「帰り」道
「航空学生気を付けぇ!」
隊舎正面玄関から、学生隊当直の大声が轟く。各居室に待機していた学生たちは、誰に見られているわけでもなく姿勢を正した。
「点検を受ける者以外、整列、休めぇ!」
足を開き、腰に手を当て、しっかりと前を見据える。あとは一言も発することなく、点検官がやって来るのを足音と気配で感じとり、彼等の質問に全力で答えるだけだ。日和の真正面には月音の対番である若宮が立ち、隣と斜め向かいのロッカー前には、6月に部屋変えで同じ部屋となった夏希と春香がそれぞれ立つ。この配置と緊張感、導入教育の最後に行われた卒業試験を思い出すなと日和は一層気を引き締めた。
「はい、菊池学生! 群司令の官職氏名は、一等空佐、佐伯義弘! 要望事項は「誠実」であります!」
別の部屋から月音の声が聞こえてくる。こうやって大きな声で答えることは「自分の部屋は今点検を受けている」と仲間にアピールすることに繋がるし、忘れかけていた知識事項を思い出させることもできる。ただ意味もなく声を張っているわけではない。
少しすると学生隊長の野川2佐が数名の基幹隊員を引き連れて部屋に入ってきた。隊員の片足が敷居を一歩跨いだ瞬間に日和たちは不動の姿勢をとる。点検官は部屋のあちこちに目線を飛ばし、清掃状況をチェックしていく。暑さと緊張で背中を汗がつたうのが分かった。
と、野川が夏希の前で足を止めて顔を向ける。
「陣内学生、自衛官の心構えとは?」
「はい、陣内学生! 使命の自覚、個人の充実、責任の遂行、規律の厳守、団結の強化、であります!」
「よし」
難なく答える夏希。日和からは彼女の様子は見えないが、きっと安心しきった顔をしていることだろう。一つ訊かれれば、連続して質問を受けることはまずない。
野川はそのまま歩みを進め、今度は日和の前に立った。野川越しに正面に立つ若宮が、頑張れと視線でエールを送ってくる。
「坂井学生」
「はい、坂井学生!」
なんでも来い。あれだけ必死になって覚えたのだ。どんな質問であっても答えられる自信が日和にはあった。しかし…
「夏期休暇期間中での抱負を述べよ」
答えのないイレギュラーな質問に日和は目を丸くする。それも彼女が一番返答に困る内容だ。休暇で帰省しても居場所があるかどうかさえ怪しいのに、抱負はなにかと言われても、そんなこと考えているはずがない。しかしまさか馬鹿正直に「なにも考えてません。できれば
「はい! 休暇中であっても学生としての本分を忘れることなく、規則正しい生活を送ることであります!」
「うん。大切なことだ」
無難な答えに野川はやや物足りない様子だったが、それ以上はなにも訊いてこなかった。外しただろうかと日和は少し心配になる。だが点検が終われば若宮が「良い出来だった」と誉めてくれ、日和もそれ以上は深く考えなかった。
夏期休暇前点検は特に大きな指摘事項もなく、極めて良好という評価を学生たちは貰うことができた。その後はすぐに休暇取得申告が行われ、学生たちは慌てて帰省する準備を整える。その動作は素早いもので、夕方には全ての学生が基地を出て行った。誰もいなくなった隊舎は区隊長らによって最後の見回りが行われ、誰も出入りできないよう全ての出入口が施錠される。
「みんな、ちゃんと帰って来るといいな」
外から学生隊舎を眺めながら野川が呟き、隣の後任期中隊長、猪口3佐が頷いた。
「うちにも何人か怪しい者がおります」
自衛官、殊に航空学生にとって長期休暇というのは弱った心にとどめを刺す魔の期間だ。毎日厳しい訓練をこなしている中、そこへ訪れる休息の時。あまりの居心地の良さに「もう基地に帰りたくない」と言い出す者も少なくない。なんとか家族や友人に後押しされて故郷を出ても、なかなか踏ん切りがつかなくて防府駅で降りることができず、未練がましく新山口駅と富海駅を行ったり来たりするという笑い話まである。
