帰りたい場所

 まだ日が登って間もない街中を日和は走る。朝のうちはまだ気温も高くなく、むしろ少し肌寒いくらいで、外で運動するにはちょうどいい気候だった。


(イッチ、イッチ、イッチニー…)


 声に出さずに歩調を数える。毎日の早朝間稽古で身に付いた癖だ。今自分がしているのは「ジョギング」ではなく「体力練成」であり「駆け足」だ。たとえ休暇中であっても、制服を着ていなくても自衛官という身分に変わりはなく、またそれが日和はとても誇らしかった。


 長い坂道を登っていき、雪坂高校の正門までやってくる。学校まで続くこの坂道を初めとして、山々に囲まれた長野の街はあちこちに急な坂がある。小さい子供には辛い道のりばかりでよく泣かされたものだが、今思えばこういう街で育ったからこそ、長い距離を難なく走れるだけの丈夫な足腰が出来上がったのではないかなと思う。


 もう少しすると勉強や部活のために学生が登校してくる。もしかしたら知った顔もその中にはいるかもしれないが、特別に会いたいという気持ちは起こらなかった。


「よし、行こう」


 往路は少し息が上がる程度のペースだが、復路は全力だ。歩調も数えず、何も考えず、日和は今来た道を軽快な足音たてて駆け抜けていった。





「おはよう日和ちゃん。今日も早いのねぇ」


「あ、おはようございます」


 駆け足に出発する時は誰も起きていなかった藤風家だが、帰ってくると明の母親がいそいそと朝食の準備をしていた。


「ご飯、もう少しだけ待ってちょうだいね。その間にシャワー浴びてきたら?」


「はい。頂きます」


 この家でお世話になり始めてからもう数日経つ。夏期休暇の終わりはもう目の前に迫っているが、未だに実家にいるあかりからは良い返事が返ってこない。



From:灯

件名 :駄目っぽい…

お姉ちゃんのこと、軽くお母さんに話してみた。まだ相当怒ってて、帰っても敷居は跨がせないとか言ってる



 昔から仲が良くないとは言え、実の母親にここまで言われてしまうと流石の日和も傷付く。こんな調子でいつかまともに実家に帰ることができるのか…妹任せではなく、自分が直接母と向き合うべきなんじゃないかと、日和はシャワーで汗を流しながら考える。


 でも、会ってなにを話せばいいのか分からない。どれだけ「私は頑張ってる」ということをアピールしても、きっと母は聞く耳を持たない。昔からそうだ。母の世界では母の価値観だけが全てで、その子供である日和には敷かれたレールを綺麗に歩くことだけを求めている。既に彼女の理想の道から大きく外れてしまった日和は、言ってしまえば「失敗作」なのだ。その価値観が治らない限り、お互いが分かり合える時なんて来るわけがない。


 お湯を冷水に変えて頭から浴び、運動で火照った頭と身体が瞬時に冷却される。


「そもそもなんで私、お母さんと仲直りなんて…」


 果たしてそんなこと心から望んでいるだろうか? 中学生の頃から何度も衝突を繰り返して、一度は家を飛び出したことさえあるのに。あの家で生きることが窮屈で仕方なかったはずなのに。


 だとしたら、その家に帰りたいと思うこの気持ちはなんだろう?


 故郷に居場所が欲しいから? 妹や祖母が自分の帰りを待ってるから?


 それとも…本当は母と分かり合いたいから?


 シャワーの水を止め、タオルを手に取る。考えても無駄だ。今は時間が解決してくれることを祈って、耐えるように休暇を過ごすしかない。


 太陽が山際から顔を出し、今日も熱い一日が始まろうとしていた。朝から元気な蝉の声が少しだけ鬱陶しかった。





 カーテンの隙間から差し込む日差しで明は目が覚めた。関東ではヒートアイランド現象や熱帯夜などに悩まされ、なかなか厳しい大学生活を送っていたのだが、長野こっちの夏は日が沈めば気温も下がるので、良質な睡眠がとれて大変過ごし易い。


 向かいの部屋を覗いてみると既に日和の姿はなく、窓と扉を開いて換気がされていた。布団は綺麗に畳まれており、好きに読んでいいと言っておいた本棚もまるで触った形跡がない。むしろあちこち掃除されていて、彼女が来る前よりも部屋が綺麗になっている気がする。


