遠泳訓練
7月も後半となり、夏の日射しは日に日に強くなっていく。世間は既に夏休みに入っており、ここ
そんな楽しそうな声から遠く離れ、様々な色の水泳帽を被った一団が、海岸線に綺麗に並んで準備体操を行っている。遠泳訓練の為にやって来た航学群後任期中隊の一行だ。
「あ~あ。去年は私もああして遊んでたのになぁ」
月音が羨ましそうに民間人を眺める。
「遊んでたの? 受験生だったでしょ?」
「高校最後の夏だよ。勉強ばっかりで終わらせるはずないじゃん。むしろ日和ちゃんは遊んだりしなかったの?」
言われてみれば、結構つまらない高校生活を送っていたなと、日和は自分の過去を振り返る。夏休みなどの長い休みはいつも部活に勤しんでいたし、3年生になって部活を引退してからも、親に言われて受験勉強ばかりしていた覚えがある。
「こらこら! あんまりシャバのほうを見るな! 民間人が怖がるだろうが!」
月音と同じように海水浴場のほうを眺めていた学生を、中隊長の猪口3佐が軽く小突いてまわる。
「そ、そんな変な目では見てないっすよー?」
「厳つい男どもが海パン姿で並んでるってだけでも凄い威圧感だろうが。端から見れば自衛官かヤクザか分からんぞ、お前ら」
確かにと笑う学生たち。今ここで自衛官だと分かる格好をしている者は誰もいない。いるとすれば木陰で目立たないように休んでいる、ここまでバスの運転をしてくれた輸送隊員くらいだ。
「自衛官だと分かってもらいたきゃ整斉としていろ。元気に声出して、キッチリ並んで行動すれば、誰もお前らをならず者だなんて思わん。了解したなら訓練開始! 前へ、進め!」
猪口3佐の号令で学生たちが海に向かって歩き出す。長い時間太陽に晒され、すっかり火照ってしまった身体に冷たい水が気持ち良く、学生たちは揃って楽しそうな声をあげる。非常に和やかな始まりだ。
膝まで水に漬かったところで冬奈が戸惑い、立ち止まる。日和のお陰で「一応」泳げるようになったとは言え、彼女のトマウマとなった場所である海。やはり恐怖はまだあるらしい。
「行こう、冬奈。大丈夫。私がついてるから」
日和が背中を軽く叩き、冬奈は海に向かって歩き出す。遠浅で遊び易い富海の浜だが、少しすれば腰まで水に浸かり、学生たちは続々と歩きをカエル泳ぎに切り替える。
訓練中ではそれぞれ「バディ」という二人組を作って泳ぐ。彼等が互いを認識しあうことで、片方が溺れてしまっても、もう片方がすぐ異変に気付けるというわけだ。
冬奈のバディに選ばれたのは日和だった。というか、日和がこの組み合わせにしてくれと中隊長に申告したのだ。本来であれば学生の上申を受け入れるなど航学ではあり得ないことだが、事情が事情だけに学生隊の面々もなにかを察したらしく、特別にこの二人のバディが認められることとなった。
えんやこら、という掛け声に合わせてゆっくりと、隊列を保ちながら学生たちは泳ぐ。泳ぎの練度に合わせて二つのグループ分けがされており、日和たちのグループは泳ぐのが遅い者に速度を合わせて進んでくれるので、冬奈が皆に置いていかれるような心配もなかった。
「バディチェック!」
号令で学生たちは立ち泳ぎに切り替え、バディ同士で手を取り合う。
これはバディがお互い無事だということを確認する為の作業で、十数分ごとに一回くらいの間隔で行われる。やってることはただの確認なのだが、実はこれが結構難しい動作だったりする。
区隊長らに自分のバディが無事であることをアピールする為、取り合った手を高く上にかかげないといけないのだが、当然この間は足の力だけでその場に浮いていなければならない。これが上手く出来ない者は、バディチェックが行われる度に水の中へと沈んでいくことになる。
「どうしたどうした! 全員が揃って手を挙げないとチェックが終わらないぞ!」
