第72話:もうちょっとだけこのまま

 放課後、帰宅して身支度を整えた要はリビングのテーブルに着席した。同じく自室で着替えを済ませてきた陽葵は、慣れた手つきで茶を入れてくれている。ティーカップを自分と要の前に置き、隣に座った。

 どうやら彼女が英語を得意としていることには、意外と長いストーリーが関わってそうだ。今朝「ここで話すのも」と言っていた陽葵の表情から、要はそう受け取った。おいそれと聞いていいことではなかったのではないかと考えてしまい、下校中いつも通りに振る舞えていたかは怪しいところだ。もっとも、陽葵は一ミクロンも気にしていないようだったが。


 「一応言っておくんだが、言いたくないことなら無理して話す必要はないからな?」

「お気遣いありがとうございます、でも今となってはあまり気にしていないことですから」

 陽葵ははにかむと、ぽつりぽつりと語り始めた。

 「どこから話していいのか困っちゃいますけど——


 わたしはもともと、この羽星高校に入学するはずじゃなかったんです。本当は中学受験で中高一貫のところに入って、そのまま日本トップクラスの大学に進学する......というのが、わたし、というか神原家に決められた進路でした。姉は昔から頭が良かったんですが、わたしはこの通り勉強ができないもので、中学受験に失敗しちゃって。滑り止めとして受けていた公立高校に通うことになったんです。両親はそれが許せなかったらしくて、中学卒業までは面倒を見てやる、でも卒業と同時に実質的な縁は切らせてもらうって言われました。あの時のお母さんの顔は、今でも夢に出るくらいです。


 陽葵は眉尻を下げながらこぼした。

 ......あれ。

 当初は陽葵が英語を得意としている理由を聞くはずだったのに、気づけばとんでもなく重い話を聞かされている。もっと初めの方で止めればよかったものの、話題を転換するにはタイミングを逃してしまった。


 しかし、陽葵の両親はあまりにも薄情というか、実の娘に冷たくはないだろうか。

 要は膝の上に置いた拳を、行き場のない怒りを潰さんと握っている。相手が陽葵だから、ということも関係しているだろうが、町でアンケートをとっても要と違う反応をする人はそう多くないだろう。

 こちらの思いを知ってか知らずか、陽葵は続ける。


 わたしの両親はやると言ったらやる人なので、中学以来連絡はとってませんし、資金面の援助も受けていません。じゃあなんで高校に通えてるんだって話なんですけど、それはお姉ちゃんが助けてくれたんです。お姉ちゃんは高校から海外の学校に通って、大学を人より早く卒業しちゃうくらい賢くて。そんなに歳は離れてないんですけど、公立でも私立でも、高校と大学の学費くらい出してやれる、って言ってくれて。すごいですよね。それでこの羽星高校に通えることになったんです。


 お姉ちゃん、というとこの前家に押しかけてきた紅音のことだろうか。初見ではまだ大学生、といった印象を抱いたが、すでに社会人として働いていたとは。


 高校に入学して、4月の終わりくらいでしたかね。同年代くらいの男性が帰り道に声をかけてきて。中学の時から結構慣れっこだったので、それとなくお断りはしていたんですけど、どうやらその人、彼女さんとお別れしてまでわたしにアプローチをしにきていたらしくて、それを雨が降ってる公園で聞かされました。その、元彼女さんから。


 要にとっては聞き覚えのある、というか身に覚えのある話だ。今まで点在していた事柄が、線で結ばれたような気がする。あの時は女子高生同士のいさかいだと思っていたが、聞く限りでは陽葵には全く非がなく、詰め寄られるのは理不尽というものだ。

 西谷学院といえば、この辺で随一の新学校である。いくら学校の偏差値が高くても、そんな人はどこにでもいるんだな、と要は心の中でぼやく。


 あとは要くんが知っている通りですね、あの時要くんが助けに来てくれた後、実は心から安心してました。要くんが来てくれなかったら、わたしはあのまま罵声を浴びされ、もう何発か暴力を振るわれていてもおかしくなかったでしょう。わたしは両親からそうされたように、人から失望されているのがすごく、怖くて。だから学校でも人から嫌われないように、愛想良く立ち回って。それでもいつか仲良くしている人たちにも失望されて、みんな離れていっちゃうんじゃないかって......あれ?


