君がいたから

 遠泳訓練を翌週に控えた最後の休日。その日、日和たち7区隊の一同は当直幹部から許可をもらい、基地のプールで自主練習を行っていた。目的は勿論冬奈を泳げるようにすることだ。


「日和ちゃん、なにか具体的な方法は考えてあるの?」


「いや、特に…」


「まあそうだよねぇ。あるならとっくに試しているもんね」


 夏希の指導で練習に励む冬奈を、日和たちはプールサイドに座って見つめる。と言うよりは途方に暮れているのほうが正しいかもしれない。


 水泳経験者である夏希の指導はとても分かり易くて、冬奈だけでなく、日和たち全員が彼女のおかげでみるみる泳ぎが上達していった。しかしそれでも冬奈は一人だけで泳ぐことはできない。自分と自分以外の何かが繋がっていないとパニックをおこし、途端に溺れてしまう。いたずらに練習だけしても無駄だということは誰が見ても明らかだったし、彼女が何度も溺れる姿を見るのは非常に心苦しかった。


 しかし「もうやめよう」と言い出す者もいない。それを言ってしまうと、冬奈のことを諦めているような気がしてくるからだ。いくらこれ以上の練習が無駄だとしても、それだけは口にできなかった。


 だから夏希もこうやって言い方を変える。


「ちょっと休憩しよう。冬奈も疲れてんだよ。少し休めば、もっと体も動くようになるって」


 水に浸かりながら、冬奈は青菜に塩をかけたようにうなだれる。こんな状態であれば、きっとなにをやったって上手くいかないだろう。そんな様子だった。


 普段、豊富な知識と経験を持って皆を牽引してくれる存在であっただけに、今の彼女は見ていてとても痛々しい。大丈夫だよ、と声をかけてあげたいところではあるが、そんな気休めの言葉を送っても無意味なことは全員が察していた。


 水から上がろうとする冬奈に日和は手を差し出す。しかし彼女はそれを素通りし、プールの端に取り付けられた手すりを使って自力で上がって来た。


「私、なにか飲み物買ってきますよ。どれが欲しいとかあります?」


 場の空気を和ませる為か、それとも重たい空気から逃げだしたいからか、春香が小銭入れを片手に立ち上がる。


「スポドリにしときな。水泳って、以外と汗をかいてるものだから」


「そうなんですか? 水の中にいるのに…」


 違う違う、と夏希は手を横に振る。


「水の中にいるからこそ、脱水症状になりやすいのさ。人間って水に触れていると喉の渇きを感じにくくなるんだけど、実際には陸上で運動するよりも、もっと多くの汗を水中でかいてるわけ。ほら、一生懸命泳いだ後ってけっこう体が火照っているだろ? あれは汗をかいてる証拠なんだよ」


 へぇ、と一同は感心した声を出す。流石は高校時代を水泳に費やしてきた実力者だ。インターハイに出場したこともあるという経験は、決して伊達ではないといったところか。


「脱水になるとミネラル不足で足もつりやすくなる。泳いでいる最中にそれが起こるとそれこそ溺れ死んじゃうから、水泳中の水分補給はしっかりしておいたほうがいいぜー」


 溺れるという単語に、冬奈がビクリと体を震わした。それに気付いた日和はすかさず夏希に視線でメッセージを送るが、生憎と彼女は自分の話に酔っていた。こういう時は夏希の無神経さが憎たらしい。


 ベンチに座り、顔を伏せる冬奈。水泳の訓練が始まってから、日和は冬奈の笑顔を見ていない。それどころか、声すらまともに聞いていないんじゃないか。


 ここが学校だったらなと考えてしまう。自分たちが普通のただの高校生や大学生だったなら、一つ課題をクリアできないことくらいどうってことない。たとえそれが赤点で単位を落とす結果になったとしても、次のステップへと進むことはできる(勿論単位を落とさないことが理想だし、留年というパターンもあるが)からだ。