「まあ例年、どんな学生でも無事に戻って来てくれますから、今年も大して心配はしていませんが…」
「坂井だな、確か。親御さんとあまりうまくいってないとか」
「はい。彼女の場合は珍しいケースですね。休暇で帰省することが、却って彼女のことを傷付けることになるかもしれない」
入隊式の時、日和のところだけは両親が式に参列することなく、彼女の妹だけが唯一基地まで足を運んでくれた。何度か行われた面接で本人から聞いた話だと、入隊式に来てくれなかったのは自分が両親から嫌われているのが原因で、進学を蹴って自衛隊に入ったことを今でも許してくれないのだという。ここまではよくある話なのだが、日和の場合はその度合いが一層深刻な様子だったと猪口は記憶している。
「母親が電話してきたこともあったな。娘を返せって」
「今でこそなくなりましたが、当時は大変でしたよ。青木2曹が大分まいってました」
普通ならそこで親子揃っての三者面談などが開かれるものだが、日和の場合は本人に伝えられることすらなかった。母親の様子からして冷静な話ができるとは到底思えず、下手に干渉してしまえば日和にの心に大きな傷を与えるだろうと猪口が判断したのだ。
「ちゃんと戻って来てもらいたいな」
野川の言葉に猪口は頷く。出来れば両親とのわだかまりを解消して。せめて彼女が傷付くことなく。
せっかくの休暇だというのに、猪口はやけに気分が重たかった。
基地を出たのが夕方だったというのもあり、ほとんどの学生はその日のうちに帰省することが出来ず、それぞれの下宿で一夜を過ごすこととなった。7区隊では月音と春香が当日帰省組で、最初は6人全員で宴会でも開こうという話だったが、最初の休暇なんだから早く帰ったほうが良いという冬奈の配慮で今回は流れた。
翌朝になって次々と仲間が帰省していく中、日和だけはなかなか決心ができず、結局下宿を出たのは昼頃になってしまった。新山口駅に降り立ち、新幹線の切符を購入する。一応お土産を買って帰ったほうが良いだろうと思い、なにがオススメなのかもわからず、取り敢えず山焼き団子なるものを二箱程買っておいた。その後、改札を抜けてホームに上がる。
この間、何度も日和の足は止まった。やっぱりやめておこうかと。今からでも戻って、下宿で休暇を過ごそうかと。無事に帰省したことを報告するため、地元の写真をメールで送って来いという珍命令が区隊長から出ていたが、それも「忘れました」ですむかもしれない。
長い時間ホームのベンチに座って考える。その間に新幹線を一本乗り損なうこととなり、買ったのが自由席で良かったなと日和は切符を見て思った。同時に、切符の払い戻しってできるのかななんて考えてしまう。
汗を拭いながら、おもむろに携帯を開いた。通話もメールも、誰からも着信はなかった。当たり前だ。こっちから発信をしていないのだから返信があるわけない。今日から休暇に入ることを灯や友達に知らせようかとも思ったが、やめた。もしそれでも反応がない時、とても惨めな思いをするのではないかと日和は怖かった。
もうすぐ上りの新幹線がやって来ることを知らせるアナウンスが流れる。もしこれに乗る気が起きなかったら帰省するのはやめよう。そう考えていた時だった。
「日和!」
突然の名前を呼ぶ声。伏せていた顔を向けると、大きなボストンバッグを手にこちらへ歩いてくる少女が一人。背が高く、スタイルの良いシルエット。意外な人物の登場に日和は驚いて立ち上がる。
「約束もしてないのにこんなところで会うなんて奇跡じゃない? やっぱ私たちは運命的ななにかで結ばれてるんだねー」
こ恥ずかしい台詞を平気で口にし、ニコニコとよく笑うその少女は海自航学の