ボートの上から5区隊長、森脇2尉がメガホン越しに学生たちを煽る。グループ内全てのバディが同時に手を挙げなければチェックが無事に終わったとはみなされない。となれば数秒の間手を挙げておかなければいけないのだが、立ち泳ぎが下手な者は一秒も耐えることなく身体を海に沈め、せっかく挙げた手を下ろしてしまう。
「大丈夫? ほら、もう一回やるよ!」
もう既に何回も海中に沈んでいる冬奈を、日和が無理矢理引き上げる。この間にも他の同期たちは手を挙げ続け、二人がチェックを終わらせるのを必死に待っている。
「バディチェック!」
日和の宣言でようやくチェック終了が認められる。単純な動作だが、慣れない者にとっては普通に泳ぐよりも体力を消耗する行為だ。最初は余裕そうに泳いでいた冬奈だが、このチェックを行う毎に段々口数が減っていき、最後まで泳ぎきれるだろうかという不安がよぎる。
しばらく波の穏やかな海水浴エリアを泳ぎまわっていた学生たちだが、やがて消波ブロックの向こう側へ出ていく。本来であればここは遊泳禁止のエリアで、普段は漁船などが通るばかりで、人が泳ぐなんてことはあり得ない。波も高く、せりあがって迫る水の塊は、学生たちの視界から一瞬空が消えるくらいの大きさだ。
子供の頃に溺れた海も、きっとこんな感じだったのだろう。沖に出てからの冬奈は、先程の海水浴エリアで泳いでいた時と比べて目に見える程に動揺していた。
「来るぞぉ!」
誰かが叫び、直後学生たちを大きな波が襲う。何人かは上手に山を乗り越えて耐えるが、冬奈など多くの者が迫り来る水に飲み込まれ、一瞬海中にその姿を消した。
「しっかりバディを見とけよ! 油断してたらあっという間に流されるからな!」
そう言いつつ、区隊長や助教らもボートの上からしっかりと目を凝らして海面を見る。大丈夫だ。誰も落伍していない。こういう時、カラフルで海の色に溶け込まない水泳帽は学生の存在を確認するのに非常に役立つ。
猪口3佐は日和のペアを探した。若干冬奈のほうが海に怯えているようだが、日和が側にいるからなのか、以前のようなパニックを起こす様子はない。わざわざ上申してくるのにはそれなりの理由があるというわけか、と猪口は感心した。
立て続けに波が押し寄せ、その度に何人かが沈んでは浮くを繰り返す。水泳練度の高いグループはこの程度なんの問題もないようで、数十メートル先を悠々と泳いでいるが、日和たちのグループは体力の消耗が激しそうだった。
「波だぁ!」
また誰かが叫んだ。一同の顔がひきつり、身構える。と、それとほとんど同時のことだった。
「こんなん波じゃねぇぞ!」
学生たちよりも遥かに大きな声で森脇2尉が怒鳴る。
「お前らいちいち狼狽えんな! 将来幹部になる連中がみっともねぇ! お前らが迷ったら部下や仲間はみんな死ぬぞ! 弱音を吐くな! 悲鳴を上げるな!」
森脇2尉の激で学生たちの目付きが変わり、動揺が治まる。自分は将来操縦幹部になる、こんな波程度に負けていられないという使命感が彼等を突き動かしているようだった。
日和が意外だったのは冬奈のことだった。さっきまで苦しそうな表情をしていた彼女が、他の同期たちと同じく、心に火が点いたように泳ぎ始めた。森脇2尉の言葉が、そんなに彼女に響いたとでもいうのか。
いや違うか、と日和は思う。
誰かの為だからこそ、彼女は泳ぐことができるのだ。それは時として溺れた同期を救う為だったり、窮地に立たされた部下を導く為だったり。自分がどうにかしないと誰かがどうかしてしまう。そんな状況こそが彼女の心を動かすきっかけになるのだ。
どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。自分のことよりも他人を気にする。彼女がそれだけ責任感の強い人だということは、同期であり7区隊員である日和たちが一番よく知っていたはずだったのに。