 しかしここは自衛隊。言わずもがな、彼女たちは給料を貰いながら税金で教育を受けている。そこに無駄な教育はなく、全てが必修科目。クリアしなくてもいい課題なんて存在しない。出来なければ出来るようになるまで教育を行うというのが自衛隊流で、冬奈が泳げるようになるまでは水泳訓練が実施されるし、そもそも課程免を告げられる可能性だって十分あり得る。


 そんなことは、もともと自衛官だった冬奈自身が一番理解していた。



 少しすると春香が飲み物を買ってきてくれたが、冬奈はそれを口にしようとはしなかった。本当はもう練習をしたくもないのだろう。どれだけやっても練習の成果が表れることはないし、休日を削ってまで自分の練習に同期を付き合わせることは、かえって彼女の負担になるだけだ。


 夏希がちらと時計を見た。午後から泳ぎ始めて数時間、もうすぐ夕食の時間になる。今週は後任期当直を勤めている彼女は、1700の夕食以降は当直室で勤務しなければならない。


「もうちっとだけ練習しよっか。本格的に泳げなくても、せめて来週の遠泳に参加できる程度にはしときたいよね」


 遠泳訓練は「楽に長く」泳ぐことを目的としているので、クロールなどといった「速さ」を求める泳法は必要ではない。顔を常に水面上に出し、手足は平泳ぎのように動かしてゆっくりと進む。顔を上げて泳ぐほうが技術的に難しいとも言われるが、冬奈の場合は水に顔をつけて泳ぐこと自体がストレスになっているので、むしろこちらの泳法のほうが難易度が低めだった。


「顔を出してりゃ周りの様子も目に入るし、音や声も聞こえる。足がつかないってのを除けば、お風呂でお湯に浸かるのと大差ないよ」


 やってみよう、と夏希が一足先にプールに飛び込んだ。相変わらず、イルカのように綺麗な飛び込み。毎回水面に激しくお腹を打ち付ける自分とは大違いだと日和は感心する。


 器用に立ち泳ぎしながら夏希が冬奈に手を伸ばす。平気だから来い。そう言っているようにも見えた。


 だが冬奈は夏希を見ようともしない。足がつかないこと以外は風呂と大差ない。しかし彼女にとっては、その足がつかないという事実だけでも、辛い過去を思い出すには十分だった。


「そんなに、信用ないかなぁ。あたしら」


 やや苛立ちを含んだ声で呟き、ぶくぶくと沈んでいく夏希。そのまま水中を泳いで移動し、再びプールサイドに上がってきた。


「溺れたら助けて貰えるって分かってるじゃん。一体なにが怖いんだよ?」


 軽く水を払い、ゴーグルと水泳帽を外す。もう今日は泳がないとでも言うように。


「…全部よ」


 冬奈が重たい口を開き、拳をぎゅっと握り締めた。


「全部、全部怖いの! 水に入るのも! 顔をつけるのも! 溺れるのも! 立ち向かわなくちゃ克服できないのも分かってる! けど怖いものは怖いの!」


 水に身を投じた時の、無重力にも思える気持ち悪さに、奈落のそこまで引きずり込まれそうな冷たい感覚。掴むものもなにもなく、求めても手は空振るばかり。目も開けることもできず、周りの音も聞こえず、苦しさだけが襲いかかってくる現実。生死をさ迷う程に溺れたことがある者だけが抱く恐怖。


 せきをきったように涙を流し、ほとんど悲鳴に近い心の内をさらけ出す。


「そもそも何で水泳なのよ! 私達は航空学生じゃない! パイロットじゃない! なのにこっちに来てから一度も飛行機には触らせて貰えなくて、毎日地べたを駆け回るだけ! そしたら今度は水に飛び込めって! 何時になったら私たちは飛べるのよ?! 何時まで空を見上げなきゃいけないのよ?!」


 やめろ、やめろと唱える日和。そんなのは誰もが思っていて、敢えて口にしてこなかったことだ。


 パイロットになるには基礎が大事。今はその基礎を作る時期。みんなそういう理屈で不満を圧し殺して、折れそうになる心をなんとか支えて頑張っているのだ。


 しかし既に芯が折られてしまった彼女に、最早理屈なんて関係ない。目の前にある不満を周囲に撒き散らし、発散させることでしか彼女は自分を守れない。


 それはまるで幼い子供が泣きわめくように。


「もう嫌だ、無理よ。帰りたい…帰りたいよ、お母さん…」


 力尽きたように膝を折り、頭を抱えてがっくりとうなだれる冬奈。そんな彼女を見るに耐えなかったのか、秋葉が何も言わずにその場を離れた。もう自分たちでは無理だ。そう察したようだ。