夏休みもピークに差し掛かり、新幹線の中も混雑し始める時期ではあるが、日和たち二人が座席を確保できるくらいにはまだ空いていた。荷物棚にそれぞれの鞄を上げ、窓際席に奏星が座る。在来線とは違う高級感のある車内放送や、次の停車駅や広告が流れる掲示板が、あまり遠出をしたことのない日和には新鮮だった。
「地元、どこだっけ?」
「横浜。日和は?」
「長野だよ」
「じゃ、名古屋まで一緒か。2時間くらいは話せるね」
奏星は缶酎ハイを取り出して日和に勧めてくるが、まだ酒を口にしたことのない日和はやんわりと断った。というかまだ奏星も自分と同じ未成年じゃないのかと苦笑いしながら、駅で購入していた缶ジュースをテーブルに置く。
「休暇は今日から?」
「うん。昨日が休暇前点検で…海自にはないんだっけ?」
「毎日巡見をやってるからね。年末点検もやらないよ」
いいなぁ、と日和はジュースを開けた。買った時は冷えきっていたのに、長い間放置していたせいですっかりぬるくなってしまった。
しばらくの間、二人は他愛もない話を続けた。お互いの航学生活のことや、プライベートのこと。笑い話もあれば自慢もあり、愚痴もある。空自と海自で感覚がずれることもしばしばあり、それがまた話題に花を咲かせる。それでも不思議とパイロット関係の話が出てこなかったのは、未だに二人とも将来に不安を抱えているからだろうか。意識して避けているわけではないが、航学を卒業したらどういう道に進みたいかとか、それどころか航空機の名前すら出てくることはなかった。
『次は名古屋。名古屋を出ますと、新横浜、品川、終点東京の順に停車致します』
アナウンスが流れ、日和は時計を見た。京都を出発すると30分程で名古屋に着く。奏星は横浜まで向かうが、日和は名古屋で降りてその先は在来線だ。もうすぐこの時間も終わりかと思うと心苦しいものがある。果たして自分はまっすぐ家に帰ることができるのか、また途中で足を止めるんじゃないかと不安だった。
「帰りたくないの?」
「え?」
「実家」
空になった缶酎ハイを片付け、新たな一本を開ける。これで3本は呑んでいるはずだが、彼女は少しだけ頬を赤く染めているだけで、様子はまるで素面だった。
「…鋭いね、奏星は」
「日和はすぐ顔に出るからね。分かるよ」
「これでも気を付けてるんだけどなぁ」
「私が高校の話とかすると特に嫌そうな顔してたよ。あんまり昔のことには触れて欲しくないのかなって思った」
図星だった。過去の自分を未だに好きになれないからというのもあるが、他の皆と比べて自分にはなにも大切なものがないということを奏星に知られたくなかった。
「私、帰ってもなにもないんだ。誰かが待ってくれてるわけでもないし、やりたいことがあるわけでもない。こうなったのも、今までなにも作ってこなかった私が悪いんだけどね」
「まあ、私も友達が多いほうじゃないし、帰ってなにするんだって言われたらなにも答えられないけど…」
「そんなんじゃなくて、本当に居場所がないの。家にも、何処にも…今の私、航学にしか落ち着けるところがないんだ。だからこうやって休暇を貰っちゃうと、逆にどうすればいいのか分かんなくて」
「ふぅん…」
日和の悩みは思ったよりも深刻そうで、奏星は思わず顔をしかめた。きっと彼女は自分のことがとことん嫌いなのだろう。特に過去の話となるとその傾向が強く、だから今の居場所以外に心の拠り所を見つけることができない。そして決して気付くこともないのだ。なにもないと思っていても、意外と色々なものが残っているのが故郷というなのだということに。
「ごめん、変な話しちゃったね。忘れて」
「いや、最初に話題ふったのは私だし…」
とは言えこのまま流すこともできないなと、奏星は4本目を酎ハイに口つけた。その後日和はすっかり無口になり、奏星もあえて新たに話をふろうとは思わなかった。
