ゲンジの彼女

 日和たちにとって着隊後初めての朝がやってきた。昨日の点呼後の打ち合わせの甲斐があり、日朝点呼は何事もなく終わる。点呼後はすぐに居室へ戻りベッドメイクを行う。相変わらず慣れない作業で、特に月音は日和と比べて大きく遅れをとっていた。


 そうこうしているうちに日朝点呼後の駆け足訓練、間稽古を終えた巴たち先任期が帰ってきた。流石に慣れている彼女たちは即座にベッドメイクを終わらせ、まだ手間取っている日和や月音たちを手伝う。当然だが、こうして手伝ってもらえるのも入隊式までだから、なんとかコツを掴もうと二人は必死だ。


 ベッドメイクが終われば朝食となる。その後すぐに清掃があるので、朝のベッドメイクが遅れれば遅れる程朝食を摂る時間は短くなる。


 そんな、時間に厳しい航空学生の1日の流れは、大方以下の通りだ。


0600~0610 日朝点呼、後に間稽古

0610~0640 ベッドメイク、朝食

0645~0700 清掃

0700~0730 身辺整理

0730~0750 教場にて待機

0750~0815 朝礼

0825~1210 教育

1210~1240 昼食

1240~1610 教育

1610~1700 保備教育

1700~1730 夕食

1730~1900 部活動等

1900~2000 入浴等

2000~2130 自習

2200 日夕点呼

2210 就寝


 見ての通り一日中予定が詰まっている。入隊式までは色々と省略されたりするが、それを過ぎたらこのスケジュールを守る日々がやってくる。その為にも、今のうちから厳しいタイムスケジュールに慣れなければならない。


 入隊式までの約一週間の間、日和たちは学生生活の基本を学ぶと共に、制服などの官品の貸与、その手入れ、入隊式の練習などを繰り返しす。中でも最初にぶつかる壁は裁縫作業だ。


「ミシンとか無いのかなぁ…」


 神妙な顔で手元の針を見つめる月音を見て日和は苦笑いする。


 これは制服や作業服に階級章や補生き章、航学き章を寸分の狂いもなく定位置に手で縫い付ける作業で、1ミリでもずれていればやり直しを命ぜられたり、縫い方が雑であればその場で助教が引き剥がす。日和は2回目、月音は3回目のやり直しを命ぜられていた。


「私たち、女子力ないねぇ」


 まさかこんなところで手間取るとは日和も思っていなかった。自衛隊というとどうしても体力こそ全てのようなイメージがあるが、意外にもこういう繊細な面がある。


 裁縫が終わればプレスを教わる。プレスとはアイロンがけのことだが、勿論シワ一つ残すことは許されない。さらにつけるべき所にはこれでもかと言う程ラインを残さなけれぼならない。自衛隊に関する話題で、そこらの主婦よりも自衛官はアイロンがけが上手いと言われるのはこの為である。


 続いて靴磨き。航空学生の靴は他の自衛隊が使うそれとはまるで輝きが違う。靴墨を使って丁寧に磨きあげられたその出来映えは、靴の表面が鏡のようになり、映った自分の顔のシワまで見える程である。


「こんなこと、学校では教わりませんでしたね」


  5区隊春香は手を靴墨で黒く汚しながら自嘲気味に笑った。当たり前だよ、と返しながら日和は自分の靴を電灯の光に当てて仕上がりを確認する。まだまだ磨きが甘いようだった。


冬奈ふゆなちゃんは上手だよね。靴磨きもだけど、裁縫とかプレスとか」


 月音は隣で靴を磨く少女に声をかけた。都築冬奈つづきふゆな、6区隊所属である。慣れない作業ばかりで戸惑う者続出の中、彼女だけは淡々とこなしていた。


「私はもう経験済みだし、こういうのは慣れてるから」


「経験済み?」


 どういう意味だろう、と首を傾げる月音。


「そういうこと教える学校もあるんだ?」


 斜め上の答えに冬奈は思わず吹いてしまった。


「いやいやいや、現自げんじってことでしょ」


 冬奈の隣で靴を磨いていた少女が呆れた顔をして口を挟んできた。陣内夏希じんないなつき、彼女も6区隊所属だ。また知らない単語が出てきたので月音はますます首を傾げた。


「ゲンジってなに?源平合戦?」


 月音に訊かれるが、日和も春香も首を横に振った。


「…現役自衛官」


 皆の影になるようなところで黙々と靴磨きをしていた秋葉は呟くように答え、正解! と夏希は彼女の肩を叩いた。


 「現自」とは現役自衛官の略称である。航空学生に合格したのは日和たち部外のものたちだけでなく、普通の自衛官として入隊した者の中からも合格している。彼等は入隊した際すでに一連の教育を受けているので、こういった作業はお手の物だった。


 言われてみれば、冬奈が持っている官品はどこか使い古されており、肩に着いている階級章も日和たち入隊直後の隊員が着ける2等空士の二つ上、空士長となっていた。彼女は元百里基地の航空機整備員で、一度は航学を不合格になったものの諦め切れず、2回目にして合格した。


「じゃあ、先輩になるんですか! 気付きませんでした」


「やめてよ」


 先輩だと気付いて敬語になる日和を冬奈は制した。航空学生は21歳まで受験資格があるため、当然全員が高校卒業したての18歳というわけではなく、日和よりも歳上は冬奈を初めとして何人もいる。しかし、航学の同期である以上敬語は止めろと区隊長らは言う。航空学生の世界では年齢よりも自衛隊歴よりも航学の期別が優先される。それはたとえ階級が逆転しようとも変わらず、冬奈はそれを忠実に守っていた。