(ま、人の家だし、気を使うよね。日和ならなおさら…)


 実家みたいな居場所を作ってあげようと日和を呼んだのに、彼女は全くそんな素振りを見せない。家事の手伝いも進んでやるし、口数は少なく、むしろ自衛隊の寮よりも窮屈な思いをさせているのではないかとさえ感じる。きっとまだ自分と距離を置いているんだろうな、と明は顔をしかめた。高校時代にもっと彼女に接していれば良かったのにと思うが、結局はそれも結果論だ。


「おはよ~」


「おはよう。ご飯できてるから、早く食べちゃいなさい」


 テーブルに用意されている朝食は一人分。日和や母は既に済ましているようだった。ご飯と味噌汁に、小さいサラダと目玉焼きに焼きハム。簡単なメニューだが、それでもこうして暖かい食事を用意してくれることがどんなに有り難いか、大学で一人暮らしを始めた今ならよく分かる。


「日和は?」


「とっくに出掛けちゃったわよ。朝は私より早く起きて走ってきたり、行動力があるわよね。さすがは自衛官ってところかしら」


 日中、彼女は自分の実家に戻っている。この時間であれば両親は家におらず、自由に過ごすことができるらしい。そして夕食時になると明の家に戻って来て、あれこれ手伝いなどをしてから一晩を過ごす…という感じで彼女は休暇を過ごしていた。


「ご飯食べるのも早いわよね。ゆっくりでいいのに、ものの10分程度で食べちゃうんだから」


「あれでもゆっくりらしいよ。普段は2、3分で食べてるらしいから」


 厳しい! と驚きの声をあげる母親。それだけではない。家事を手伝ってくれる時の手際、丁寧で大人びた言葉遣い、立っても座っても見栄えのする姿勢の良さ。あといちいち返事が良い。非の打ち所がないというのはこのことで、自衛官というのは皆こうなのだろうかと感心する。


 大学に行って好き勝手遊んでいる連中より、日和のほうがよっぽど立派だと明は思う。けれど彼女の母親にとっては学歴こそが全てで、日和がどれだけ頑張ってもそれが正しく評価されることはないのだろう。いっそ自分が直接説得しに行きたいくらいだが、話が余計にややこしくなるだけなのが目に見えているので、絶対にそんな真似はできない。


「無理に家に帰らなくても…ずっとうちにいたらいいのに。やっぱり他人の家だと思い切り羽を伸ばせないってことなのかな?」


 違うでしょ、と母が切ったリンゴを出してくれた。季節外れな感が強いが、こちらは夏林檎という長野生まれのものらしい。


「それでも帰りたくなるのが家ってものなのよ」


「そう? どんだけ親と喧嘩してても?」


「仲直りしたい、できるって心のどこかでは考えてるの。だって家族なんだから」


「そんなもんかなぁ…」


 出されたリンゴを一切れかじった。シャクッと良い音をたて、ジューシーでとても美味しかった。





 実家に戻っても両親は仕事で居らず、妹も午前中は部活でいない。一人残っている祖母が黙々と家事をこなしてくれるのだが、なにもしないわけにはいかないので自然と日和も手伝うようになる。休暇中だから休んでろと言われるが、むしろ身体を動かしていたほうが余計なことを考えずに済んだ。


 それならば遠慮なくと、ツネは庭にある倉庫の整理を日和にお願いしてきた。そこには大きくて重たい荷物などが収納されているのだが、ツネや灯だと体力的に厳しく、かといって両親はなかなか手伝ってくれないので手をつけれないでいるらしい。昔からこの倉庫は、使わないけど捨てるに捨てれないものを次々に押し込むことだけに使われており、定期的に整頓しないと酷いことになることは日和も重々知っていた。


 それにしても半年でこんなに荒れるものかな、と日和は倉庫の戸を開いて驚く。所狭しと乱雑に積み上げられた段ボール。日和が入隊したり、灯が中学に上がったりしたことで色々と生活が変わったのだろう。倉庫の中は日和が家を出る前と比べて明らかに物が増えていた。


 片付けをする際の基本はまず「捨てる」ことだ。それが本当に必要のものなのかどうか判断し、悩むくらいなら捨てていく。物の量が減れば整頓も容易になり、結果綺麗に片付けることができる。日和はてきぱきと手を動かし、順調に作業を進めていた。途中から部活を終えた灯も加わり、倉庫の中はどんどん綺麗に片付いていった。


