伝統僕主
陸、海、空とあらゆる場所を舞台に活躍する自衛隊。それぞれの場所に適した戦い方があり、その専門性も高いからこそ、それぞれ辿ってきた歴史も違えば運用思想、伝統なども違ってくる。
陸の「用意周到、動脈硬化」海の「伝統僕主、唯我独尊」空の「勇猛果敢、支離滅裂」という言葉があり、これはそれぞれの運用上の特性を表す時によく使われる。同じ自衛隊でも、活躍する場所が違うだけでまるで別の組織のようになってしまうのだ。
海上自衛隊小月基地へ研修にやって来てからまだ一時間と経っていないが、学生たちはすでにその伝統の違いを体感し、戸惑っているところだった。
「海自はね、なにをするにおいても5分前行動が原則なんだよ」
「え、定時定点必達じゃねえの?」
「あれ、行進が止まった後の整頓はやらないの?」
「なにそれ。空自はやるの?」
こんな会話があちこちで聞こえる。ただ歩いただけでも文化の違いが明確に表れ、その都度学生間で確認と意見交換が行われる。普段たくさんのルールに縛られているぶん、些細な違いでもすぐに気付いてしまうし、頭では理解しても身体が勝手に動いてしまうことも多々ある。
「たった一泊二日だけど、わからないことがあったらなんでも訊いてね。あ、ベッドはそっちのを使っていいから」
「ベッドメイクもやり方は違うみたいだねー」
既にシーツがピタッと敷かれたベッドを見て月音が一言。空自式だとあげ床(毛布など畳んだ状態)はシーツも含めて全て畳んでおくが、海自は違うらしい。郷に入っては郷に従えということで、今日のところは海自のやりかたでベッドを作ることになりそうだが、なにせ分からないことが多くて日和は色々と不安だった。
「あ、先に言っとくけど、水道とか使ったら必ず布巾で水滴を全部拭き取ってね」
「え、手を洗った後とかも全部?」
点検が行われる清掃の時だけではないのかと日和は驚く。
「海自は生活の全部が船の上っていう設定なの。もしその辺に水滴とか水溜まりができてたら、それが自分たちで濡らしたものなのか、浸水によるものなのか分からないでしょ?」
その他にも清掃のことを甲板掃除と呼んだり、とにかく海自は船に関係する言葉が多い。たとえ航空学生といえど、将来勤務する場所はあくまで海の上であり、彼等はパイロットである前に船乗りでもあるのだ。
「ねぇ、
「
まだ距離を詰めきれない日和に対し、奏星は気を使ってくれる。
「奏星は、船とか好きで海自に入ったの?」
「んー、そうだなぁ…」
日和の問いに、奏星は少しだけ表情を歪ませた。
「私、もともと航空要員として受験してるんだよね」
「え…?」
「小さい頃から戦闘機乗りに憧れてたからさ。2次試験の面接も空自の人が面接官だったし、3次試験は静浜基地で、もちろんT-7にも乗った」
驚きで日和は口を閉じる。日和についても3次試験の会場は彼女と同じ静浜基地。時期さえ同じだったら、試験の段階で既に奏星と出会っていた可能性だってあったのだ。
彼女のように、当初航空要員として受験したが合格せず、海上要員に回されるという例は毎年ある。もともと航空要員のほうが求められる航空適性レベルが高い為なのか、航空要員としては不合格でも海上要員だと合格レベルという受験生が出てくる。そんな人材をそのまま失うわけにはいかないので、本人は航空要員になるつもりで受験していても、海上要員として採用通知が届くことがあるというわけだ。
「だから正直、
馬鹿な質問をしてしまったと、日和はばつが悪そうに目線を落とした。
同じ航空学生、空を飛ぶことに憧れて入隊したに決まっている。それを深く考えもせず、海上自衛官だから海に憧れたのかと勝手に決め付けてしまった。ましてや彼女が夢見ていたのは戦闘機乗り。海自に入った今となっては、その夢ももう叶うことはない。
「空自航学を受けなおそうとは思わなかったの?」
なにも言えなくなった日和を見かねて月音が話に入ってくれる。
「年齢的にもまだ受験資格はあったよね?」
「んー、1次や2次で落ちてたらそうしてたと思うけど、私は3次で落ちてるしねぇ。航空適性が原因で落ちたってことは、多分私にはそっちの才能が無かったんだよ。次も海上で拾って貰えるとは限らないし、それならせめて海自航学でパイロットを目指したいなって」
そう語る奏星の目には、半分夢を諦めたような悲しい輝きがあった。きっとここに来る前に相当悩んだに違いない。ただでさえチャンスが少なく、倍率も高い航空学生という門。本当の夢を追う為にその合格通知を蹴るのか、それとも妥協して今ある道を進むのか。その選択のどちらが正しいかなんて、本人以外に決める権利はないだろう。
「ごめん…無神経だったね」
ようやく日和が絞り出したのは、そんな謝罪の言葉だった。
「いやまぁ…飛行機だけじゃなくて、
口にこそ出さないが、きっと彼女もその一人なのだろうということは日和たちにも察しがついた。
望んでも入れなかった航空自衛隊。そこに集まる学生たちがもし自分よりも程度の低い人たちだったら…
それでいて海自のことを見下すような人たちだったら…
こんな人たちに自分は負けたのかと、憧れが憎しみに変わってしまうかもしれない。
小月にやって来てから時々感じる冷たい視線。空自がどの程度なのか見せてもらうぞ、とでも言われているような明確な敵意。その全てはこれが原因だったんだなと日和は身震いした。
身辺整理を終えた日和たちは再び集合をかけられ、小月基地の概要について説明を受けた後、各施設の見学などを行った。その中で搭乗員教育資料講堂という資料館を見学することになったのだが、そこで日和が気になったのは予科練についての資料が展示されたコーナーだった。