名古屋駅が近付いてくる。ここで降りなければならないという現実味が増すほど憂鬱になってくる。今の自分のメンタルだと、もしかしたら適当に一泊して防府に戻ってしまうかもしれない。そんなことを考えながら、日和はため息を吐いてトイレを出た。と、そこで奏星とはちあう。
「あ、待たせてごめん。今空いたから…」
脇を抜けて帰ろうとする日和。しかしそれを遮るように奏星が壁に手をつき、その勢いで日和を身体で壁際に追い詰めた。急な展開に驚いて、軽く悲鳴が出たかもしれない。
「ねえ日和、本当に実家に帰りたくないの?」
「ちょ、どうしたの? 急に…」
互いの鼻がつくんじゃないかという程に奏星が顔を近付ける。壁をついた逆側の手は日和の手首を掴んで押さえつけて離さない。完全に逃げ道を封じられてしまい、日和は肩を縮ませた。心臓がドクドクとスピードを上げ、首筋を一つ汗がつたった。
「もし帰りたくないならさ、私と一緒に横浜に来ない?」
「横…浜?」
「いいトコだよ。都心も近いから遊ぶ場所には困らないし、静かに休むこともできる。私の家、意外と広いから部屋一つくらい貸してあげるし、泊まる場所は心配しないでいい。勿論、日和に寂しい想いもさせない」
居場所がないなら用意してやる。そう奏星は言っていた。日和からすれば、決して悪い話ではないようにも思える。
彼女の、身体を密着させる力が強くなり、二人の呼吸は早くなった。
「や…ちょ…」
「嫌? そんなことないよね。長野に帰るより、私と一緒に来たほうがずっと心が楽なはずだよ。もしそうでないなら、私が日和の心をほぐしてあげる。私、日和のためなら全部さらけ出してもいいよ。ぶつけたい気持ちも、全部受け止めてあげる。ほら、その気になってきたんじゃない?」
ああ、酔ってるなと奏星は自覚する。目の前で小さく震える少女はまるで怯える子犬のようで、それが自分のことのように愛しかった。もう少しおせばポッキリと折れてしまいそうなくらいのか弱さ。しかしそこが奏星が守る最後のラインだ。
「聞かせて。日和はどうしたい?」
「わた…し…」
さぁどうだ。どっちを選ぶ? 日和を掴んだ手が僅かに強くなる。彼女としてはどちらに転んでも構わない賭けだったが、できれば…
「ありがとう、奏星。でも私…帰る家…あるから」
「うん、そっか。そうだよね。それでいいと思うよ」
フッと身体が離れる。すると日和は奏星には目を合わせず、少し呼吸を落ち着けると小走りで席に戻って行った。
「それでいい…故郷ってのは、そういうもんだよ」
去り行く彼女を見送りながら少し残念そうに奏星は笑う。どんなに帰り辛くても、居場所がないと思っていても、それでも帰れる場所。他の土地では代わりになれない、生まれ育った馴染みの場所。新しく作ることもできないし、選ぶこともできない。それが故郷だ。家を空けるのが仕事の自衛官のとって、唯一帰ることができる心の拠り所だ。日和は気付いていないかもしれないが、彼女の中にはどこかに故郷を忘れ切れない部分があるのだ。
「しっかり自分と向き合ってきなよ…日和」
流石にこのまますぐに席へ戻るのは気まずいので、奏星はもうしばらく通路で時間をつぶすことにした。
それから数分程して列車は名古屋に到着した。別れ際、またねと日和は手を振ってくれ、少しだけ奏星は心が痛かった。座席から窓越しにホームを見ると、発車するまで彼女はそこに立っていてくれる。その優しさが、素直さが、やっぱり強引にでも横浜に連れ帰れば良かっただろうかと奏星を後悔させた。
「フラれちゃったなぁ…」
名古屋を発ってすぐ、奏星は最後の一本を一気に飲み干す。一人で呑む酒は味気なくて、そしてほんの少しだけ苦かった。
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