 一人が離れると、崩れるように夏希、春香がプールを立ち去る。そんな彼女たちを日和は止めなかった。


「帰ろう、日和ちゃん。私達、できることは全部やったと思うよ」


 それでも駄目だった。冬奈を変えることはできなかった。だからこれで終わりなのだと月音は言っていた。


 でも、本当にそうだろうか。


 このまま終わりでいいのだろうか。


 答えを待たず、月音も二人を残して去っていった。後には声も出さずに泣きじゃくる冬奈と、静かにプールの水面を見つめる日和だけが残る。


「やるよ、冬奈」


 腕を取り、無理やり冬奈を立たせる。彼女が自力で立っていられることを確認すると、日和は一人プールに飛び込んだ。下手くそで、大きくたてられた水飛沫が冬奈の体を濡らす。


「言っとくけど、私は諦めてないから!」


 一番深いプールの真ん中から、顔だけ水面から出して日和が声を張る。


「困るんだよ! ここで冬奈がいなくなったら、私達は私達のまとめ役をなくしてしまう! 自分で気付いていないかもしれないけれど、現自の冬奈がいてくれたから、私達は今日まで道を逸れずにここまで来れたんだよ!」


 厳しい航学生活では、各人の人間性を試される機会が幾度となくある。朝から晩まで張り詰めた空気の中で、隙あらば「手を抜いてしまおう」とか「やらなくてもバレないだろう」と考えがちだ。それが集団となると恐ろしいもので、本来なら絶対に許されないようなことでも、数が集まれば人は平気でそれをやってのける。


 その点冬奈は、その積み重ねた経験から「やっていいこと」と「いけないこと」の区別が他の誰よりもついていた。


 誰か(大抵は夏希が)がいきすぎた提案をした時はすかさず止めに入り、逆に丁度良いガス抜きになると判断した時は快く頷いて、同期たちの行動を「保証」し「決断」してくれた。


 圧倒的に経験が無く、ただ立ち止まるだけの「ストッパー」である日和には決してできないことだ。


「勝手なこと言わないで! 私は坂井学生が思っている程に立派な人間じゃないわ!」


 再び声を荒らげる冬奈。しかし彼女の気持ちは彼女自身にではなく、しっかりと日和に向けられている。


「曹候(一般曹候補生)の試験とついでに航学を受けただけ。部隊でそれを話したら、もう一度受けてみろって言われただけ。なんとなく受けて、そしたら受かって、気が付いたらここに来ていた。ただそれだけなの。パイロットになりたいとか、そんなことを真剣に考えたことなんてないの!」


「それでも、冬奈は自分で選んで航学ここに来た。他人に自分の選択を任せる程、冬奈は無責任じゃないはずだよ。苦手な水泳でもきっと克服してみせるって。その気があったから冬奈は今日まで辞めなかったんだよ」


「どうしてそこまで言い切れるのよ! 出会ってから、せいぜい4ヶ月しか一緒に過ごしていないのに!」


「4ヶ月も一緒にいたからだよ!」


 その言葉に冬奈はハッと息を飲む。


 ただの4ヶ月ではない。人生で最も濃いと言われる24ヶ月の、その最初の4ヶ月。それは果たして互いのことを知るには足りない時間だっただろうか。


 同期としての団結を交わし、既にいくつもの苦難を乗り越え、それでも自分たちは仲間のことを理解していなかっただろうか。


 名前を覚える間もなく入隊式前に去っていた者や、導入期間中に消えていった者とは断じて違う。他人と割りきって切り捨てるには、彼女たちが過ごした時間はあまりにも長すぎた。


