挫折

 冬奈がトラウマレベルで泳ぐことが苦手だという話は、71期はおろか航学群全体にまで瞬く間に広まった。これが単に「苦手なだけ」という内容だったら、区隊長らも彼女を無理矢理プールに突き落とし、泳げるようになるまで泳がせるという荒治療をやっていたかもしれない。しかし彼女の場合、そういうわけにはいかない様子だから非常に厄介だった。


 どうしたものかと頭を抱えているのは、なにも基幹隊員だけではない。これから夏休暇にかけては海での遠泳訓練や、対番区隊対抗の水泳競技会など、水泳に関する行事が色々と予定されている。遠泳訓練では71期全員でクリアしなければならない課題があるし、水泳競技会では先の駅伝大会と同様、負けることが許されない戦いが繰り広げられる。いずれにしても、現時点でまともに泳ぐことができない冬奈の存在は、同期にとっても先任期にとっても大きな悩みの種だった。


 何度も水泳の訓練は行われるが、彼女に関しては毎回結果は同じ。


 一人だけ別コース、6区隊助教の田村3曹が付きっきりで教育を行う。が、泳いでみようと試みこそすれど、10mかそこら進んだところでパニックを起こしたように溺れてしまう。立てば腰のあたりまでしかない水深でも、だ。


 泳法…体をどう動かせば泳げるかについては理解できているらしい。陸の上でフォームをチェックしてみると、どこもおかしくない綺麗な動きで泳ぐ真似をしてみせる。なんなら水の中でだって、ビート板を使ったり、助教が彼女の手を取っていたら普通に泳ぐことができる。


 要は「安心」を失うと身体が言うことをきかなくなるのだ。自分と地上を繋ぐなにか、溺れた時にすぐ助けてくれるなにかが、物理的に自分の身体と触れていること。それがないと不安になって、パニックを起こしてしまう。


 精神的な問題なのだ。技術ではない。


 だからこそ、誰にも手のうちようが無かった。



 2週間程の時が経ち、遠泳訓練は来週と目前に迫っていた。同期がどんどん先の段階へと訓練を進めている中、冬奈だけはその場に停滞し続ける。このままではとても訓練を修了できる見込みはなく、これは見過ごせない問題だと航学群の主要幹部たちが臨時で会議を開くまでに至った。


「現場の…区隊長らの所見としてはどうなんですか。これから先、彼女は泳げそうになる可能性を持っているんですか?」


 教育隊長、籾木3佐が学生隊長の野川2佐を責めるように問う。学生教育の中でも訓練関係は学生隊が担当しているから、籾木3佐としてはこの責任は学生隊にあると考えていた。


「可能性は、現時点では全くありません」


 野川2佐はきっぱりと答える。すると籾木3佐は「学生隊はいつもそうだ」と口調を荒くした。


「パイロットは身体が資本とか言って、座学よりも訓育を優先させて、教育隊こっちの都合など考えもしない。それなのにこの様ですか? 言っておきますが都築学生は、座学においてはそこそこ優秀な成績を修めていますがね」


「まぁまぁ教育隊長、そう熱くならんと」


 険悪なムードになりそうなところを、教育主任の金田2佐が割って入る。


「しかし訓練を修了できないならば、必然的に教育基準に達していないという評価になる。場合によっては、学生罷免もあり得ない話ではないなぁ」


「泳げないから罷免ですか? 主任、いくらなんでもそれは…」


「教育隊で言えば、試験で赤点をとったようなものだよ。少なくとも、能力審査会議にかけることは避けられない」


 能力審査会議…通称「ボード」と呼ばれる。何らかの理由で学生の実力や素行に問題があると判断された時、これから教育を続行するか、それとも航空学生課程を罷免させるか決定する場だ。


「ボードにかけるとなると、精神面でもかなり追い詰めることになりますよ」


「だがなにもせん訳にはいかんでしょう。そうでないと、水泳訓練そのものの存在意義が問われることになる。まさか「基準には達していないが、水泳は必須能力ではないから問題ない」とでも報告するんかね?」


