夏期休暇

夏影、強く

 夏もいよいよ本番といった調子で、毎日太陽が頑張って熱い光線を地上に下ろし、防府はすっかり電子レンジの中のような灼熱の町へと姿を変えていた。


 防府北基地も例外ではなく、まだ午前中だというのに、呼吸がしづらい程に熱気と湿気を帯びた空気が外には立ち込めていて、綺麗に着こなした制服もたちまち汗まみれになってしまう。ピカピカに磨いた靴は日光の熱を吸収し、少し外を歩いただけで靴墨が溶けて汚れ、後始末が大変面倒くさい。身だしなみを重視する自衛官にとって、夏はとても過ごし辛い季節と言えた。


『安全班より、1100現在のWBGT指数について伝達する。現在のWBGT指数、31.6。暑熱環境、厳重警戒。熱中症の危険性が高いので屋外での運動は原則中止とし、訓練等実施する際は頻繁に水分補給を行う等、対策を講じられたい。以上』


 基地の放送を聞きながら、それでも午後は予定通り体育訓練をするんだろうなと、日和は諦めたように息を吐いた。区隊教場は冷房が効いていて居心地が良く、休み時間になっても誰も外に出ようとしない。一人忘れ物を取りに隊舎と庁舎の間を行き来した学生がいたが、少し外に出ただけで結構な量の汗をかいていた。喉が渇いたのか、教場に戻って来るなりジュースじゃんけんを提案して、数人の仲間を連れて自販機まで出掛けていったところだ。


『電力使用制限イエロー1発令。屋内冷房の温度を28℃に設定し、業務に支障のない電化製品の使用を禁ずる』


 追い討ちをかけるような基地放送。舌打ちをしながらも、真面目な冬奈は大人しく冷房の設定温度を弄りに向かう。こういう部分でやるべきことをやっておかないと、基幹隊員や先輩たちに見つかった時にどやされかねない。


「こう暑いと全然やる気が起きないなぁ…」


 シャキッとしろと怒られるかなと思いながらも日和が言うと、意外にも冬奈は同調して頷いてくれた。


「夏期休暇まであと少しだけれど、それまで持つかしらね」


「意外。冬奈なら「暑さなんかに負けるな」とか言うと思ってたよ」


「私が励ましてくれるとでも? おあいにく様。泳げるようになった今でも私は夏が嫌いよ。相変わらずね」


 遠泳訓練が終わってから、冬奈はすっかり泳ぐことを恐れなくなっていた。むしろ元々のセンスが良かったのか、日を追う毎にめきめきと上達していき、今では日和とそう大差ないくらいにまで泳げるよう成長している。


 そのことを一番喜んだのは彼女が所属する6区隊と、その対番区隊である3区隊の学生たちだった。というのも、もともとカナヅチ同然だった彼女が泳げるようになることは、水泳競技会で勝利するのに非常に有利だったからである。


 彼女が泳げるようになったことで3・6区隊はその実力を大きく底上げすることができ、さらにその姿は他の学生のやる気を盛り上げるのに大きな効果をもたらし、結果として彼等は水泳競技会で大勝利を収めることができた。


先に行われた駅伝競技会に引き続きの勝利ということで3・6区隊には常勝区隊というイメージが定着し、祝勝会も大いに盛り上がったという。一方の敗北を喫した他の区隊では猛烈なしごきが行われ、日和たちの1・4区隊に至っては1区隊長の許しが出るまで延々とプールで泳ぎ続けるという、遠泳訓練よりも遥かにキツい仕打ちを受けることとなった。


「正直、冬奈がここまで泳げるようになったのは誤算だったよ。練習に付き合ってあげたことを後悔するくらいにね」


「感謝はしてるわ。ありがとう」


 一体何度聞いたか分からないその言葉を冬奈はまた口にする。その頬が僅かに緩むのを見て、負けたことがどうでもよくなるくらいに日和は嬉しかった。


「それでも、夏が嫌い…ていうか、まだ泳ぐのって怖い?」


「怖いことはないわ。好きになれないってだけ。泳ぐのもそうだし、暑いし、虫には刺されるし…」


「心霊話も多いしな」


 たまたま通りかかった6区隊の安藤が一言置いていく。なにそれ? と日和が訊き返すと、急に冬奈が慌て始めた。


「ちょっ、黙りなさい安藤学生! 坂井学生、聞かなくていいから…」


「なんだよ、坂井は知らねえのか? お前の対番…木梨先輩が軽い怪談話を都築に聞かせたせいで、こいつ相当ビビっちまってさ」


「へえ? もしかして冬奈、そういう系は意外と弱かったり?」


 いたずらっぽく日和が笑うと、冬奈はますます慌てて顔を赤くした。


「そんなことないわ! 大体、それと夏が嫌いなのは関係ないでしょ! オバケは年中でるんだし!」


「お、オバケ…?」


「幽霊って言えよ…せめて」


 必死に笑いを堪える日和と安藤。いつもはクールな印象を持つ冬奈が冷静さを欠いているものだから、余計に可笑しかった。


「案外可愛いとこあるね、冬奈。大丈夫。月音とかには黙っといてあげるから」


「だから、怖くないって言ってるでしょ?! ああもう!」


 冬奈がまだなにか言いたげだったが、ちょうど休み時間も終わりになり、他の学生たちが戻ってくる。人の熱で教場の気温がグッと上がるが、そんなことは気にならず、日和はずっとニコニコと笑っていた。