 感情的になる陽葵の頬には、一筋の透明な雫が伝っていた。袖で拭うも、とめどなく溢れるそれはだんだんと袖を鈍色に染めていくだけだ。

 要は目を擦り続ける陽葵を、両の腕で包んだ。いつもでは考えられない行動に驚いたのか、陽葵は嗚咽も忘れ息を呑んだが、少しすると要の胸に寄りかかってくる。


 「すいません、要くんの前では、いつも笑顔でいるって、決めていたのに......」

 これほど感情を露わにするということは、これこそ陽葵の心の叫びなのだろう。中学受験に失敗した時からの痛みを、なんの因果か要に吐き出してくれた。

「気にしてないさ。そんなことより、陽葵に三つほど言いたいことがある」

「......なんですか?」

 泣き腫らした顔を見られたくないのか、陽葵は要の服に顔をうずめたまま尋ねる。右手を陽葵の頭に移動させ、撫でてやりながら続ける。

 「一つ目、よく話してくれたな。きっと思い出すだけで辛いこともあっただろうに、ありがとう」

「............」

「二つ目、陽葵の仲良くしている人ってのがどこまでの範囲なのかはわからんが、少なくとも俺は陽葵に失望しない」

「......!」

 陽葵はようやく、ゆっくりと頭を上げた。周りを赤く腫らした潤んだ瞳が、真っ直ぐに要の目を射る。なんとなく照れくさくなって、反対に要は目を逸らした。


 「その......最初は陽葵のことどうとも思ってなかったけど、今ではかけがえのない存在というか、いないともの足りないというか。ご飯を作ってくれることや色々世話焼いてくれるとこを抜きにしても、いてくれないと、なんか嫌だ」

 普段口が裂けても言わないような台詞に、要はいたたまれない気分だ。陽葵がこんな状態でなければ、走って逃げ出したいくらいに。

 「............」

 肝心の陽葵はというと、一時は止まったかに思えた涙が、再び栓が抜けたように流れてきている。


「そのっ、俺に必要とされていてもあんま嬉しくないかもだけど、きっと響も舞海も同じように思ってるから!」

 要は己の言動が涙の引き金になってしまったのかと考え、罪悪感に駆られながらも必死に宥めようとする。

 「......嬉しい」

 陽葵がこぼした一言に、要はハッと目を開く。陽葵は未だ涙を流し、鼻をすすり、声には嗚咽が混じっている。しかし表情は打って変わって明るく、慈愛に満ちた女神のようにも見える。

 「要くんがそう言ってくれて、とっっっても嬉しいです。もちろん、風間さんや舞海さんも仲良くしたい人たちですが」

 硬直している要の頬を、今度は陽葵が、両の手で包んだ。自分が泣かせた、と焦っていた要の顔を自分の方に向け、視線を絡める。


 「私からすれば、要くんがいてくれるだけで、今も、これからも、十分すぎるくらい、幸せなんですよ」


 その言葉を聞いた瞬間、要の胸には何かが溢れ出した。それはただの喜びや感動だけではなく、形容し難い充足感だった。ずっとこんな時間が続けばいい、要は生まれて初めてそう思った。


 要は陽葵の手を取り、優しく握り返した。彼女想いが温かな手の感触を通して、心に流れ込んでくるようだった。

 「ありがとう」

 要は静かに言った。握り返した手をゆっくりと引くと、陽葵はこちらの意図を解したのか、身体をこちらに預けてくる。

 二人はしばらくの間、言葉を交わさずにそこにいた。それはただただ、お互いの存在と体温を感じ、支え合うことができる喜びに満ちた時間だった。


 「......要くん」

 どれほど経っただろうか。体勢はそのままに、陽葵がおもむろに口をひらく。

「......どうした」

「その、ごめんなさい。急に取り乱しちゃって」

「謝らなくていいよ、さっきも言ったけど気にしてない」

「そ、そうですか」

「......でも」

「でも......?」

「陽葵が泣き出したのは、ちょっと驚いた」

「な、泣いてませんから!」

「いや、誰がどう見ても泣いて」

「泣いてませんからー!!」

 何を思ってかは知らないが、陽葵は否が応でも泣いていたことを認めたくないらしい。これも乙女心とやらに含まれるのだろうか。それなら分からなくてもしょうがない、で済ませられるのだが。