「そうですよ。そもそもパイロットは泳げないといけないと明文化されているわけでもない。水泳訓練は本当に教育科目として必要なんですか?」


 二人の論点は少しずつずれていき、本来の会議の目的を見失いつつある。しかし野川は何も言わず、沈黙を守ったままだった。


「学生隊長は…」


 と、そこで群司令の佐伯1佐が口を開く。主任と教育隊長は一時論争を止め、群司令に視線を向けた。


「野川はどうだい? 今すぐにでも彼女の訓練を中止させるかい?」


 航学出身の佐伯が、同じく航学出身の野川に問いかける。職場の上下関係ではなく、先輩後輩として。


「私は、彼らの可能性を信じたいと思います」


 冬奈個人ではなく、71期としての可能性。きっと同期たちが彼女を救ってくれるだろうという希望。同じ航空学生として、彼ら若者の気持ちを、野川は十分に理解しているつもりでいた。


「じゃあ、もう少し様子を見ようか」


 佐伯の言葉に一同は頷いた。水泳訓練は継続。冬奈をボードにかける予定も無い。結果がどうなるかは誰にも分からなかったが、取り敢えずはこれが今考えられる最善の処置だった。





「冬ちゃんさぁ、いい加減にしなよ」


 午後の訓練を終えて水着から制服に着替えているところ、更衣室の重たい沈黙を夏希がぶち破った。先にプールから上がっていた冬奈はすでに着替え終わって、居心地悪そうに部屋の隅に突っ立っており、対して夏希はこれから着替えようというところだった。


 非常に苛ついた様子。仲間に向けるような目ではない、明らかな敵意。しかしそれを向けられた当の冬奈はなにも反応せず、相変わらず顔を伏せたままだった。それが余計に、夏希の神経を逆撫でしてしまう。


「冬ちゃんの過去になにがあったのかは知らないけどさ、それにしたって限度ってのがあるでしょ」


「夏希…」


「この世界に入った以上はさ、クリアしないといけない課題があるわけじゃん。このままの調子で逃げ切れるわけ無いなんて、そんなの冬ちゃん自身が一番わかってるっしょ?」


「夏希」


「どっかで踏ん切りつけてかないと前には進めないし、周りの皆だって迷惑だよ。それが出来ないんならさ…」


「夏希!」


 殴り付けるように、大きな音をたてて更衣ロッカーの扉を閉める。隣にいた月音が驚いて飛び上がるが、日和は謝らなかった。


「なにさ、ひよちゃん。間違ってること言ってたかな?」


「間違ってないよ。正しくもないと思うけどね」


 それが出来ないなら…その言葉の先を、日和は絶対に聞きたくなかった。言わせたくなかった。


 辞めてしまえ、だなんて。


「いくら夏希でも、それ以上冬奈を責めるのは許さない」


「別に責めてたわけじゃ…いや、そんなことないか」


 日和に鋭い目で睨まれ、夏希は自分の軽率さを素直に反省する。後先考えず、その時思ったことを口にしてしまうのは夏希の悪い癖だ。そしてそれは本人も自覚しているところだった。


 乱暴に扉を叩いたものだから、完全に閉まりきらなかった更衣ロッカーが、小さな金属音を鳴らしながらゆっくりと開く。しかし本人はそれに気付く様子はなく、気を使った月音が今度こそ丁寧に閉めてあげた。


 日和は、夏希から目を逸らさない。


「忘れたとは言わせないよ。なにかあったら皆で共有し合う。この6人全員で悩むって約束したこと」


「…入隊式の前日だ。忘れるもんか」


 挫折した同期は、放っておけばいずれ航学を去っていってしまう。そうさせない為にも、仲間のことを絶対に見捨てない。誰かが躓いたら全員で助ける。今がまさにその時と言えた。


