第38話:命名

「……そんなに悩むもんか?」

要は呆れたような声をもらした。


「悩みますよ! 要くんも、自分が住んでるアパートが適当だったら悲しくないですか!?」

「それはそうだが……」

「なら金魚さんも一緒なはずです! きっと可愛い水槽を所望していますよ!」

「……そういうもんか」

「そういうものです!」


それだけ真剣なのか、陽葵は熱を持った声で応じた。

ホームセンターにはかなりの種類の水槽があり、一つずつ手に取っていれば日が暮れてしまいそうだ。中には持てないほど大きい物もあるが。


比較的小さな部類を選んで見ているのだが、それでも中々決まらない。机に向かう時より真面目な顔で、陽葵は十分以上も唸り声をあげていた。


「要くんはどうやって選んだんですか?」

「うちは父さんが適当に買ってきたんだよなぁ……こだわりとかもなかったし」

「なるほど」

「まあデザインでいいと思うぞ。あんまり広すぎても、金魚側が持て余すだろ」

「ん〜……じゃあこのおっきいのはやめといた方がいいんですかね……」


そう言って目をやったのは、電子レンジ大の水槽だ。これなら金魚が数匹どころか、中型までの魚ならなんでも入りそうだ。


「金魚一匹なら、この辺ので十分だ」

要はより小さめの水槽の方に陽葵を導く。

「思ってたより安いですね」

「うちの水槽もこんなもんだった。これでも結構広いぞ?」

「う〜ん……じゃあ、これにします!」


陽葵が指さしたのは、一つの金魚鉢だ。彼女の腕にすっぽりと収まる大きさで、高さは三十センチほど。縁は涼しげな青に彩られ、ガラス細工はゆらゆらと波打っている。


棚に置いてあったそれを持ち上げてみせ、要の方に首を捻った。


「かわいくないですか? デザインならこれが一番です!」

「いいんじゃないか? デザイン重視って言ったの俺だし」

「あっ、でもこれガラスですよね……落として割れないか心配です」

要は肯定するも、陽葵は不安げにこぼす。


「大丈夫だと思うぞ。餌やるとき以外はほとんど近づかないし」

「なら大丈夫……なんですかね?」


と言っても、この天真爛漫な少女はしばらく金魚にべったりしそうだ。生まれて初めて動物を飼うのだから、心躍るのもやむなしだとは思うが。


「じゃあ水槽はこれとして、次は餌だな。水槽は重いから、後で取りにくるか」

「はい!」

陽葵は大きく頷くと、丁重に金魚鉢を棚に戻した。


「……そんなに悩むもんか?」

要は十数分前と同じ台詞を吐いていた。

陽葵は陳列している円柱型の入れ物を、手に取っては眺めている。わかるはずもない栄養やら成分やらの部分と睨めっこを続け、ある程度の時間うんうんと唸り声をあげると、また違う種類を手に取り……その繰り返しである。


台所を預かる身としては、金魚の餌にもこだわりたいらしい。

「金魚さんって、好き嫌いとかないんですか?」

「基本なんでも食べるぞ。慣れない餌だったら口に入れて吐き出すってこともあるらしいけど」

「そ、そうなんですか……」

吐き出す、というのが彼女の鼻についたようだ。より一層険しい顔になり、これではいくら時間があっても決まらなさそうだ。そう見えた要は口を開く。


「まあ、慣れない餌ならって話だけどな。あの人がやってたやつなら大丈夫だと思う」

「それならこっちのですかね?」


あの人、というのは金魚すくい屋の店主のことだ。陽葵もすぐに理解したようで、餌の形状を思い出そうとほっそりとした顎に手を当てる。


記憶に新しいようで、程なくして片手を持ち上げた。彼女の指と正反対の、赤いパッケージのフレーク餌が握られている。


水や魚自体を綺麗にできるらしい。もちろんこれだけで完全に汚れを抑制できるわけではないので、別途手入れなどが必要だが。

そういえば掃除用具も必要だな、と考えながら、要は陽葵に身体を向けた。


「じゃあこれにするか。あんまり悩み過ぎても決まらないような気がするし」

「はい!」

陽葵は金魚の餌を、ホームセンターのカゴに入れた。少し振動を受ける度、中でカラカラと軽い音を立てる。


「あとは何が必要なんですか?」

「そうだな……掃除用具と植物、あとは砂もいるな」

「思ったより多いんですね」

「ちょっとくらい調べとけよ……」

「だから要くんを連れてきたんです! ほら、行きますよ!」

「へいへい」

気の抜けた返事を返す前に、陽葵は既に歩き出していた。



「ただいまで〜す!」

要が自室を解錠すると、陽葵が無人の部屋に帰りを告げた。

あの後は特に何かあった訳ではなく、買い物はつづがなく進行していった。


カゴにあった餌の他に、植物や掃除用具、金魚の生活リズムを整えるための照明、底砂や結構大きめのフィルターなどを入れれば、カゴはずっしりと重くなっていた。そこに水槽まで入るのだから、要が両手でカゴを持つと、持ち手が弓なりにたわんでしまい、壊れないかと冷や汗を流したものだ。


