あがってくれ」
陽葵は要の額に違和感を覚えた。ちょうど中央の部分が、ほんの少し赤くなっている。
さすりながら気にするなとごまかすと、陽葵は首を傾げながらも敷居を跨(また)いだ。
勉強会はいつものように、つつがなく進行していった。
最近は陽葵も勉強ができるようになり、要に質問する機会も減った。その分自分の方に集中できるのだが、少しだけ寂しい気持ちもある。巣立つ雛鳥を見届ける親鳥とは、こういう気持ちなのだろうか。なんだか複雑である。
「要くん、どうしたんですか!」
「え?」
突拍子もない陽葵の発言に、要は驚きの声をもらす。
「なんか今日変ですよ? ちょくちょく手止まってるし、浮かない顔してるし!」
「……そうか?」
「そうですよ!」
陽葵は要の顔を見上げた。少し、ほんの少しだけ眉尻を釣り上げている。
(わかるもんなのか……)
要と陽葵は付き合いが特別長いというわけではないが、その密度は響や舞海と比べ物にならない。校庭で出会ったその日から一緒に過ごさなかった日など、片手の指で足りるほどである。
要は顔にでやすい性格ではない。むしろそれは陽葵の方だ。毎日顔を合わせていれば、細かな変化でも気づくものなのだろう。
「なんだ、そんなことですか」
「そんなことって……結構なことだと思うんだが」
要は事の顛末を話した。陽葵はなんでもないといったふうに、肩をすくめている。
「わ、わたしは別にそうなっても構いませんけど……?」
「ん? なんか言ったか?」
「な、なんでもないです! 要くんのばか!」
陽葵は真っ赤になって顔を背ける。ぷりぷりと音が聞こえてきそうだ。しかし、要はなぜ突然怒られたのかわからず、首を傾げる。都合がいいというか悪いというか、そういうことは聞こえない耳である。
「あっ、じゃあ変装するのはどうですか?」
頬の赤みを引かせた陽葵は、閃いたように言った。手のひらにポンと拳を置いている。
「変装って……俺やったことないぞ」
「大丈夫です! ちょっと待っててください!」
そう言うと、陽葵はパタパタと音をたて、部屋からでていってしまった。
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