小さなミス
週の半ばの水曜日。これまでの71期であれば身体的にも精神的にも疲れがたまってくる頃だが、今週の彼等はいつもより余裕があった。
「遅い遅い! そんなちんたら着替えてたんじゃ間に合わないぞ!」
指導学生が大声で急かすが、後任期たちはそれに動じることなく、てきぱきと体を動かす。
「早いな。もう十分合格レベルだ」
次々と隊舎から出て行く後任期たちを見ながら指導学生長の川越は呟いた。
「あなたがそんなこと言うなんて珍しいわね。そんなに楽観的だったっけ?」
日和たちが出て行った後、各居室の点検を終えてやって来た巴が、川越に一つの鍵を投げ渡した。
「木梨、これは…」
「ロッカーに差しっぱなし。油断したんでしょうね。このまま何事もなく導入を終われるつもりになってたんでしょ」
渡された鍵を見つめ、川越は少し残念そうだった。
「慣れてくるとつまらないミスをするものね。可哀想だけど、こればっかりは見過ごせないわ」
「ああ、そうだな」
また一波乱起きそうだな、と川越は鍵を強く握りしめた。
「4分25秒、まずまずの時間だな」
よしっ、という小さな声が後任期の数人から聞こえた。中には喜びから笑みを溢す者さえいる。その反応を見て川越の顔が歪んだ。
「十分合格圏内だ。この調子を維持できたなら導入教育も問題なく終了できるだろう」
これがなければな、と川越は後任期たちの目の前に鍵を放り投げた。
「…ロッカーキー?」
声を出したのは日和だった。彼女の言葉に後任期たちの顔が青ざめる。
ロッカーオープンという言葉がある。その名前の通り、各人が持つロッカーに鍵をかけることなく部屋を出る行為のことだが、勿論これは自衛隊にとって許される行為ではなく、航空学生たちはこの言葉を聞いただけで震え上がる。
日和は思わず自自分のポケットを探った。ある。毎回月音と相互に指差し確認をしているだけあって、しっかりと鍵を持ってきている。月音や春香、秋葉も鍵があったようで、安堵の息を吐いていた。
「…ない」
夏希だった。本人にも身に覚えがあるのか、みるみるうちに血の気が引いていく。
「陣内、前に出なさい」
本人が動くよりも早く巴が呼んだ。冷たく、容赦のない声だった。
もう何回腕立てをさせられただろうか。後任期たちの体の下には汗で水溜まりができあがり、何人かは自分の力だけでは立ち上がれない程になっていた。最早互いを励まし合う言葉さえ出て来ず、荒い息づかいのみ聞こえてくる。
「ほら陣内、お前が数えないと一回も進まないぞ」
ロッカーに鍵をかけ忘れた本人である夏希は、一人同期たちの前で腕立てをさせられていた。彼女が数を数えれば、それに合わせて後任期全員が腕立てをする。自分のペースでできない分、各人の体にかかる負担は大きい。
「お前ら最悪だ」
川越が冷たく言い放つ。
「確かにお前たちはそれぞれが強くなり、動きも良くなった。正直に言って感心もしていた。だがそれもこの一件で全部台無しだ」
これ以上は体を壊すと判断され、腕立て伏せは中止される。
「さしづめお前らこう考えているんだろう。「ロッカーに鍵をかけ忘れたくらいでなんでこんなに怒られなきゃいけないんだ。ただのイージーミスじゃないか 」ってな」
川越の確信を持った声。かつて自分も同じ立場だったからこそ、指導学生という立場を越えた怒りがふつふつと沸き上がっていた。
「そもそもなんでだ? なんでロッカーに鍵をかけなきゃいけないんだ?」
「官品が入っているからです!」
誰かが即座に答えた。定型通りの、正しい答えだ。
「そうだな。官品。国民の税金によってお前らに貸与されている官品。誰かに盗られないようにする為にも、管理を確実なものにする為にも、ロッカーには鍵をかけるべきだ。だか本質はそこではない」
建前なんて聞きたくない、と川越は言う。
「部屋を出る前にはロッカーに鍵をかけろ。それがここで定められた手順だからだ。やれ防犯上の理由でだとか、物品愛護の精神だからとか、そういう細かい理屈は今のお前たちには必要じゃない。お前らが思っている通り、こんなのはただのイージーミスだ」
「だったら…なんでこんなに…」
力尽きそうな、か細い声で夏希が訊ねる。ちょっとしたミスで、どうしてこんなに怒られるのか。夏希を始めとして、後任期の誰もが理解できなかった。
「…ただのイージーミスだからだ」
川越が空を指差した。ちょうどT-7初等練習機が訓練飛行のために空に上がっていくところだった。
「例えばお前たちが将来空を飛べるようになった時、本来定められているはずの飛行前点検を怠ったら? 例えば給油口を閉め忘れていたら? 機体はたったそれだけのことで呆気なく墜落するぞ」
墜落という言葉が後任期たちの顔を強張らせる。
「もしそれが作戦行動中の機体なら? 本来行われるべき攻撃が行われず、仲間が危険に晒されるかもしれないぞ?」
実力が足りなかった、という理由ならたとえ負けても納得ができるかもしれない。だが、ただのイージーミスが原因で仲間の命が失われた時、そのせいで守れなかった国民がいた時、果たして「全力を尽くした」と胸を張って言うことができるだろうか?
