始まる夏休み

 中央本線を特急で北上して2時間弱、所狭しと乱立していたビルや住宅はあっという間に姿を消し、雄大な山々に囲まれて列車は進んで行く。恵那山から始まり、中央アルプスの主峰である木曾駒ヶ岳や、天気が良ければ御嶽山の雄姿を遠望できることから、この中央西線は多くの登山家に好評を博している。とくにこの特急「しなの」はとても魅力的で、塩尻から先、篠ノ井線の松本、長野まで運行されており、その途中の姨捨駅付近では日本三大車窓に数えられる善光寺平の絶景が乗客を待っている。


 余談ではあるがこの姨捨駅、篠ノ井線の本線からは外れた所に設置された駅で、ここに来るまでに列車が「スイッチバック」を行うことでも知られている。急勾配を踏破するためにみられるこの動作は登山鉄道などでよく使われ、鉄道ファンからとても高い人気がある。中にはこの駅を目的地として長野にやってくる人もいる程だ。


 電車の中、左手に見える木曾川を日和は窓越しにぼうっと眺めていた。この豊かな自然に囲まれていると、故郷に帰って来たのだなと実感が湧いてくる。僅か半年しか離れていないが、ここを出ていったのが遠い昔のように思えた。


 故郷。そこで生まれ、そこで育った。それだけの場所だ。言われるがままに生きて、なにも作らなかった場所。こんなところに一体自分の誰が、なにが残っていると言うのだろう。18年もの年月をここで過ごしたはずだが、それで作りあげたものよりも、5ヶ月の間防府で得たもののほうが大きく、濃いもののように思えた。


 特急から普通へ乗り換えて10分程度、馴染み深い景色が車窓を流れ出し、日和は降りる準備をする為に窓から目を離した。名古屋を出る前、妹のあかりには今から帰ることをメールで伝えているが、返信はない。彼女も今は夏休みに入っているはずだが、きっと部活などで忙しいのだろう。なにかを期待するのはやめておこうと、日和は携帯をポケットにしまった。


 勝手知ったる駅に降り立ち、辺りをゆっくりと見回す。なにも変わっていない…と思うのだが、小さな変化に気付く程に日和はここの景色をまじまじと見たことがなかった。


 立っているだけで汗が滴り落ちていく。盆地という地形の特性もあり、標高が高い割には長野県の夏は非常に暑い。防府程に湿気はなく、カラッとした暑さであることが唯一の救いだろうか。


 こんな炎天下の中でいつまでも立っていられない。早いことタクシーかなにかを捕まえてしまおうと歩き出した時だった。


「お姉ちゃん!」


 道行く人の視線なんて気にしない、聞き慣れた大きな声。顔を上げれば、学校の体操服姿で自転車に股がり、こっちに向かってぶんぶんと手を振る少女。


あかり!」


 名前を呼ぶと、まるで犬みたいに妹は自転車をこいで駆け寄って来た。歩道をそんなに爆走すると危ないだろうと怒ったが、姉に会えた嬉しさで全然聞いていない。


「帰って来るならもっと早く教えてよ! 私、部活が終わってからメールを見たから、もの凄く急いで来たんだからね!」


「ごめん、色々忙しくてね。連絡するのが直前になっちゃったんだ」


 本当は直前まで帰省しようかどうか迷っていたからなんて言えない。しかしこの笑顔を見ていると、素直に帰ってきて良かったかなとも思えてきた。


 優しく灯の頭を撫でてあげる。中学に上がって少し背が伸びただろうか。大きめのリボンで二本に束ねたおさげや、生き生きと感情を出すその表情がまだまだ幼さを感じさせるが、それ以外は月音と大差ない程に成長している。と、月音に言ったら怒るだろうが…


 タクシーでも拾おうかと考えていたが、灯の自転車もあるので、のんびり歩いて帰ることにした。久しぶりに姉と話せることが相当嬉しいのか、訊いてもいないのに灯は学校のことや友達のことを話してきて、なかなか日和が話すタイミングをくれない程だった。部活は日和と同じく陸上部に入ったらしく、長距離専門の姉とは違って、灯は短距離種目を頑張っているらしい。


「お姉ちゃんはどう? 自衛隊、楽しい?」


「楽しいよ。ちょっと辛い時もあるけどね」


 ふと話題が日和のことに移り、ポロっと弱音を吐いてしまったが、それを聞く相手は灯だ。同期じゃない。こんな時くらいしか愚痴はこぼせないだろうと、日和は割りきって話を続けた。楽しいこと、辛いこと。同期や先輩、教官たちのこと。一度話し出せばするすると言葉が出て来る。よっぽど航学が気に入っているんだなと日和は自覚したし、灯もそれを感じ取っていた。