 険しい表現をしていた日和だが、夏希の反応を見て再びいつもの柔らかさを取り戻す。


「今週末、私はなにも予定が入ってないんだ。土日であっても、申請すればプールを使わせてもらうことはできるみたい。どう? 冬奈と一緒に皆でみっちり泳いでみない?」


「はい! それ賛成!」


 すぐに手を上げてくれたのは月音だ。続いて春香、秋葉も頷く。


「あたしも行くよ。今週末は当直で、どうせ外出はできないしね」


 少し気まずそうに夏希も乗ってくれる。全員が了承し、決まり! と日和が手を叩こうとしたその時だった。やめて、と低い声が彼女たちを止めたのは。


「私の為に、そんなことまでしなくてもいいわ」


 冬奈が、助けを求めているはずの本人がそれを拒絶する。


「駄目なのよ、私。もうどうやったって泳げる気がしない。無駄な足掻きに皆を巻き込むつもりはないわ。来週、自己免を区隊長に切り出すから…」


 自己免…辞めろと言われる前に、辞めますと申告する行為。


 ここにいる誰もが一番聞きたくなかった言葉。


「なっ!?」


 なんでと日和が言うよりも、今度は月音が早かった。つかつかと冬奈に歩み寄り、ぱちんと頬に平手打ちを食らわせる。喋らせない。そんな勢いだった。


「そういうことは、やるべきことを全部やった人が言う言葉だよ。冬奈ちゃん自身はどうなのか知らないけど、少なくとも私達は、私達にできることをまだ全部やってない。とにかく! 冬奈ちゃんはこの土日、皆と一緒に泳ぐ練習するの! いい?」


 これには冬奈も頷くしか反応のしようがない。こうやって理屈を直球で相手にぶつけることができるのは月音の得意技だ。きっと日和だったらこうはいかない。理屈を理屈で返されて、互いの妥協点を探り出すのが関の山だ。


 取り敢えずこの7区メンバーで冬奈の水泳練習に付き合うことが決まったわけだが、さてどうしようかな、というのが日和の本音だった。





 教育のプロである助教らが、何時間も付きっきりで指導を行っても冬奈は泳げるようにならなかった。その原因は精神面にあるのであって、練習してどうにかなる問題ではないことは誰もが分かっていた。


「夏希も、なにを教えればいいか分からないって言ってたなぁ。夏希が無理なら私たちになにができるんだって話なんだけど…」


 自主時間も終わり、消灯までの僅かな自由時間。日和は隊舎外階段の踊場で、携帯を通じてある人と話していた。


「そっちは空自以上に、泳げないと困る所でしょ? 同じように悩む人、いるんじゃないかと思ってさ」


『久しぶりに連絡くれたと思ったらそんな話?』


 海自航学の同期、臼淵奏星うすぶちかほだ。海上自衛隊と言えば体力測定の他に水泳測定を行うほど、泳ぐことに力を注いでいる組織。泳げない者は勿論、水に顔をつけるのが怖い者でも河童のように泳げるようになれるという話だ。そんな組織にいる彼女なら、もしかしたら冬奈が泳げるようになる方法を導き出してくれるかもしれないと日和は期待していた。