鍵のかけ忘れ。それだけ聞けば些細なミスに過ぎないかもしれない。だがその些細なミスがきっかけとなって大きな事故が生まれるかもしれない。
「もう一度、もう一度自分たちの意識について考えなおせ。今のお前たちでは導入期間を終わらせることなど到底できない」
最悪の空気のまま後任期たちは解散を告げられる。その後はまた舎前に全員集まっての話し合いだ。前回は沢村が槍玉に挙げられていたが、今回の標的は夏希だ。
「みんな、ごめん! うっかりしてたと言うか、私が余裕ぶっこいてたせいなんだ!」
集まってすぐに頭を下げる夏希。自分がやってしまった事の重大さはよく理解している様子だった。
「まったく、頼むぜ陣内? あと一週間だけなんだから、最後までしっかり気を引き締めていけよ」
彼女に対して怒っている学生はいなかった。鍵をかけ忘れることなんて誰にでもあり得ること。それを知っているからこそ、誰も夏希を責めることなんてできなかった。
「私からも謝るわ。同じ部屋でありながら確認を怠ってしまった私にも責任はある」
冬奈も一緒に謝ってくれて、ようやく夏希は顔を上げた。やってしまったことは仕方ない。次から気をつければいい、と皆が気持ちを切り替えようとしていた。
(あれ、これでいいのかな?)
話し合いも終わろうかという中、日和はどこか違和感を抱いていた。
誰かがしくじって、そのことで本人が謝って、次からは気を付けようと言って終わる。なにも問題ないように思えるが、果たしてそれだけでいいのか。
自分たちの意識についてもう一度考えなおせと川越は言った。その言葉の意味を、本当に自分たちは正しく受け取っているだろうか。
「あ、あのさ」
解散しようとしていた同期たちは日和の声に振り返る。
「坂井か…」
またお前か、と言われた気がした。皆の意見が合致し、さあ動き出そうという時に水を指す行為。人によってはあまり面白くないと感じる者もいるだろう。そのことに気付いてしまった日和は思わず一歩後ずさった。
「あ、いや…」
余計な一言かもしれない。今は小さなことにこだわるより、この場の空気を大切にするべきだ。そしてなにより日和自身、次の言葉が見つかっていなかった。
「言いたいことを言うべきだよ、日和ちゃん」
引き下がった日和を止めようとしたのは月音だ。
「私、日和ちゃん程賢くないけど、日和ちゃんが私たちに大切なことを伝えようとしてくれてることは分かるよ。もし気付いたことがあるなら、遠慮しないで教えて欲しいな」
「えっと…」
月音の言葉は嬉しかったが、彼女が期待している程に大したことを話す自信もない。こんなことで仲間の気持ちをかき回すわけにはいかなかった。
「やっぱりいいよ。ごめん、余計なこと言っちゃって」
「なんだ、もう逃げないんじゃなかったのか」
今度は日和の背後から、沢村が後押ししてきた。
「お前が言わないなら俺が言うだけだぞ」
「沢村…」
どこかトゲがあるような言い方に、日和はムッとした。そこまで言われたなら引き下がるわけにもいかない。
「やっぱり、もっとちゃんと話し合うべきだと思う。小さなミスだけど「次から気を付けよう」だけで終わらせることなんてできない」
日和の言葉に同期たちの反応は薄かった。言いたいことはわかるけど、といった具合だ。
「でも、ただの「鍵のかけ忘れ」ですよ? うっかりしていたから、次からみんな気を付けようって以外には何もないかと…」
「まあ、そうなんだけど…」
春香の返しに日和はなにも言えなかった。それでもどこか納得いかない気持ちが残り、どうしても引き下がれない。そんな彼女を見かねて沢村が大きく息を吐いた。
