吹いて、藤風

 見上げる程に長い長い上り坂を日和はゆっくりと歩いていく。歩道の脇に植えられた桜並木は夏らしい濃い緑の葉を揺らし、その影が透き通る風と相まって僅かに涼しさを感じさせてくれた。


 自転車に乗った高校生が数人、風を切りながら坂を下っていった。体操服であるのを見るに、多分運動部なんだろう。この暑いのに大変だなと思いつつ、かくいう自分も高校時代は炎天下の中で必死に走り回っていたことを思い出す。


 この坂を登った先にあるのが日和の母校、雪坂高校だ。地元でも有名な進学校で、親に言われるままに入学しただけの、本当は行きたくなかった学校。あまり興味の持てない勉強と、半分作業のようにこなす部活だけの毎日で、楽しい思い出なんかなにもない。一言で言ってしまえば「大嫌い」な場所だった。


 友達がいなかったわけではない。文化祭などの各種行事には積極的に参加していたし、クラスメイトとは誰とでも仲良く話すことができていた。自分のことを決して目立たないほうではないと思っていたし、自慢じゃないが男子から告白を受けたことだってある。


 だが親友と呼べるほどの友人が作れなかったことも事実だ。なにせもともと就職を考えていた。殆どが進学を考える同級生たちとは価値観が次第にずれていき、教師からもあまり相手にされなくなって、いつの間にか日和は一人きりになっていた。よく話す友人も結局はうわべだけの付き合いで、その証拠に今ではその殆どが全くの音信不通だ。


 嫌な思い出をたどりながらようやく坂を登りきると、歴史を感じる立派な門と見慣れた校舎が姿を現す。息は上がっていないが、汗が滝のように流れて気持ち悪い。なんだってこんな所に学校を建てたんだと、日和は今来た道を恨めしそうに見つめた。


 敷地内に入る気は起きないので、校門近くの木陰で休むことにした。名前も顔も分からない後輩たちが目の前を行き来する。部活や受験勉強など理由は様々だろうが、これら生徒の面倒を見なければならない先生たちは、一体いつ夏休みに入ることができるのだろうかと不思議に思う。


 と、制服や体操服などの格好で門を通る生徒に混じって、私服の少女が一人学校から出てきた。露出多目の、ヒラヒラと可愛い服を身に纏い、髪は金髪に染め上げ、ばっちりメイクもしている。もちろん生徒ではないだろうし、教員でもないのだろうが、とすれば卒業生だろうか。


 大学に行けばああいう格好もできたのかな、と日和は思う。あれだけ派手にとは言わないが、化粧のひとつくらいはしてみたい。航学生活ではそんな余裕はなく、たとえメイクできたとしても訓練中に落ちてしまうのが目に見えているし、第一誰に見せるわけでもない。


 などと考えていると、その少女が日和に気付いて近寄ってきた。なんだろう。思わず身構える。不審者にでも見えただろうか。


「や、日和。待たせてごめんね」


「へ? あ、もしかしてあき?」


「もしかしなくてもウチだよ。久しぶりだね」


 少女は小さく手を振って応える。まさかこの子が今日ここで持ち合わせをしていた人物だとは思いもしなかった。昨晩日和にメールを返してくれた彼女は、高校時代の容姿とはまるで変わっていて、そしてなんだかとても眩しかった。





 藤風明ふじかぜあき。日和とは高校二年、三年生時のクラスメイトだ。割りと大人しめな日和とは対照的に、彼女は明るく活発な子で、クラスでの発言力もけっこう強かったと日和は記憶している。現在は関東の私立大へ進学しており、今は夏休みのため帰省しているとのこと。今日は高校時代に所属していた部活の様子を見ようと雪坂高校を訪れていたらしい。