「お祭り、行けなくてごめんね」


「お祭り…? ああ、航空祭のこと? いいよ。山口は遠いし、あの日は私も勤務中だったから、会ってもそんなに話せなかっただろうし」


 入隊式の日、必ず航空祭で会いに来ると言って別れたことを思い出す。


「違うの。本当は私も行きたかったの。でもお母さんに駄目って言われて…」


「入隊式の時もお母さんたちは来てくれなかったよね。灯は一人で来てたけど」


「だからお祭りも一人で勝手に行こうと思ってたんだけど、出発する直前でお母さんに見つかっちゃった。すんごい怒られたよ」


「そりゃ怒るよ。自分の子供が何も言わず旅行とかに出掛けたら心配になるもの」


「心配…するかな?」


「…私たちの親なら分からないね」


 二人は声を揃えて笑う。やはり同じ育ち方をしている姉妹、思うところも同じらしい。


「相変わらずみたいだね、お母さんは」


「だよねー。子供が自分の思い通りに動かなかったらすぐ不機嫌になるし、ちょっとは私たちのこと信用してくれてもいいよね」


「今日帰ることは灯にしか伝えてないんだ。お母さん、私を家に上げてくれるかどうかも怪しいし…」


「あ~、それがいいよ。お姉ちゃんが自衛隊に入ったこと、今でも怒ってるし。ご飯の時とかに時々言われるんだ。一杯勉強して、お姉ちゃんみたいにはなるなって」


「私が不良の道に進んだみたいな言いぐさだね、それ」


 一応自衛隊の中でもエリートコースを進んでいるのだが、それでも高卒で自衛隊に入ったというだけで、母親からすれば十分不良なんだろうと日和は思う。将来パイロットになるとか、幹部自衛官になれるとかは関係ないのだ。ただただ「高卒」という肩書きが気にくわない。それだけだ。


 そうこうしているうちに実家に着く。着隊の日、広報官の大森1曹が迎えに来てくれた朝と変わっているところはない。車庫に車が無いところをみると、どうやら両親は仕事に出ているみたいだった。


「婆ちゃんしかいないよ。安心して」


 灯が先導して玄関の扉を開ける。ただいまという妹の大きな声に、ややあって日和の祖母、ツネが返事をしながら廊下に出てきた。暑い中、部活から帰ってきた孫を迎えるため手には冷たい濡れタオル。こういう小さな優しさがいかにも祖母らしい。


 と、玄関に立つもう一人の孫に気付いてツネは目を丸くした。危うくタオルを落としそうになる程の驚き具合だ。なにも前触れがなく、自衛隊に入った孫が突然帰ってきたのだから無理もない。


「ただいま、お婆ちゃん」


「あらあらあら…」


 言葉にならず、ツネは日和に駆け寄る。灯の為に用意された濡れタオルもそのまま日和に手渡された。目の前の人物が本物かどうか疑うくらいの勢いだったが、すぐに落ち着きを取り戻して顔をほころばせた。


「よく帰ってきたねぇ…少し痩せたんじゃないかい?」


「そうかな?」


「しっかり食べないといけないよ。身体が一番大切なんだから」


「大丈夫だよ。鍛えてるから」


「昼御飯は食べたかい? まだ? なら少し早いけど夕飯にしようね。今から支度するから、ちょっと待っていてね」


 ツネは日和の肩をやや強めに叩き、いそいそと台所へ戻って行った。出迎えてきた時よりも明らかに足取りが軽く嬉しそうにしているので、日和も自然と笑顔になる。


「婆ちゃん、ご飯の話しかしてなかったね」


「多分そこが一番気になるんだよ。特に私たちは、お母さんの作ったご飯よりも、お婆ちゃんの作ったご飯のほうを多く食べて育ってるわけだしね」


 仕事で忙しい両親は家を空けている時間が長く、坂井家の家事は殆どツネが担当していた。学校から帰るとお風呂やご飯を用意してくれているのはいつも祖母だったし、毎日の弁当にしてもそうだった。母にはよく勉強を見てもらったことはあるが、手料理を食べさせてもらったことは数える程度にしかない。親から愛情をもらっていない…とまでは言わないが、人並みにはあまりそれを受け取っていないんじゃないかなと姉妹共々感じていた。


「それにしても休み中どうしよっか」


「なにが?」


「なにって…もしかしてお姉ちゃん、休みの間普通に家で過ごすつもりでいたの?」


「そりゃまぁ…」


 なにを当たり前のことを言っているんだと答える日和に、灯は呆れたようにため息を吐いた。





 灯が言うには、自衛隊に入った日和に対する母親の怒りは治まるところをしらず、今出会ってしまえば間違いなく喧嘩になり、そのまま追い出されてしまうだろうとのことだった。実の娘にそんなことと思うところだが、否定しきれない部分もあるのが日和の悔しいところだった。