 休暇が近くなると、課業後に行われている航友会活動が清掃時間へと切り替わる。夏期休暇や年末年始休暇に入る前には厳しい休暇前点検が行われることになっており、その準備をするには、毎朝実施している通常清掃だけでは到底作業が追い付かないからだ。


「学生は将来戦闘操縦者、かつ幹部自衛官となるべき使命を自覚し…一致団結…んん…厳正な規律を保持し、誠心職務の遂行にあたり?」


 廊下を拭き掃除しながら月音が呪文を唱えるようにぶつぶつと喋る。言葉が詰まる度に手も止まるので、あまり清掃は進んでいないように見えた。


「それ、服務の本旨と混ざってない?」


「うう…そうかも。じゃあ日和ちゃん、操縦者綱領」


「一つ、明朗闊達たれ。一つ、鍛え備えよ。一つ、先頭に立ち実践せよ」


 すらすらと日和は答え、月音は小さな拍手を送った。


「おぉ~、凄い。合ってる…と思う」


「思うじゃ意味ないんだよなぁ。私が間違って覚えてるかもしれないのにさ」


 二人が行っているのは知識事項の確認だ。休暇前点検で見られる部分はなにも清掃状況だけではない。学生たちがどれだけ航学に関する基礎的知識を覚えているかも点検される。覚えなければならない事項は上司官職氏名(航空幕僚長の名前など)から始まり、要望事項、指導方針、服務の本旨、学生の使命などなど…それらを全て頭に叩き込み、なおかつ点検では区隊長らのプレッシャーに耐えながら一言一句間違えずに答えなければならない。


「でもさ、点検ってどんな感じでやるんだろ?」


「言われてみればちょっと想像つかないね。冬奈は「教育隊でいうところの完成期点検」とか言ってたけど…」


「分からないことが増えるだけで、あんま意味ない情報だね、それ」


「ほらほら! お喋りしてないで手を動かす!」


 と、そこへ巴が通りかかった。手にはバケツと雑巾が握られており、あちこちを拭き掃除して回っているようだ。慌てて日和たちは掃除に戻る。作業と同時に知識事項の確認もできればと思っていたが、どうも二人はそこまで器用ではなかったようだ。


「ちなみに、さっきの操縦者綱領は合っていたわよ。短いから、これくらい一発で覚えて貰わないと困るけど」


「あ、ありがとうございます。巴先輩はやっぱり全部覚えているんですか?」


「んー、まあ一度頭に入れたことだし。どっちかというと思い出す作業に近いわね」


 去年の夏休暇、冬休暇と既に二度も点検を受けている先任期だ。やはり、日和たちとは積み重ねてきたものが違う。


「ま、夏は学生隊長点検のみで、そこまで厳しく見られないっていうのが定例だから、そんなに怖がることはないわよ。手を抜けって意味じゃないけど」


 冬休暇前は年末点検という名前に変わり、隊長点検の後に航学群司令も点検を行う。これがかなり厳しく、場合によっては再点検の要ありと評価され、休暇入りが一日先延ばしにされるなんてこともある。


「あの、点検ってどんな感じで行うんですか? 服装容疑点検とか、ああいうイメージなんですけど…」


「月音が思ってるのは、みんなが朝礼場に並んで点検官が見て回るってやつかしら? それとはちょっと違うんだけど」


 点検は大きく別けて二段階。始めに各居室の清掃状況と知識事項の確認、それに続いて公共場所の清掃状況を点検する。学生は各人のロッカー前に整列休めで待機し、点検官が居室に入ってくるのを確認したら即座に気を付けをして姿勢を正し、点検を受ける。どのタイミングで点検官がやってくるかは全く分からず、学生たちは約十数分の間高い緊張を保ったまま、ただ前を向いて立っていなければならない。


 きつそう、と月音が弱音を吐くと、きついよと巴が正直に答えた。


「夏は特にね。部屋の扉は開けっ放しだから冷房も効かないし、汗が垂れても拭けもしない。去年は確か先輩が脱水で倒れてたわね」


「なんやぁ、懐かしい話しとるなぁ」


 秋葉の対番である瀬川が話に入ってくる。巴とは違い、こっちは手ぶらだ。


「山口先輩やな。可哀想に、純粋な後輩と同じ部屋やったから、ぶっ倒れても「点検中なので」って無視されて…」


「すぐに助教がやって来て「目の前で人が倒れてるのに、お前に心ってものはないのか!」って森田が怒られてたわね。その日から彼、殺人機械キリングマシーンと呼ばれてたわ」