「合唱部だったよね、確か」


「そっ。ホントは軽音とかやりたかったんだけど、雪坂うちにはなくてね」


 外で話すと熱いからと、二人は合流した後にすぐ近くの喫茶店に入った。共に昼食は済ましておらず、コーヒーと併せてサンドイッチなどの軽食も注文する。


「雰囲気変わったね。なんて言うかな…派手? 大学デビューって感じ」


「むしろ高校時代が地味すぎたってとこだね。今のが本来のウチの姿」


「けっこう雪坂うちは校則が厳しいほうだったもんね」


「そうそう! ああやって校則とかで縛りつけるのは良くないよね。やりたいこともできなくて、せっかくの個性が潰れちゃうよ。義務教育じゃないんだから、もっと自由にさせろっていうか…」


 そこまで口にして、明はなにかに気付いて黙り混んだ。自分が話している相手は現役自衛官だ。統一美をなにより大切にし、規則でがんじがらめにされている組織。高校よりも更に厳しい環境に日和がいるということを、明は全く気にしていなかった。


 選んで進んだ道とは言え、やりたいことができないというのは一体どんな気持ちなんだろう。自分だったら到底耐えられない。どうしてそんな厳しい世界に身を置けるのか、明はとても不思議だった。


「なんか、ごめん…」


「え? ああ、いや…私は全然平気だよ。もともと私には個性なんてないし」


 出されたアイスコーヒーにシロップを入れてかき混ぜる日和。カラカラと氷のぶつかる音が涼しくて心地いい。


「辛くない?」


「辛い時もあるよ。一杯。でもそれと同じくらい楽しいこともある」


「鉄砲撃ったり、飛行機飛ばしたり?」


「全然! 銃扱うのって安全管理とか面倒だし、航空機なんか触らせても貰えないよ。そうじゃなくて…」


 銃、航空機…単語をいちいち言い換えるのはわざとだろうか、癖だろうか。


「同期と一緒に頑張ったり、遊んだり…友達とはまた少し違うっていうか、家族みたいな感覚かな? とにかくすっごく居心地が良いんだ」


「集団生活だよね? 面倒くさいことも一杯ありそうだけど…プライベートもないし」


「勿論そうなんだけど、それも含めて楽しいんだ。航学そこにいれば、見つかるような気がして…」


「見つかる?」


「やりたいこととか、居場所とか、自分だけのなにかみたいな。私、長野こっちに居場所ないからさ」


 日和は実家の状況をぽつりぽつりと話し始めた。両親とうまくいっておらず、帰省したことも伝えてないこと。母親と正面から会うこともできず、隠れるようにして休暇を過ごしていること。同期にも話したことがないことなのに、不思議と流れるように言葉が出てくる。他人だからだろうか、と日和は少し寂しく思う。


「こうして明にまた会えたのは嬉しいけど…出来ればもう少し時間を置くか、もっと事前に準備してから帰れば良かったと思ってるよ。全部私が悪いんだけどね」


 変なこと話してごめんと最後に付け加える。案の定、なんとも言い難い妙な空気になる。日和の事情を聞かされた明は返す言葉が見つからないようで、空になったグラスを無言でつついていた。


 自分のことを話すとなると、どうもあまり楽しくない内容ばかりになってしまう。相変わらず自分は面白みに欠ける人間だと日和は自己嫌悪した。


「聞いてくれてありがとう。ちょっと気持ちの整理がついた気がする」


 これ以上話しても明に迷惑だろう。そう思って切り上げる。彼女と会うのもきっとこれが最後だと覚悟して。


 久しぶりに会えたのに、ひたすらに愚痴を聞かされていたんじゃ明も面白くないはずだ。もしかしたら「会わなければ良かった」と思われているかもしれない。


 立ち上がって伝票をとる日和。給料を貰っている手前、学生に払わすわけにはいかない。この辺りの気遣いは、休暇に入る前に区隊長から教えてもらったことだ。


「ねぇ、日和」


 先に店を出ようとする日和を明が呼び止めた。愚痴を言うだけ言っておしまいかと恨み言を言われるだろうか。顔を向けられず、胸が跳ねた。


「うちに来なよ」


「…え?」


 驚き、振り向く。


「帰っても親から隠れてなくちゃいけないんでしょ? だったら取り敢えずうちに泊まれば? その方が気兼ねなく休めるでしょ」


「…なんで」


 なんでそんな優しくするんだろう。お互いこのままなにも語らず、あとは別れるだけのはずだったのに。


 日和と明は決して仲が良かったわけではない。そもそも性格的に正反対のタイプだ。たまたまクラスが一緒で、席が近いことも何度かあったから連絡先を交換しただけの、ただそれだけの仲だ。それなのに明は日和を引きとめ、優しい言葉をかけてくれた。それがどうにも日和には理解できなかった。