 互いが距離を詰めるにはもっと時間がいる。だから取り敢えず今回の休暇は会わないほうが良いというのが灯の考えだ。幸い両親は共に夜遅くにしか家に帰ってこず、自室で静かにしていれば日和が帰省したことには気付かないだろう。


「細かい部分は私と婆ちゃんのフォロー次第…だと思うんだけど、どうかな?」


 久しぶりに3人で食卓を囲んでの夕食。灯はご飯を頬張りながら意気揚々と話す。駅で再会してからどうも落ち着きがないので、そんなに姉が帰ってきたのが嬉しいのだろうかと日和は微笑ましく思った。対してツネはいくつもの調子で「どうだろうねぇ」と答えるだけだ。


 それにしても…


「やっぱりお母さんとは会わないほうがいいかな?」


 呟きつつ日和は里芋の煮物に箸をつける。ツネが作ってくれる料理の中でも、特別好きなものだった。


「えっと、ケンカするよりはって思ってただけだから、お姉ちゃんが会いたいなら止めないんだけど…会いたいの?」


「…いや、会いたくない」


 だよね、と灯は味噌汁をすする。流石は妹だ。母親と日和のことをよく分かっている。この二人の考えが食い違うと必ず口論に発展(親子共々頑固なので)し、感情的になってなにも解決しないまま終わってしまう。日和が中学3年生、つまり灯が小学3年生の頃からずっとそうだ。そして、日和が本当はちゃんと話し合って互いに距離を詰めたいと思っていることも、灯はよく理解していた。


「けど、いくらお母さんたちがあまり家にいないからって、さすがにいつか気付くでしょ。部屋で大人しくするにしても限度があるし…」


「ならどうする? 日中はこっちにいて、夜だけどこか外に泊まる?」


「なんで帰省したのに自分の家で寝れないんだ、とは思うけど…仕方ないかなぁ」


 全てはなんの前触れもなく、ふらっと帰ってきた自分に責任がある。もっと早くから休暇のことを話していれば、後ろめたさもなく堂々と母親に会うことができたかもしれない。多少のことは我慢しなければ虫がよすぎるというものだろう。


「まあ、お姉ちゃんのことは私がお母さんたちに少しずつ話してみるよ。それであんまり怒ってなさそうだったら顔出してみればいいんじゃない?」


 うんうんと無言で頷くツネ。それまで二人の会話に入ってこなかったが、この灯の提案には賛成みたいだ。


「なんか、ごめんね…」


 自分と母親の問題なのに、それに妹まで巻き込んでしまっている。気にしないでと灯は返してくれるが、日和は自分の心の未熟さが不甲斐なかった。


 美味しかったはずの祖母の手料理は段々味がしなくなって、残しはしなかったがおかわりもしなかった。





 久しぶりに自分の部屋で過ごしたいということで、その日は実家で寝ることにした日和。思い切り羽を伸ばしたいところだが、いつ両親が帰ってきても大丈夫なように、電灯を消して、さも誰もいない風に繕わなければならないことが非常にもどかしい。私の部屋でくつろげば? と灯は言ってくれたが、彼女だって夏休みの宿題もしなければならないはずで、その邪魔もしたくないので断っておいた。


 結局、他にやることもなくて携帯を開く。もう殆ど意味を成さなくなった高校時代の連絡先。その中から特に仲の良かった数人を選んで、故郷に戻ったことをメールで知らせてみる。返信なんて期待するだけ無駄だったが、なにもしないよりはマシだろう。その程度の気持ちだった。


 携帯を閉じ、布団をかぶって横になる。どうせ誰からもメールは返ってこないのだから寝てしまおう。普段固いベッドと緊張でぐっすり寝れない分、自分の部屋だと気持ちよく眠ることができる。そう考えながら目を閉じた。



 と、日和がうとうとし始めた時、突然携帯が着信音を鳴らした。同期か区隊長か…呼集伝達訓練でも始まったかな。目を擦りながら手にとってみると、その内容を見て日和は一瞬で目を覚ました。



From:藤風 明

件名 久しぶり

連絡ありがとう。しばらく繋がらなかったから安心した。

帰ってるんだね。もし暇だったらご飯でも行く?



「うそ…」


 入隊から数週間ですっかり途絶えたはずの繋がりが、まだ健在だとそのメールは訴える。胸になにか熱いものがこみ上げ、極々短い返信を日和は何度も読み返した。


 もう寝るだけだと思っていた夜は意外にも長いものとなり、つまらないまま終わるはずだった夏季休暇が、少しは楽しいものに変わりそうな予感がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る