「私は冬奈を見捨てない。冬奈が諦めても、私は何回でも冬奈を無理矢理立たせてみせるよ」


 嫌になるほど真っ直ぐで、遠慮なく人の心に入ってくる。それでいて的確で正しいことしか言わないのだから、冬奈はなにも返せない。それがなんだか悔しくて、今の自分が情けなくて、どこに向けたら分からない感情を拳で彼女にぶつけてみたくなる。


 五月蝿い、黙れ、と。放っておいてくれと。


 自分に嘘を重ねて。


「逃げも隠れもしないよ。私は冬奈の気持ちを受け止める。来い! ここまで! 泳いで! ぶつかって!」


冬奈! と日和が名を叫ぶ。心が揺れ動き、足が一歩前に出る。しかし眼前に広がる水面が、その次の一歩を躊躇わせる。その時だった。


「あれ?」



 日和の様子がおかしい。



 さっきまで立ち泳ぎでそこに浮かんでいたのに、急に水鳥が暴れるみたいに水面を叩いて、浮いたり沈んだりを繰り返している。よく見ると、懸命に足を伸ばそうとしているみたいだが…


(脱水になると足もつりやすくなる。泳いでいる最中にそれが起こるとそれこそ溺れ死んじゃうから…)


 ついさっき夏希が言っていたことを思い出す。もしかしてあれは、溺れているんじゃないか?


 日和が片手を高くかかげ、助けてくれというサインを送り、それが確信に変わった。冬奈の顔が一気に青ざめる。


(誰かっ!)


 呼ぼうにも同期たちは既に帰ってしまっている。内線は用意されているが、電話して助けを呼ぶなんて悠長なことは言ってられない。


 浮き輪を探すが、さすが航空学生。訓練で使用する道具は全て倉庫内に片付けてあり、しっかりと鍵がかけられている。プールの鍵だけ受領して、倉庫の鍵は受領しなかったことがここで悔やまれる。


 そうこうしている内に、日和の体は完全に水の中へと消えていった。


 やるしかない。そう思った時には既に冬奈は水面に向かってジャンプしていた。


「ああぁぁぁ!」


 体が、顔が水の中へと沈み、ゴーグルを着けていても開けることのなかった眼をしっかりと開き、日和を探す。身体をどう動かせばいいかは分かる。今までずっと助教や夏希から個人レッスンを受けてきたのだから。


 日和の姿を見つけ、潜り、腕をとる。


 死なせてなるものか。大切な同期を、目の前で失ってなるものか。


 二人の顔が水面に上がった。息を吸い、荒ぶる呼吸を整え、溺れていた仲間の顔を見る。


「坂井学生!」


「駄目だよ冬奈。溺れている人を助ける時は、正面じゃなくて後ろから体を掴まなきゃ」


 まるで平気な様子で日和が笑う。え、と冬奈は化かされたように目を丸くした。


「大丈夫。私、ちゃんと水分は採ってるから。もし足がつっても、対処法だって教えてもらってるよ」


 溺れていたのはフリ。冬奈をここまで泳がせるための、その決定打。昨晩に奏星がオススメはしないと言って教えてくれた、カナヅチを治す最終手段。溺れる真似をして助けてもらうという、水泳をする上で絶対にやってはいけない危険な行為だ。


「そんなっ! 危ないことをっ!」


 冬奈が平手を振りかざし、ああ叩かれるなと日和は覚悟して身構えた。しかし少しの間があって、その手は静かに下ろされる。


「どれだけ心配したと思ってるのよ…二度としないで」


 自分が溺れるよりも、目の前で仲間が溺れることのほうが遥かに怖かった。しかし彼女にそれをさせた原因は、他でもない自分なのだということも理解していた。


「ごめん冬奈、悪かったよ。でもさ、見てよ」


 冬奈を振り向かせ、自分たちがどれだけ陸から離れているかを見せてあげる。それは彼女が自分の力だけで泳いできた距離。日和の為に恐怖を圧し殺して進んだ距離だ。


「ほら、泳げた」


 17時の飯ラッパが鳴り響く。早く着替えて食堂に向かわないと、夕飯を食べそびれる上にまた先輩たちに怒られる。


 二人は顔を合わせて頷きあい、笑顔でプールサイドに向かって泳ぎ始めた。

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