「ああ、いや…」


 そんな日和に気付いてか気付かないでか、明は他の言い方を探し始めた。距離の詰め方を間違えたかな…とか、そういった様子だ。


「嫌ならいいんだ。けど、もう少し日和と話したいと思ったから…さ。んん…なんだろ…取り敢えず! うちにおいでよ! 大丈夫。取って食べたりなんかしないって!」


 勢いで誤魔化そうとしているのが見て分かる。予想外に大きな声だったので店員や他の客から冷たい視線を向けられ、明は恥ずかしそうに顔を伏せた。その様子がなんだか可笑しくて、思わず日和は顔をほころばせた。


 今日、彼女に会って初めて笑った気がした。





 明の家は雪坂高校から程近く、日和の実家から割りと離れた場所に位置していたので、普通に生活していても日和が親とばったり出くわすなんてことは起きなさそうだった。


「兄ちゃんの部屋あるから、そっち使っていいよ。大学生なんだけど、休みになっても帰って来ないから実質空き部屋なんだ」


「う、うん。ありがとう」


 一度荷物を取りに実家に戻り、その後すぐに明の家に案内されたわけだが、こんなにも話が早く進むとは日和も思っていなかった。彼女の家族は明が事情を話せばすんなりと日和を受け入れてくれ、まるで家族のように暖かく迎えてくれた。当然、明の家に上がるのも彼女の家族に会うのも全部初めてだ。それなのにどうしてこんなに優しく接してくれるんだろうと、日和はただ戸惑うばかりだ。


 明に案内された部屋は無骨で、ぬいぐるみ等の可愛らしい物は何一つ置いてなくて、いかにも若い男性の部屋という感じだった。それでもきちんと整理整頓されていて清潔感がある。進学したきりあまり家に帰ってこないという話だが、掃除が行き届いているところを見ると、この部屋の住人がとても家族に大切にされている人なんだなと感じた。


「漫画とか自由に読んでいいからね。と言っても兄ちゃんと趣味が合うかどうかは分からないけど」


「うん…」


「あ、もしかしてあんまり兄ちゃんのベッド使いたくない? なんならウチの部屋で寝る?」


「いや、大丈夫だよ」


 あれこれ世話をしてくれる明に、だんだん日和は生返事になってくる。予想してない出来事の連続で、現状に理解が追い付いていないのだ。


「なんで…」


「ん?」


「なんでこんな私のこと…」


 他人なのに、ろくにメールも交わしたこともない仲なのに、どうしてこんなに構ってくれるんだろうか。


 住んでいる世界も全然別で、普通に暮らしていれば交わることのない二人だ。それでも彼女が自分に接してくれる理由ってなんだろう? 疑問は不安になり、不安は恐怖になる。たとえそこに明確な答えなど無かったとしても、なにか理由がなければいつか失くしてしまいそうで、再び一人になってしまいそうで恐かった。


 優しくされることに慣れていないんだな、と明は日和を見て思う。彼女はとことん自分が嫌いで、他人に好かれることに自信が持てなくて、だからなにかと理由を求めてしまう。彼女とは接する時間も短くて、正直どういう人なのかよく分かっていなかったが、自分とは全く違うタイプの人間なんだなということは感じとれた。