そこで袋を三つに分けてもらい、重いものから順に入れてもらった。一番軽いものを陽葵が持ち、残った二つを要が持った。


わたしが買ったものですからわたしが持ちます、とおろおろしていた陽葵だったが、これを女子に持たせるのは流石に気が引ける、と要が申し出を断ったのだ。あの少し力を込めるだけで折れてしまいそうな細い腕に持たせては、男としての面目が立たない。


しかしこの猛暑の中、両手に重い袋二つを持つのは、何時間勉強を続けるよりも辛い所業だった。まるで水が並々と入ったバケツを持たされている気分で、腕がちぎれそうになりながら家路を急いだ。


途中何度も陽葵に代わりましょうかと心配気味に言われたが、変な意地を張り続けた。最終的には老婆のように背筋を丸め、袋は地面に引きずられそうな高さになったところでようやくアパートに着いたのだ。


もう数百メートルこのアパートが遠ければ、地面に擦るか陽葵に救援を求めていたことだろう。


どかっと音を立てて両手の荷物を下ろしたい衝動を、要は必死に抑えた。特に重い左の袋には、ガラス製の金魚鉢が入っている。これが割れる、或いはヒビでも入ってしまえば、ここまでの苦労が水の泡だ。間違っても傷つかないよう、要は慎重に荷を下ろす。


「お疲れ様でした! お茶どうぞ!」

一足先に部屋に入っていた陽葵が、コップに注いだ麦茶を持ってきた。二つの角氷が浮かべられていて、カラコロと涼しい音を立てている。周囲との温度差により、コップには水滴が幾つも表れていた。


要は陽葵からそれを受け取ると、一気に半分以上も呷った。キンキンに冷えた麦茶は、暑さで渇いた要の喉を潤していく。


「ありがとう、生き返った」

「ふふっ、それはよかったです!」

要が思ったままを口にすると、陽葵は小さく笑った。そのまま脇に置いてあった重い袋を二つとも持つと、ぱたぱたとリビングへ行ってしまう。


「要く〜ん、これ全部開けますよー!」

「はいはい、ちょっと着替えてくるから待っててくれ」

要の額には露のような汗が浮かび、Tシャツは肌にぺったりと張り付いていた。背中には暗い濃緑色の中に、ねずみ色のシミが生まれている。ホームセンターにいるときはなかったので、ここ十五分ほどでできたものだ。流石にこのまま作業をするのは気持ちが悪い。


陽葵に断りを入れると、要は部屋着に着替えるべく自分の部屋へと向かった。



「これで完成ですか?」

「多分そうっぽいな。おつかれ」

陽葵がせっせと金魚の住処を作るのを、要は基本的に隣で見守っていた。


最初は手伝う気でいたのだが、「金魚さんの家はわたしが作ります!」と瞳に火を宿していたため、要望通り要はノータッチだ。たまに聞いてくることに答えるくらいで、金魚鉢とその他諸々を組み立てたのは陽葵である。


「やったー!」と喜ぶ陽葵を横目に、要は何かを思い出したように少し上を向く。

「なあ陽葵、この金魚鉢を置くの、陽葵の部屋でいいんだよな?」

「へ?」


彼女からしてみれば突拍子もないことなので、そんな反応をするのも頷ける。質問の真意を図りかねてか、陽葵は問で返す。


「どういうことですか?」

「こっちの部屋いるときに、金魚の餌やりに行くの面倒かと思って。あっ、こっちの部屋に置けって言ってるわけじゃなくて」

「なるほど、言いたいことはわかります」


つまり要は、陽葵の身を案じているわけだ。夕飯を作っているときやその後のゆっくりしている時間に、自室まで赴くのが大変ではないか、と。


要としても、彼女がご飯を作っている間に部屋に入り、餌をやるのは憚られる。女子の部屋に一人で入るのは、精神力がごっそり持っていかれそうだ。


もちろん、今日は金魚に餌をあげないといけないので、そろそろお暇しますという風に、その時点で帰ればいい。いいのだが……

(要くんとの時間が減るのは、できればいや、です……)