パイロットとして泳げるようになるのは、海に不時着した時に自分が助かる為。それだけの理由では冬奈が変わるきっかけにはなり得ない。本当に彼女を変えようと思うなら、区隊長らや日和たちは「誰かを助ける為に泳げるようになれ」と指導すべきだったのかもしれない。
しかしそれも目の前で日和が溺れたり、実際に海を泳いで波に飲まれたりといった特殊な環境でないと意味のない話。足場が確保され、いつでも誰かが助けてくれるような、安全が確保されたプールで訓練を続けていても、きっと冬奈は今のように泳げるようにはなっていなかっただろう。
「えーんや、こーら!」
冬奈に負けていられない、と一際大きな掛け声を出す日和。
「えーんや…ゲホゲホ!」
「あっははは!」
続こうとした冬奈が過って海水を飲んでむせる。それを見た日和が楽しそうに笑い、彼女たちのグループに活気が戻る。
「海が怖くて空が飛べるか! 行くぞ!」
「前の奴らに追い付いてやろうぜ!」
荒波に揉まれても負けず、学生たちは泳ぎ続ける。もう弱音を口にする者もおらず、恐怖で顔を歪ませる者もいない。
「なんだあいつら、急に元気に…」
「区隊長の一喝が効いたんですかね?」
学生たちを見て助教らが不思議そうに言うが、違うだろうと森脇2尉は返した。彼等が変化したのは、自分たち基幹隊員の手柄ではない。彼等自身が自ら気付き、勝手に変わっただけなのだ。
彼女たちの可能性を信じたい。泳げない冬奈を今後どうしていくか話し合った時、学生隊長が言った言葉だ。その時は渋々頷いた森脇も、今なら隊長の気持ちが分かる気がした。
「休憩だ。アレを撒いてやれ」
「了解です」
森脇に言われ、助教が一つの袋を持って立ち上がる。
「お前ら、おやつの時間だ! 海を汚さない為にも、一つ残らず拾って食えよ!」
まるで鯉に餌をあげるように、助教が学生たちに向かって個包装の飴をばら撒く。この飴は事前に学生たちが自ら買ってきたのを助教らに預け、撒いてもらっているものだ。海面にプカプカと浮かぶ飴を学生たちはすぐさま回収し、器用に立ち泳ぎしながら口に放り込んでいく。
「うめぇ!」
疲れた身体に甘い飴がよく染みる。おやつと一言で済ませてはいるが、時折行われるこの奇妙なイベントは、3時間という長い訓練時間の中で手軽に栄養補給をすることができる大切な時間だ。
「おい誰だ、塩飴なんか買ってきた奴! 塩分なら海水から嫌というほど採ってるつぅの!」
「悪い、それ俺だ。ちなみに梅キャンディも俺が買ったやつ」
「あああ! 腹立つ! しょっぺぇ!」
海が笑いに包まれる。包装していたゴミについてはそのまま捨てるわけには当然いかず、水泳帽の中にしまっておく。そうしたらおやつタイムは終了で、再び学生たちは隊列を組んで泳ぎだす。いつかの動揺もどこへやら、非常に和やかな空気で遠泳訓練は進んでいった。
終わってしまえば3時間なんてあっという間で、学生たちは誰もが疲れを見せることなく、笑顔のまま浜に上がってきた。この後は海水浴場にある海の家の好意で場所を貸してもらい、食事と昼休みの時間となる。
「冬ちゃん、完泳できたんだね。おめでと」
訓練を終えて休んでいる日和と冬奈のところに、夏希を筆頭とした7区隊の面々が集まってくる。
「ありがとう。これも陣内学生の指導のお蔭かしらね」
「皮肉っぽいなぁ。やめてくれよ」
夏希が困ったように笑う。結果として冬奈が泳げるようになったとは言え、一度は彼女のことを諦めたのは事実だ。冬奈がこうして遠泳訓練を乗り越えることができたのは、日和が最後まで彼女を諦めなかったからであって、自分の指導が上手かったからではない。そう夏希は考えていた。
「あの日、私たちはプールから帰るべきじゃなかったんだ。なのに本人がもう泳ぐ気がないからなんて勝手に決めつけて、冬ちゃんのことを見捨てた。酷いことをしたと思ってるよ。ごめん」