 わざとらしい咳払いを一つ、陽葵は続ける。

 「こほん......そんなことより要くん、三つ言いたいことがあるうちの二つしかまだ聞いてませんよ?」

「あー、三つ目は別に言いたいことではあるんだけど、聞かなくでもいいというか聞かない方がもしかしたら幸せというか」

「何か言いかけて言わないって一番気になるんです! 言ってくださいよ〜!」

「......俺が聞きたかったのは、なんで陽葵が英語だけは飛び抜けてできるのかって話ことだ」

「......へ」

 何を言われたのか分からない、この語句を具象化したようなポカン顔だった。泣き腫らした陽葵もそうだが、この顔も要は忘れまい。

 「てことは、わたしの身の上話も、泣く必要も、別になかったってことですか!?」

「まあ、そういうこと、だな。最初の方から聞きたかった話と違うとは思ってたんだけど、止める空気でもないなと思って。ていうかやっぱり泣いて」

「—————!!!! 泣いてないですから!!!」

 怒りか羞恥からか、陽葵は顔を沸騰させた。

 「というか早めに言ってくださいよ! 俺が聞きたいのはそうじゃなくてーって!」

 「それは大変申し訳ない......許してくれ」

 胸板をぽかぽかと殴る陽葵を、要は抱きしめて頭を撫でる。要もハグに慣れてしまったわけではないのだが、羞恥と歓喜から陽葵がおとなしくなるのは知っている。

 予想通りというべきか、陽葵は顎下を撫でたようにおとなしくなり、微かに笑みさえ浮かべている。


 「抱きしめてくれているのと、言いたいこと二つ目に免じて許すことにします」

「......そりゃどうも。一応言っとくけど、その場しのぎの世辞で言ったんじゃないからな」

「......今、さらに幸せが大きくなりました」

 そう言いながら、陽葵は今以上に要に擦り寄ってくる。既に二人の距離はゼロなのだが、体にかかる陽葵の重みが増す。


 「そういえば英語ができる理由ですけど、本当に小さい時にアメリカに住んでたってだけです。両親がニューヨークにも家を持ってて」

 要が聞きたかったことは、本当に三行に収まってしまった。拍子抜けするほど簡単な、しかし一般人からすれば驚くような理由だ。ニューヨークに住んでる人って金持ちばかりなイメージがあるのだが。きっと要の考える十倍くらいは、陽葵の実家は太いのだろう。

 「じゃあ今度から英語は、俺が陽葵に教えてもらう側だな」

「いえその......結構なんとなくで解いてると言いますか、そもそも教えるのが苦手と言いますか」

「......左様で」

 教えるのが下手、というところに若干の羞恥を感じたのか、微かに白い肌が朱に染まる。もっとも、要とくっついている時から陽葵の頬は染まりっぱなしなのだが。

 目線を動かし壁掛け時計を見ると、短い針は既に五と六の間を指している。思っていたよりも時間が経ってしまっているようだ。いつもなら既に夕食を作り始めている頃である。


「ちょっと遅くなったけど、そろそろ夜ご飯でもつく......陽葵?」

 夕飯を作り始めるべく体を起こそうとする要に対し、陽葵は要にのしかかったまま動こうとしない。

「もうちょっとだけ」

「......ん?」

「もうちょっとだけ、ダメですか?」

「————」

 そんな顔されたら、断れるものも断れまい。珍しく全面的に甘えてくる陽葵に悩殺された要は、しかし最後の抵抗として、何も言うことなく陽葵を受け止めた。無言の肯定を受け、陽葵の表情に笑顔がともる。


 「要くんのそういうところ、好きだな」


 その好き、って、どういう——


 少しでも雑音があれば聞き逃していただろう、針が落ちるように小さな声だった。陽葵の発言の意図を尋ねようと思ったが、咄嗟には口に出ない。これを聞いてしまったら、今の関係が変わってしまいそうで——


 「よっと」

 せめて激しく音を立てる鼓動を聴かれまいと、要は陽葵を少し持ち上げた。これまでは要が陽葵を包むような体勢だったが、一般的なハグの姿勢へと移行する。破裂しそうなほど熱くなっている顔を見られないためでもある。


 「......ふふ」

 そんな要のことはつゆ知らず、陽葵は首元から伝わる要の体温に幸福感を覚えていた。陽葵にとって先の発言はあくまで心中で呟いた独り言であり、口をついて漏れ出ていたことに気づいていない。

——いつか直接、伝えられたらいいな。

 そんなことを考えている少女に、もう涙の形跡は塵程も感じられなかった。

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