陽葵は金魚鉢と要の間に、視線を往復させた。


「あの、要くん」

「なんだ?」

「もしわたしが面倒です〜って言ったら、要くんのお部屋に置くことになるんですよね?」

「そうなるな」

「……お邪魔ではないですか?」

「まあこのリビング広いしな。スペースの心配なら大丈夫だぞ?」

「いえ、そうではなくて……」

要のひょうひょうとした態度に、陽葵は眉を下げる。


「要くんは邪魔に思わないのかと……」

「今までどれだけ飯作ってもらったと思ってるんだ。そろそろ恩返してかないとな」

陽葵は「それでも……」という言葉を飲み込んだ。少し俯き、考える。

顔をあげる頃には、既に答えは出ていた。


「それじゃあ、お願いしてもいいですか? もちろん餌やりとかは全部わたしがやりますので……」

「ん、了解」

それだけ言うと、要は席を立った。喉でも渇いたのか、キッチンに向かう。しかし、先程陽葵が持ってきたコップは、目の前のテーブルに置かれている。


「じゃ、試運転するか」

要が持ってきたのは、袋に入っている陽葵が獲った金魚だ。その袋は、調理に使うボウルの中の水に沈められている。


「こうやって温度を同じくらいにしてやらないと、水槽に入れたとき驚いちゃうからな」

「もう入れても大丈夫なんですか?」

「あぁ、三十分くらいはこのままにしておいたから、そろそろ大丈夫なはずだ。」


陽葵に袋を渡してやると、紐で絞られている口を開けた。水柱が立たないように金魚鉢と袋の口を近づけ、ゆっくりと傾けていく。


水槽の中に入っても、金魚は特に驚いた様子はない。袋にいたときと同じように、すいすいと水をかき分け泳いでいる。


「気に入ってくれましたかね……?」

「きっと気に入るさ。一生懸命作っただろ?」

「はい!」

「そういえば、こいつの名前は? いつまでも金魚さんって呼ぶわけにもいかんだろ」

「ふっふっふっ、昨日の夜からもう考えてありましたよ!」

陽葵は一呼吸おくと、水槽に手をそっと置いた。中を覗き込むような体勢で、金魚に語りかけるようこぼす。


「あなたの名前はキンちゃんです! 金魚のキンちゃん……ちょっと、なんで笑うんですか」

「悪い悪い、あまりにも安直で……」

要は慌ててたしなめるが、陽葵は微妙に不機嫌そうだ。こちらを向いたまま、金魚のように頬を膨らませている。


「そうだ、これ渡しとく」

「……なんですか? 鍵?」

「うちの合鍵」

「ええっ!?」

そう聞いた途端、陽葵は驚いて声をあげた。


「お前が餌やりたいとき、俺がいなかったらアレだろ」

「あ、悪用するとか考えませんか……?」

「……結構信頼してるよ。もう数ヶ月もいるんだからな」

「……! ありがとうございます!」

余程嬉しかったのか、陽葵はほんのり頬を朱に染め、精一杯の謝辞を述べた。一言だったが、それで十分伝わった。合鍵を宝物のように握りしめ、胸にあてている。

「あといちいち玄関行くの面倒だし」

「ああっ、そっちが本音ですか!?」

「……二:八くらい」

「もぉー! わたしの感動を返してください!」


怒ったふうを繕いながらも、その顔は笑顔に満ちている。そうだ、と言って立ち上がると、陽葵は玄関でスニーカーを履いた。ドアを開け、外に飛び出して行ってしまう。次いで施錠音。

何をしているのか、と要は首を傾げた。様子を見に行くべく、彼女の後を追う。

玄関のマットに足が乗った辺りで、再び扉から音が聞こえた。施錠音に比べ幾らか軽いその音は、解錠音である。要は鍵を触っていないので、外から開けられたということになる。

ドアを開けたのは見慣れた、しかしとても綺麗な美少女である。要は小さく笑うと、少女に向けて呟いた、


「……おかえり」

「えへへ、ただいまです!」


彼女が近くにいると、なんだか心がほっこりする。彼女がいないと落ち着かないくらいには、要はこの少女に思い入れを持ってしまった。


「要くん!」

「なんだよ、陽葵」

要と陽葵のこの関係は、まだまだ続いていきそうである。

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