「あれ? これ…」


 まだ新しい段ボールの中を覗いて日和が声をあげる。


「どうかした? お姉ちゃん」


「懐かしいなぁ。私が小学生の頃のだよ、これ」


 日和が一冊のアルバムを広げ、その脇からひょっこりと灯が覗き込む。


「お姉ちゃんが小学生というと、私は保育園の頃だね」


「この頃は家族みんなで旅行とか行ってたね。お母さん、あんまり写真に写るの嫌いなのに、構わずお父さんがカメラ向けてさ」


 ペラペラと適当にアルバムをめくる日和。その中のなんと笑顔の多いことか。この頃の自分はこんなに生き生きしていたのかと、写っているのが本当に自分なのか疑う程だ。


 それがいつからだろう。家族間でだんだんと心が通じ合わなくなって、笑顔も少なくなっていった気がする。母親とは喧嘩したことばかりが思い出として残っているし、父親とはここ数年まともに話した記憶さえない。


「私が壊したのかな…」


 疑問なんて持たず、親に言われるままに育っていれば、良い子でさえいれば今でもこの写真のように笑っていられたかもしれない。そうすれば、灯だって余計な気を使わずに済んだかも…


「それは違うよ、お姉ちゃん」


 パタンと灯が無理やりアルバムを閉じ、日和から取り上げた。


「互いに気持ちがぶつかるのが普通なんだよ。お母さんにはお母さんの理想があったのと同じで、お姉ちゃんにも自分がやりたい事があっただけ。ぶつかって話し合って、喧嘩したっていいじゃん。家族なんだもん。うちの場合はそれがちょっと長く続いてるけど、いつか絶対仲直りできると思うよ?」


「そう、かな…」


「お姉ちゃん、友達と喧嘩とかしないもんね。私ともしたことない。だから分かんないかもしれないけど…」


 そう言って灯はアルバムを段ボールにしまい、蓋をした。こういう少し強引なところは日和に似なかった部分であり、灯の長所だろう。


「お姉ちゃんがもし「この頃に戻りたい」とか思ってるんだとしたら、それは間違いだよ。だからこれはこのまま倉庫に入れておく。いいよね?」


「う、うん」


 大人だなぁ、と日和はため息を吐く。自分より一回りも二周りも幼いはずなのに、年相応からはまるで離れた言動。もともと頭が良い上に、母親と姉のやりとりを間近で見てきたからこそ、人よりも多くのことを学んできたのだろう。今まで自分のことで精一杯だった日和にとって、灯は未だにどう接していいのか分からない存在であるのに対して、妹のほうは姉の性格をよく理解していたし、扱い方も心得ていた。


「最初に言ったけど、お姉ちゃんがお母さんと会って話したいっていうなら私は止めないよ。本当に「会いたい」って思うならね」


「そうだね…ちゃんと向き合わないといけないんだよね。お母さんとも、私自身とも…」


 故郷にはなにもないと、帰れる場所がないと言って、ずっと日和は逃げてきた。しかしそれではいけなかったのだ。


 最初から強い覚悟を持って、胸を張って帰ってこなければいけなかった。たとえ理解されることがないとしても「今の自分はこんなにも頑張っている」と、そう母親に伝えるべきだったのだ。故郷と向き合うとはそういうことだ。単純に居場所を求めて帰るだけが帰省なのではないと、日和はようやく理解できた気がした。


「明日で基地に戻るつもりだったけど、その前に一度こっちに顔を出すよ。せめて一度くらいはお母さんたちに顔を合わせてから帰りたい」


「うん、いいと思うよ。今日の夜にでも、私からお母さんたちに話しておく。お姉ちゃんがこっちに帰ってきてるって」


 ニカッと灯は白い歯を見せて笑う。ああ、一番いい笑顔だなと日和は思う。言っていることは大人びているのにどこかやっぱり幼くて、帰省してからようやく見れた、日和の一番好きな顔だった。


「さて、もうひと頑張りして、片付けを終わらせちゃおっか」


「婆ちゃん、スイカ切っておくって言ってたよ。後で一緒に食べようね」


 姉妹揃って腕捲りをして作業を再開する。8月も半ば、日和の夏休暇はもう終わりを迎えようとしていたが、太陽はまだ高く熱く輝いていた。

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