「だから話し合おうって坂井は言ってるんだろ。そもそもなんで鍵をかけ忘れたのか、どうすれば防げたのか、そういうことを考えないまま、仕方ないの一言で済ませるなってことだ」
ああ、と何人かは納得いったように頷いた。
「まあ正直、どこか気が抜けているような空気ではありましたね」
「良い意味でも悪い意味でも呼集慣れしてたからね。鍵をかけることだって、あまり意識してやってないし」
一人が口を開けば、皆が口々に今回の失敗について話し出す。自分自身では気付いていなかったことでも、誰かの言葉をきっかけに気付き出すこともある。
「私と日和ちゃんは相互に確認をし合っているよ。自分のじゃなくて、相手のロッカーはちゃんと閉まっているかなって」
「成る程、同部屋の人で補完し合うわけですか。他人のチェックは意識的にしないとできないことですし、それなら今回みたいなミスは防げますよね」
「あ、それならうちの部屋は…」
実際に話し合ってみれば様々な工夫が飛び出してくる。一度は「仕方ない」ですませようとしていたことでも、本当はいくらでも対策を立てることができたのだ。
これが大切だったんだ、と日和は思う。どんなことでも真剣に向き合うこと。目の前にある問題に大小の区別をつけないこと。これこそが日和たちに欠けていた「危機感」というものだったのだと。
とても活発に意見を交わす同期を見て、日和は胸を撫で下ろした。残された時間が少ないながらも、大切なことに気付けて良かったと。
「…お前が動かしたんだぞ」
「え?」
沢村は日和の隣に立ち、同期たちを遠目に見る。
「場所さえ用意できれば、自分の意見を発信できる奴はいくらでもいる。大事ななにかに気付くことができる奴も、ここには沢山いる。けどそれを動かすきっかけになれる奴は、恐らくそういないと思うぞ」
「なに、褒めてくれてるの?」
馬鹿か、と彼は吐き捨てた。
「お前みたいに、なんでもかんでもすぐ立ち止まって考える奴がいると、その分俺は迷惑するんだよ。気付けない奴はそのまま泳がせとけばいいものを、お前は周りを巻き込んで、そういう奴を全部拾っていくんだからな」
この反応はいつもの沢村だな、と日和は笑った。
「やっぱり私、沢村のこと嫌いだよ」
「そうか」
「でも、ありがと」
「…うるせぇな」
やや乱暴に沢村は応えると、回れ右をして一人隊舎へと戻っていった。同期たちは皆で話し合いをしているが、自分は関係ないとでも言うように。
沢村は自己中だ。自分のことしか考えていないし、誰かを助けようとも、誰かに助けられようともしない。団結とか協力といった言葉が嫌いで、他人と仲良くしようともしない。
だが彼がいなければ、果たして自分は、自分たち71期は今頃どうなっていただろうかと日和は思う。
日和は沢村が嫌いだ。きっと彼を好きな人間なんて71期にはいないだろう。でも「いなくなればいいのに」とは決して思わなかった。
「よし! 先輩たちにお願いして、もう一度呼集訓練をさせてもらおうぜ!」
「もう失敗なんてするもんか! やってやろう!」
話がまとまったのか、71期たちはもう次に向けて動きだしていた。つい先程とは違い、真剣に訓練に臨もうとしている様子が見てとれる。
「日和ちゃん?」
「うん」
月音に声をかけられて、日和は同期の輪に加わった。
導入期間終了間際、71期に残された時間は少ない。だがそれは彼等後任期にとって、決して足りない程の時間でもなかった。
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