「まぁ…ちょっと座りなよ」


 明は兄の椅子に、日和はベッドに腰掛ける。


「ウチさ、もともと合唱とか嫌いだったんだよね。ホントは軽音とか、バンドがやりたくて…」


 音楽的な話をすると、軽音楽と合唱とは同じ音楽系でも全く種類が違う。個人の歌唱力や技術が求められる軽音とは異なり、合唱が重要視するのは声の調和とハーモニーだ。こぶしやビブラートといった和を乱す技術は求めておらず、目立てば良いというものではない。


「それでも音楽をやってみたくて、嫌々入った合唱部だったんだけど、これが意外と楽しくって…自分とは縁のないと思っていた場所にも居場所ってあるんだなって」


「うん…それは、なんとなく分かる気がする…」


「だよね? でもウチは「嫌なら辞めればいい」くらいの気持ちで合唱を選んだけど、自衛隊はそうはいかないもんね。日和が自衛隊に入るらしいって友達から聞いた時、正直スゴイなって思った。どんな子なんだろう、どうしてそんな厳しい世界に飛び込めるんだろうって」


 日和が航学を目指すことになった高三の夏頃から、明はずっと彼女のことを見ていた。他の同級生に流されることなく、自分の道を進んで行ける人。受け身じゃなく、自分から居場所を探しに行ける強い人。明の目にはそんな風に日和が映っていた。


「だからメールを貰えた時、ウチはすっごく嬉しかった。会って話してみたいって思ったし、それは間違ってなかったとも思ってる。日和の話は他の人と一味変わってて面白いし、ウチにとってプラスになるような気もするし…」


 言葉に詰まり、明は困ったように頭を掻く。なんとなくでは納得しない日和のために、慎重に言い方を考えてくれているのだろう。


「と、後付けの理由としてはこんな感じかな。でも実際ここまで深くは考えてないよ。日和は誰かと繋がりたいと思ってメールしてくれたし、ウチは日和と話したいと思ってそのメールを返した。そんだけじゃ足りないかな?」


「私と繋がっても面白くないよ。普段連絡はつかないし、都合の良い時しかこうやって会えないし…」


「みんなそうだよ。ウチだって年中暇なわけじゃないもん。日和はそれがもうちょっと厳しい世界にいるってだけ。それくらいウチも分かってるし、そういう部分も含めて繋がっていられるのが友達ってもんじゃないかな?」


 友達という言葉に日和は胸を熱くする。


 ああ、そうか。ようやく分かった。


 居場所とか、繋がりとか、なんでも難しく考えて、周りが見えなくなって…



 自分はただ、友達が欲しかっただけなんだ。



 なにも言わなくなった日和を見て、明はホッと息を吐く。どうやらもう放って置いても大丈夫そうだ。気持ちが落ち着くまで一人にさせてあげようと明は立ち上がった。


「ご飯時に呼びに来るから、それまでゆっくりしてて。困ったことがあったら、ウチ、向かいの部屋にいるから」


 ありがとうを待たずに明は部屋を出ていく。必要最低限の世話だけして、あとは放っておいてくれるというのが逆に嬉しかった。


 自分の家のものより少し大きめのベッドへ横になり、妹の灯にメールをうつ。しばらく友達の家に泊めてもらえることになった…と送ると、すぐに「りょーかい!」と返ってきた。そして続けざまに追伸。


「イイ友達だね」


 そうだね。本当に良い「友達」だね。携帯を見る日和の頬が少しだけ緩む。


 自分とは全く違うタイプで、高校時代ろくに話したことも無かったけど、まともに接したのも今日が初めてだけど…


 きっとこんな風に人は出会っていくんだろう。決して交わることがないと思っていても、ふとしたきっかけで友達になることができる。自分はもしかしたら、今まで沢山のそういった「きっかけ」を逃してきたんじゃないだろうかと日和は思う。



 だからこそ、今日、明と会って良かった。最初に会えたのが彼女で良かった。



 携帯を閉じ、大きく体を伸ばす。


「友達と一緒に夏休みなんて初めてだな…」


 休暇はまだ一週間近くある。学生の夏休みと比べると随分と短いが、短い時間を有効に使う術を既に日和は身に付けている。


 実家に居れなくても、せめて有意義な休暇にしよう。そう思った。

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