第73話:なんだか久しぶり

 少し遅くなった夕食をとった後、時刻は九時前。要は入浴を済ませ、陽葵も風呂のために自室へ帰ってしまった。今日は主に精神的に疲れた日だったが、まだ週初めなのだと思うと溜め息も出てしまう。特に課題は出ていないのだが、明日の授業の予習をして床に就くつもりだ。

 普段学習を自室かリビングでやるのかは気分で決めているのだが、今日ばかりはリビングの選択肢はなさそうだ。このテーブルと椅子では、今日の出来事がフラッシュバックして集中できないに違いない。

 そう考えながら、古典でもやりますか〜と独り言をこぼした瞬間。


 ガチャ。


 紛うことなく、要の部屋、505号室の鍵が開く音だ。部屋の鍵を持っているのは不動産屋と要を抜けば、両親とあと一人しかいない。


 「要くん、お邪魔してもいいですか?」

 予想に違わず、ドアから顔を覗かせたのは四つ隣に住んでいる少女だ。服装が違うところを見るに、入浴を済ませて着替えてきたのだろう。

「いいけど、どうしたんだ? 忘れものとかか」

「いえ、特に用はないんですけど......迷惑でしたかね」

「そんなことないさ。寒いだろうし入ってくれ」

「ありがとうございます。お邪魔しますね」

 先週とは打って変わって、今日は九月下旬らしい気温になっている。少ししか空いていないドアからも少しづつ冷気が流れ込み、要の部屋の温度を奪っていく。


 陽葵の服装は首元にフリルがついた、いわゆるネグリジェというやつだ。深い紺青のスカートからは、反対に眩しいほど白い足がのぞいている。

 「その、恥を上塗りするようですが、今日はなんとなくもうちょっとだけ、一緒にいたい気分だったと言いますかっ」

「そ、そうか」

恥を上塗り、というのは、彼女からすれば泣いたのはよほど恥ずかしかったことらしい。もちろん、要からすれば甘えられたことも十分恥ずかしいことだったのだが。会話に若干のぎこちなさが残る。要は二人分のお茶を入れながら、陽葵は金魚のキンちゃんを見つめながら続ける。

 「要くんはもう寝るところでしたか?」

「いや、古典の予習をしてからって思ってたけど、予習ためてあるから大丈夫だぞ」

「よ、予習をためる......」

 陽葵からすれば異次元の発想に、微かに苦笑してしまう。お茶を出してやれば、小さく「ありがとうございます」と笑いかけてくる。


 「それか陽葵も一緒に予習するか? 違う教科でも」

「いえ、わたし予習は日中にしたい派なので! 全然大丈夫です!」

「そんなこと言って、やりたくないだけなのバレてるからな」

「そ、そんなことは......あるかもですけど」

 わかりやすく目をそらす陽葵に、要は仕方ない、と苦笑いを浮かべた。陽葵は誤魔化すように、お茶を一口。


 正直、何を話せばいいのかわからない。なんなら今は陽葵の顔を見るだけでだんだんと恥ずかしさが襲ってくる。


 「まあ、映画でも見るか?」

「はい!」

 映画を見ながらなら、あまり会話する必要もないだろうし、意識を映像に集中させることができる。

 「じゃあこの前見たホラー映画の二作目でも......冗談だって」

茶化して言えば、無言でクッションを振り上げている陽葵が目に入った。前回見た時は半泣きになっていたし暗いところを見るたび殺人鬼が、と怯えていたので、相当ホラーが苦手なのだろう。

 今回は無難に、ゆるいキャラクターたちが冒険する映画をチョイスした。陽葵にこれでいいかと聞いた時に、目を輝かせながら肯定してくれていたので、お気に召したのだろう。映画本編は八十分ほどなので、二十三時前には陽葵を部屋に帰せそうだ。


 せっかくなので部屋を暗くし、光源はテレビからの光だけにする。陽葵を隣に座らせ、リモコンを操作し再生すれば、何度も見た映像会社のロゴから、映画は始まった。


 「要くんと映画を見るのは、なんだか久しぶりです」

「言うてもまだ二回目なんだけどな。初めて見た時はホラー映画で陽葵が泣いて」

「泣いてません」

「はいはい」

「もぉー! 泣いてないですからね!」

 頑なに泣いていたことを認めない陽葵をあしらうと、陽葵は少し不機嫌になったように口を尖らせた。

 「要くんのLeneをもらったのも、確かあの時でしたっけ。毎日会ってるのに、メッセージのやり取りも毎日してるのはなんだか変な感じです」

「まあな。陽葵はLeneでもそのままというか、ビックリマークをたくさん使ってるイメージしかない」

「そんなこと言ったら、要くんがよく使ってるイルカのスタンプはイメージと違いすぎて笑っちゃいました。『うい』とかしか返ってこないのかと」

「俺をどんな無愛想なやつだと思ってるんだ......同じことを舞海にも言われたが」

「ふふっ......イルカ、好きなんですか?」

「小さい時によく水族館に連れてってもらって、よくイルカショーを見てたな。体重が重いイルカが、あんなに高く跳ぶのに驚いたもんだ。スタンプは響がくれたものなんだがな」


 初めは会話をあまりしなくて済むよう映画を見始めたのだが、気づけば他愛無い会話が続いている。ぎこちない雰囲気はどこへやら、いつの間にか映画がメインではなくBGMになっていた。


 一頻り会話を楽しむと、しばらく無言の時間が流れた。片手間で見ていた映画に意識を向ける。起承転結の承くらいまでは、物語が進んでいた。

 「......要くん」

「どうした?」

 数分の沈黙を、陽葵の一言が破った。今度はなんの話だ、と思っていた要の度肝を抜く言葉が続くことになる。

「もうちょっと、そっちに行ってもいいですか?」

 現在ソファに座っている二人の間には、もう一人入れそうなくらいの間が空いている。陽葵の意図を伺うものの、陽葵は正面を向いたままで、暗さも相まって表情はあまり見えない。要は全く構わないのだが、今日の陽葵はどうしたのだろうか。少し、積極的が過ぎるのではないだろうか。


 「し、失礼します」

「あ、ああ」

 要の無言を肯定と捉えたのか、陽葵は手で身体を浮かせながらスライドさせて、要に接近した。体一つ分の距離が、拳一つ分にまで縮まる。


 「......!」

 シャンプーの残り香だろうか、いつにも増して蠱惑的な甘い香りが漂う中、陽葵は自分と要の指を絡ませた。なるほど、近づいてきたのはこういう意図があったらしい。不意をつかれ、要は全身を緊張させてしまう。数時間前には長い間抱きしめていたくせに、と思われるかもしれないが、それとこれとは話が別だ。女子に耐性のない要がすぐに慣れるわけがないし、相手が絶世の美少女であるのだから尚更だ。


 陽葵の表情が気になるが、前髪に隠れて伺うことができない。しかし、手を通して伝わってくる体温は要より若干高く感じるのは気のせいだろうか。要の体温も相応に上がっているはずなのだが。

 要は心の中で深呼吸をしながら、冷静さを取り戻そうとした。陽葵の積極性に戸惑いを覚えるが、ただ胸の内を吐露してメランコリーな気分になっただけなのか、はたまた違う意図があるのか。

 そんなことを考えているうちに、映画は佳境を迎えていた。

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