 当時を思い出して楽しそうに笑う二人。しかし当時はきっと笑い事では済まされなかっただろう。それを思うと日和はゾッとした。


「ま、どれだけキツくても、それを越えると待っているのは休暇や! そう考えると、この大掃除でも楽しくなってくるやろ?」


「瀬川はただフラついてただけでしょ。ほら、サボってないで行くよ。こんな所見られたら後任期に示しがつかないわ」


 頑張って、と言い残し去っていく二人。その足取りはとても軽く、面倒な清掃作業を「やらされている」ようには到底見えなかった。要は考え方次第なんだなあと日和は感心する。


「そっかぁ。考えてみれば、この点検が終わると休暇なんだよね」


 思わず頬が緩む月音。夏期休暇期間はおおよそ一週間と、高校生の頃と比べると随分短いが、里帰りするには十分な長さだ。月音は実家が同じ山口県内なので帰ろうと思えば土日で帰れる距離だが、それでもこうして休暇を貰えることは嬉しい。


 だが日和には彼女のように素直に喜べない部分があった。


 親の反対を振り切り、半ば飛び出すように家を出てきた。そんな自分に帰る場所なんてあるのか。自分から捨てた故郷に居場所を求めるなんて、随分と勝手が過ぎるんじゃないか。


 そもそも、帰省しても特にやることなんて無いし、一緒に遊ぶような友達もいない。限られた自由時間を使って今でも連絡を取り合っているのは、妹のあかりと片手で数える程度の同級生くらいだ。もともと友達が多くなかった上にあまり携帯に触ることができないこの生活が重なり、日和が持っている連絡先はそのほとんどが意味を成さなくなっていた。辛うじて繋がっている友人だって、みんな大学生ばかりで、社会人である日和とはスケジュールが合いそうにもない。


 願わくばずっと基地に残りたい、というのが日和の本音だ。きっと自分の帰りを待っているであろう妹には申し訳ないが、そもそも家に上げて貰えるのかさえ怪しいところだ。寝る場所にすら苦労して、惨めな想いをするのではないかと不安だった。しかし下手に残っていればどうかしたのかと周りに心配をかけてしまう。それはそれで避けたかった。


「取り敢えず今は点検準備を頑張ろう。無事に休暇を迎えるためにもね」


「もっちろん! こうなったら私が担当じゃない所でも、全部ピカピカにしちゃうから!」


「ああいや、清掃もだけど知識事項のほうも…って、聞いてないか」


 ほうきを手に駆け出す月音。もう彼女に日和の声なんて届かないだろう。頭の出来はいいのに、どうしてああも単純なんだろうと不思議になるが、その無邪気さと素直さが今はとても羨ましかった。


 考えれば考える程、自分という人間がつまらなく思えてきて嫌になる。日和は廊下にしゃがみ込み、廊下の靴墨汚れをスポンジで強く擦り始めた。仕方ない。これが代償だ。親に言われるがままに生きてきて、自分の居場所すらろくに守ってこなかったツケが今ここで回ってきたのだ。


 航学にやって来て数ヶ月。もう自分は過去の自分とは違う。自衛隊こそが自分の居場所で、自分はその一員になれたのだと思っていた。けれど、もしかしてそれは単なる思い上がりなんじゃないだろうか。休暇を目前に、同期たちと同じように喜ぶことができないことが彼等との距離を感じさせる。


(くそっ…)


 一際頑固な汚れがなかなか落ちない。もしかしたらそれは汚れではなく、床にできた傷なのかもしれない。強く擦ってもなにも変わらなくて、それがなんだか「お前は所詮つまらない人間なのだから、せいぜい惨めな思いをしているといい」とでも言っているように見える。


(違う。私にだって、航学ここ以外にも居場所はあるんだ。休暇になれば帰る場所があって、私の帰りを待っている人がいて…)


 自信は持てなくても言い聞かせる。そうでないと、輝いている同期と比べて自分が酷くくすんでいるように思えて、せっかく手にすることができた居場所を失くしてしまうような気がした。


 パシンとスポンジを叩きつける。含まれていた水が周りに飛び散り、床を濡らした。


「なに、やってんだろ私」


 焦り。この感覚は知っていた。周囲の人と比べて自分に何かが欠けていることへの自己嫌悪。夢も目標も持たなかった、あの頃と同じ気持ち。


 熱気が立ち込める廊下に日和は一人ぼうっと佇む。彼女の頬に、一筋の水滴がこぼれた。

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