「ねえ、ここだけ雰囲気違うけど、なんなのかな? 予科練ってなに?」
月音に訊いてみるが、彼女も首を傾げる。するとそこへ冬奈がやって来た。やはりこの手のこととなると説明役は彼女が適任のようだ。
「海軍飛行予科練習生のことね」
「海軍?」
「まあざっくり言うと、旧日本海軍の航空学生制度みたいなものよ。今と違って、卒業しても幹部にはなれなかったみたいだけどね」
確かにそこで展示されている資料は非常に古いものばかりだった。予科練では14~20歳までの若者が操縦者候補生として集められたということで、パイロットを育てるのに長い時間が必要なのは今も昔も変わらないんだなと日和は思った。
「えー、予科練って空自のものじゃなかったの?」
と、そこへ夏希がやって来た。彼女はもとからミリタリー関係に興味を持っていたので、予科練がどういう制度なのか理解しているようだ。
「なによ、空自のものって…」
「あたし、予科練が自衛隊に受け継がれて空自航学になったと思ってたんだよねー。予科練ていうと零戦、戦闘機ってイメージだし。戦闘機パイロットは空自でしか育成してないし?」
「それは日本が空母を持ってた頃の話でしょう。今でこそ海自は戦闘機とか持ってないけど、パイロットを育ててることには変わりないわ。別に予科練が航学の前身だって言うつもりはないけど、少なくとも海自航学は予科練の影響を色濃く受けてると思うわよ」
たとえば海自航学の隊歌である「海の若鷲」の歌詞は、予科練を歌った「若鷲の歌」のそれをもとに作詞されている。その他にも、海自航学の制服は予科練のそれによく似た「7つぼたん」であったり、部隊旗に描かれたマークには予科練の象徴である「桜に錨」が描かれていたりと、とにかく予科練を意識した部分が多い。
「でもさ、零戦とか見て戦闘機パイロットに憧れた人ってけっこういると思うんだよね。そりゃ零戦は海軍の持ち物だけどさ、実際に戦闘機パイロットを育ててる空自からすれば、あまり「予科練は海自航学の前身!」って主張して欲しくないというか、やっぱり予科練は空自航学の前身っていうほうがしっくりくるというか」
「偏見もいいとこね…航学と同じで、別に予科練は戦闘機乗りだけを育ててたわけじゃないのよ?」
冬奈の言う通り夏希の言っていることは偏見だらけで、海自の人が聞いたら怒られるに違いない。
が、一般人にとってはその程度の感覚なのだろう。旧日本軍の飛行機と言えば零戦。自衛隊のパイロットといえば戦闘機乗り。そういう安直なイメージから、夏希のように空自航学と予科練を結び付けてしまう気持ちも分からなくはない。そしてそのイメージは、時に学生に対して優越感や劣等感を抱かせる要因にもなりうるのだろう。
ふと日和は、奏星がどういう気持ちで自分たちと接していたのだろうかと考えた。
戦闘機に乗りたいと願っていたが叶わず、海上自衛隊へと入隊した彼女。今でもまだその憧れは残っているのだろうか。そして海自に入ったことにコンプレックスを感じていたりするのだろうか。
夢を持ったこともない人間に、夢が潰えた者の気持ちは分からない。奏星が今どんな想いで海自での航学生活を送っているのか、日和には想像もできなかった。
未だ奏星に対して少し距離を置いてしまっている自分。その溝を埋めることが果たしてできるのだろうかと、日和はショーケースの中に飾られた零戦の模型を見つめながら唇を噛んだ。
研修が一通り終わり、課業後になると再び学生たちは対番同士で行動するようになる。海自の学生に手取り足取り教えてもらいながらベッドメイクをしたり、共に売店に行ったり風呂に入ったりと、わりと自由な時間を過ごすことができた。
日没と共に国旗降下を迎え(海上自衛隊の場合、国旗を降下させる時間は1700固定ではなく日没の時間とされている)、その後海自伝統の甲板掃除と巡検を見学する。
「じゅんけーん!」
甲板学生が当直士官と共に居室や教場など各場所の清掃状況などを点検して回る。僅かな塵ひとつも決して見逃さず、その張りつめた空気や厳格さはまるで導入教育時に日和たちが受けた清掃点検のようだが、海自ではこれを1年間毎日行うというのだから空自航学の学生たちはみな驚いた。
「なんか、海自の皆さんのほうが私たちより厳しい生活を送ってるって感じません?」
「陸の上でこれだから、海に出るともっと厳しいかもね。まして
海自の勢いに呑まれ、すっかり意気消沈した春香と秋葉がそんなことを話していた。確かに二人の言う通り、清掃にしろ身辺整理にしろ、空自航学よりも求められるレベルは高いなとは日和も感じていた。もしかすると勉強面や体力面などの学生としての素養についても、海自は空自より優れているのかもしれないとさえ思い始めた。
海の上という特殊な環境下で勤務し、帝国海軍からの伝統を重んじる海上自衛隊。他の陸上や航空とは明らかに異なる運用思想を持ち、しばしば「伝統僕主、唯我独尊」と表現される彼等だが、その独自の思想こそが海自そのものを強くし、良い人材を育てるのだろうと日和は考える。
明日は両学生によるバレーボール大会。それは互いの訓練成果を披露し、プライドをぶつけ合う場だ。海自航学がどれほどの実力を持っているのか、それに対して自分たちはどれ程応えることができるのか。
決戦を前に学生たちの心は期待と不安で膨らんでいく。
もとより負けるつもりで勝負に挑む者なんてここにはいないが、相手の空気に圧倒されつつある同期たちを見て初めて日和はこう思った。
勝てないかもしれない、と。
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