「そういうことだから、別にタメ口でも構わないわ。私もそうするつもりだし。特に…」


 冬奈は鋭い目付きとなって春香を指差した。


「桜庭学生、あなたはもっと同期に寄り添うべきだわ。いつまでそうやって他人行儀でいるつもり?」


 急に矛先を向けられて春香は戸惑うしかない。


「えっと…そんなつもりじゃ…ないんですけど」


「その敬語よ!」


 さらに冬奈は畳み掛けた。


「私たちは同期なのよ。友達のように馴れ合う必要はなくても、せめて言いたいことを言い合える仲であるべきだわ。そうやって遠慮して接していると、いつまでも本当の団結は得られないと思わない?」


 冬奈の言うことはもっともで、ここは自衛隊であって学校ではない。組織における団結とは友達同士のそれとは異なり、仲良くすることが目的ではない。お互いが言いたいことを言い合えてこそ、互いに切磋琢磨できるのであり、それは組織の団結力へと変わっていく。一足先に入隊している冬奈はそのことをよく理解していた。


 しかし春香はあまり納得していないようだった。


「えっとですね…これは」


 秋葉に目線を向ける春香。それに気付いた秋葉は深く頷いた。すると春香は大きく一回深呼吸し、行儀よく正していた姿勢を崩して表情を一変させた。


「そぎゃあ、おらだって普段通りに話しぶさん、そいのが楽じゃきに。ばってんごれだど言葉がながなが伝わらんで、かといっち東京の言葉さつがおうとすっど、こいがごっつやおいかんと。父っちゃの仕事が関係して幼さるごろがら日本中えろんなどご巡ってるうちに、こげな話し方になってしもうて、敬語ならいけんかまどもに話せっで、そんなどころで許してくれへんじゃろか?」


 秋葉以外、全員口を開いて目が点になってしまった。なにか言いたげな冬奈も言葉が見つからず、まるで魚みたいに口をパクパクさせる。


「すっごぃ…なに言ってるか全然わかんないや」


 ようやく夏希が反応を示す。すると春香はまた背筋を伸ばし、いつも通りの表情に戻った。


「この通り、標準語で話そうと思ったら敬語じゃないと話せないんです。冬奈さんの言いたいことは勿論分かるんですけど、私としてはこっちの話し方のほうが意志疎通しやすいかなぁ、と」


 同じ区隊の秋葉はこのことを知っていたのだろう。きっと冬奈と同じやりとりを、昨日の区隊での自己紹介の場でしたに違いない。


「出身はどこなの?」


 広島です、と日和に答える春香。


「ただ、実家が広島なだけで、実際はあちこちに住んでます。色んな人と接するうちに言葉が移っちゃって、お陰で家族にも時々意味が通じないんですよ」


「多分、使い方が間違ってる言葉も入ってたよ…」


 夏希に指摘されて春香は恥ずかしそうに頭をかいた。


「そうなんですよ。だから下手に話すとネイティブの人にも気分を悪くさせてしまいますから、できれば敬語のままで話したいんですけど…」


 申し訳なさそうに話す春香に、冬奈はなにも言えなかった。彼女にとってこのことはコンプレックスでもあったため、なるべくなら誰にも言わないでおきたかったのだろう。いくら自衛隊での決まりとはいえ、すまないことをしたなと冬奈は顔を伏せた。少し空気が重くなったのを感じたのか、春香は慌てて明るく振る舞う。


「そんなに気にしなくていいですよ!ちょっと個性的な子だなって思ってくれれば。そのほうが私も気が楽ですし」


 だがそんな春香の気遣いが逆に冬奈の気に触ってしまう。


(なによ、それならそうとハッキリ言ってくれれば…私が悪いみたいじゃない)


 面白くなさそうな顔を冬奈がするものだから、春香はますます慌ててしまうが、そんな空気を一掃するかのように月音が手を叩いた。


「はいはい! じゃあこの話はこれでおしまい!  ねっ?  取り敢えずみんなで力を合わせて、これを終わらせちゃおうよ」


 月音はまだ磨き終わっていない靴を掲げた。そういえば冬奈以外、まだ誰も靴が仕上がっていない。


「そうだね。もう少ししたらまた別の教育があるし、それまでに終わらせないと」


 日和は手元の靴を磨き始めた。しかしかれこれ30分はこの作業をしているが、一向に終わる気配がない。黒光りはするものの、見本として助教から渡されたそれには遠く及ばず、悪戦苦闘が続いた。


「…貸しなさい、それ」


「えっ?」


 突然冬奈は日和から靴を一足奪い取ると、布切れを手にして靴墨を塗り始めた。


「靴磨きはね、単に靴墨を塗って擦ればいいってわけじゃないのよ。ちょっと水分を加えつつ、全体に薄く塗ったらポリッシャーをかけるみたいにこうやって…」


 冬奈の手つきは流石と言うべきで、みるみるうちに靴が輝きを手にしていく。その様子に思わず日和たちは歓声をあげた。


「凄い!  私が磨いたのと全然違う!」


 日和は自分で磨いた靴と冬奈が磨いた靴を並べて見比べた。冬奈が磨いた靴はまるで鏡のように日和の顔が写って見えた。


「最後にコットンとか、繊維がきめ細かい布で仕上げをするとそこまで光るわ。もっとも、その状態は一日しかもたないから毎日靴磨きをしないといけないけどね」


 もしかしたら助教が渡してくれた見本よりも綺麗かもしれないその仕上がりに日和たちは驚いた。


「ねぇ、もう一回やってみせてよ」


 夏希を筆頭に、他の4人も彼女からコツを教えてもらおうと靴を片手に冬奈の周りに集まりだした。


「しょ、しょうがないわね」


 靴を受け取り、再び実演してみせる冬奈。しょうがないと言いつつもどこか嬉しそうな表情をする彼女を見て、日和は安堵のため息を吐いて笑った。

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