「別に、用事もなくて連絡しあうような仲でもないでしょ」


『ひっどぉ。私だって日和と話したいことは沢山あるのにさ』


「お互い忙しいんだから仕方ないじゃん。携帯に触れる時間は同じでも、二人とも暇してるとは限らないんだし。むしろ今日、こうして繋がったのが奇跡だよ」


『はいはい。どうせ私は用事がある時にしか構ってもらえない、都合のいい女ですよ』


「そんなこと言ってないじゃん! 時間さえあれば、私だって色々話したいことはあるよ!」


 少しムキになって声を張ってしまう。それが聞こえたのか、秋葉の対番である瀬川がひょっこりと顔を出した。


「なんやなんや、穏やかやないなぁ坂ちゃん。ひょっとして男かぁ?」


「ち、違いますから! そんなんじゃないです!」


 ケラケラと笑いながら立ち去る瀬川。これは絶対に誤解されているなと日和はげんなりする。


「ほらぁ! 奏星が妙なこと言うからややこしいことになったじゃん!」


『あっはっは! ごめんごめん』


 携帯の向こうで楽しそうに笑う奏星。これは狙ってやっていたなと、呆れつつもつられて頬を緩ませる。


『まあ冗談はさておき、確かにうちにも泳げない人とか、泳ぐのを怖がっている人は沢山いるよ。冬奈ほどじゃないかもしれないけど』


 意外に思われるかもしれないが、航空学生に限らず、泳ぎを得意としない者が海上自衛隊に入隊してくることは珍しくない。海の上で行動する以上、泳ぎは海上自衛官にとって必須項目であるが、しかし入隊試験に水泳試験は設けられていない。これがなにを意味するかというと、教育次第でには人は誰でも泳げるようになるし、結局はやる気の問題だということだ。事実、海上自衛隊ではほぼ全ての隊員が教育隊のうちに泳げるように成長しているし、極端ではあるがカナヅチから始まってオリンピックに出た隊員だっている。


『要は「自分でも泳げる」って思わせることが大切なんだよ。冬奈の場合特にね。泳げないって思い込んでいる人は、どうやったって泳げるようにはならないよ』


「だから困ってるの。冬奈に自信を持たせる、なにか良い方法はないかなぁって」


『まあ、ないこともないけど…オススメはできないよ?』


 それまでの明るさが消え、ややトーンを変えて話し出す奏星。あまり周りにも聞かれたくないのか、声量も抑えている。その内容を聞いて日和は眉をひそめた。


「え、それって危なくないの?」


『オススメはしないって言ったじゃん。でもこれで泳げるようになった人を、私は知っている』


「…怒られそうだなぁ」


『そりゃまあね。だからやるとしたら最後の手段じゃない?取り敢えずは普通に練習したほうがいいと思うよ』


「うん…頭の片隅に置いとく程度にする」


 そうしてくれ、と声の調子を戻す奏星。薦めてみたものの、本人もあまり気乗りはしていないようだった。


『それにしても、もう少し早く相談してくれたらなぁ。そしたら私も一緒に悩んであげたのに。頼りにならない女だよ、私って』


「そんなことないよ。ごめんって。今度からもっとマメに連絡するから、それで許してよ」


『連絡だけじゃダメ。いっそ「会いたい」って言ってくれなきゃ』


「は、はぁ?」


『ほらほら、言えないの? 所詮、日和にとっての私ってその程度の存在?』


「いや、ちょっと待って!」


周囲を見回し、誰もいないことを確認する日和。そして


「会いたいよ。会って目を見て話したい。自衛隊のことだけじゃなくて、他愛もないこと、沢山話したいよ」


 いざ口にしてみると、するするっと言葉が出て来てしまう。自分でもなにを言っているんだと馬鹿馬鹿しくなるが、案外気分が悪いものでもなかった。


 が、運悪くそこに巴が通りかかる。


「あ…」


「日和…」


 時間が止まる。ばっちり聞かれてしまったようだ。


「…ノロケてるの?」


「うわぁぁ! 違います! 同期ですから! 海自航学の!」


 慌てて携帯を渡そうとするが、奏星はすでに通話を切っていた。ずるい人である。


「いいのよ。邪魔してごめん。けど、そろそろ点呼だからほどほどにね」


「ああぁぁ! 違うんですってばぁ!」


 どうすることもできず、珍しく取り乱す日和。この状況を予想して、そしておそらく楽しそうに笑っているであろう奏星のことを思うと更に腹がたった。


 やり場のない複雑な気持ちが、悲鳴となって響き渡る。


 相談相手を間違えたかな。


 彼女が航空こっちの面子とはまた一風変わった性格をしていることを実感した夜だった。

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