頭を下げる夏希。それに続いて月音、春香、秋葉と順番に謝る。同期として、仲間として、日和のように最後まで寄り添うべきだったと。一番してはいけないことを自分たちはしてしまったと。しかし冬奈は「やめて」と言って彼女たちの頭を上げさせた。
「私のために、一度は手を伸ばしてくれたことは事実でしょう。それに、私があなたたちの立場だったらきっと同じことをするわ。謝らなければならないのは私のほうよ。色々、迷惑かけてごめんなさい」
逆に謝られてしまって戸惑う夏希たち。しかしその空気を破るように、月音がパッと表情を明るくさせた。
「違うね。私たちがかけられたのは迷惑じゃない。心配だよ。日和ちゃんみたいなお人好しがいたからよかったけど、そうでなかったら今ごろ冬奈ちゃんは海の底だね」
「お、お人好しぃ?」
急に自分が話題にあがってキョトンとする日和。しかし月音は続ける。
「日和ちゃんのように、困っている同期を見つけて、自分から助けてあげられるくらいに私達は器用じゃないし、余裕があるわけでもない。だからさ、これからはお互い「助けて欲しい」と思ったら遠慮せずに言おう? そのお願いが迷惑だなんて考える人、7
困った時、仲間に助けを求めることはとても勇気がいる行為だ。しかし誰もが自分に一生懸命な中、素直に助けを求めなければそれに気付くことができない人がいることも事実。今回のケースならば、早くから冬奈が「助けて欲しい」と言っていれば、夏希たちが彼女を見捨てることはなかったかもしれないし、もっと解決が早かったかもしれない。
「仲間を置いてけぼりにしたり、正直に助けてって言わなかったり、お互い反省するところはあった。みんな謝って、それでこの話はおしまい! で、いいよね?」
急に月音が日和に顔を向ける。最後まで自分が仕切ればいいものを、どうしてそこで私にバトンを渡すんだど日和は思ったが、大人しく受けとることにした。
「いいんじゃないかな。まあ、まずは全員がこの訓練を終えたことを喜ぼうよ。一時は冬奈が課程免になるんじゃないかってくらい、私たちはギリギリな状態だったわけだしさ」
それもそうだと一同は乾杯を交わす。小難しいことは後でいい。取り敢えず今は喜んでおけばいい。それで彼女たちは十分だった。
乾杯に使われるのが弁当に付属したお茶缶であることがなんとも味気ないが。
「よーし、全員注目!」
と、猪口3佐が手を叩き、学生たちが一斉に目を向ける。雑談が治まったことを確認すると、猪口は冬奈を皆の前に立たせた。
「ただ今から都築の
猪口に呼ばれて斎木3尉が出てきて、冬奈に水泳帽を被せた。色は黄色。上手いとは言えないが、人並みに「泳げる」と評価された者が着用を許される色だ。
「…え?」
戸惑う冬奈の肩を、猪口は両手で強く叩く。
「本訓練をもって都築は赤帽脱出を認める。おめでとう」
お前はもうカナヅチなんかじゃない。パイロットとして「泳げる力」を十分に持っていると証明された瞬間。そしてそれは、彼女の課程教育継続を正式に認めた瞬間でもあった。
「同期たちの助けは勿論、お前自身の努力が実を結んだ証だ。これに奢ることなく、今後も訓練に励まれたい」
「…はい」
冬奈の眼に涙らしい光の影がたまっていく。しかしここでそれを溢さないのが都築冬奈という人だ。
「ありがとうございます! 頑張ります!」
姿勢を正し、敬礼で返す冬奈。可愛くないなと思いながらも、猪口は笑顔で敬礼を返した。
沸き起こる拍手。こりゃ負けてらんないぞと語る同期たち。そんな彼等のことを冬奈はとても愛しく、誇りに思った。
遠くで子供たちがはしゃぐ声が聞こえる。磯の香り身にまとった海風はやや生温く、これからもっと湿気を帯びて熱くなるのだろうと思われた。
彼女の嫌いな季節。その夏はまだまだ始まったばかりだ。
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