帰省、そして出発

 夏休暇もいよいよ終わりに近付き、明日には防府北基地に帰らなければならない。予定であれば真っ直ぐ山口まで向かうはずだったが、その前に日和には立ち寄らなければいけない場所があった。彼女の実家だ。


 まるで逃げるように家を飛び出して自衛隊に入った手前、すんなりと家の敷居を跨がせてもらうことは出来ないだろう。どの面下げて帰って来た等と罵られるかしれないが、しかしそれも覚悟の上だ。


「大丈夫なの?」


 荷造りをしている日和のところに、アイス片手に明が顔を出した。なにが大丈夫なのか、訊いた本人すらよく分かっていなかったが、日和は笑って頷いた。


「どうせ喧嘩になるんだろうけど、そこは慣れてるから」


「…強いね」


「それが普通になってるだけだよ」


 もとより、まともに顔を合わせることもできない程の関係だ。どれだけ両親と喧嘩しようが、今よりも互いの関係が悪くはなることはないだろう。


「これ、ウチが言うことじゃないんだろうけどさ」


 日和は荷造りする手を止めずに聞く。


「自衛隊って普段家を空けてばかりで、なかなか家族に会うこともできないし、いざというときに危ないところに行かなきゃいけないし…凄い仕事だよね。だからこそ、もやもやしたものを実家に残したまま仕事に戻るのってよくないと思う」


「うん」


「でも、自分のことを否定する必要もないと思うよ。無理に自分の家に帰らなくたって、居心地悪かったらいつでもウチのトコに来ていいんだからね?」


 友達なんだから、と付け加えると日和は嬉しそうに笑った。


「冬休暇の時はもっと早く連絡するよ。そしたらまた一緒にご飯とか食べに行こう」


 遊ぶために、友達として明に会う為に。逃げる場所として彼女を利用するのではなく、もっと胸を張って彼女に会いたいと日和は考えていた。


 その為にも日和は、本来の居場所である実家としっかり向き合わなければいけなかった。





 帰隊する日の朝は早く、まだ辺りが涼しいうちに日和は藤風家を出た。手荷物は少なく、足取りも軽い。長野こっちに帰ってくる時はもっと気分が沈んでいて、今にも立ち止まりそうな程の歩みだったのだが、今では妙に心が晴れ晴れとしていた。というよりも「もう怖くない」といった気分だ。


 実家の玄関前に立つ。いくら仕事で忙しいとは言え、さすがにまだ出勤はしていないだろうという時間帯だ。会って話をする心の準備もできている。


 と、日和が一歩踏み出そうとした時玄関の扉が開いた。父だった。


「おっ…」


「あっ…」


 互いに目が合い、時間が停まる。先に会うとしたら母親だと思っていたので、少しだけ日和は動揺した。


「…話は聞いてる」


「うん、ただいま。…お母さんは?」


「今はなにも話したくないんだと。居ることには居るが、たぶん…」


 会わないほうが良い、とは言わなかった。そこから先の判断は日和に任せるといったところだろう。


「そっか、ならまた出直すよ」


「…そうか」


 お互いに歩み寄る気がないのならまともに話もできないだろう。大丈夫、機会はこれから何回だってある。こうして自分から会いにこれただけでも、今回は大きな発展があったと思うべきだろう。


 だが、どうも父のほうは日和と話す気があるようだった。


「乗れ。駅まで送っていってやる」


 車の鍵を取り出して言う父に、日和は素直に頷いた。



 家の車に乗るのなんて何年ぶりだろうと助手席の日和は思う。中学高校と通学には自転車や電車を使っていたし、家族でどこかに遊びに行った記憶もない。


 父とこうして二人きりになるのも随分久しぶりだった。高校受験が始まったあたりから進路のことで母と何度もぶつかり合い、互いに理解をしないまま今日まで時を過ごしてきたが、父が日和に口出ししてきたことはほとんどない。


 坂井隆和さかいたかかず。その「和」の字を一つ日和にくれた人。来る日も来る日も激しい口論を繰り広げる妻と娘を前にして、一体なにを思っていたのだろう。真っ直ぐ前を向いてハンドルを握るその顔は、日和が覚えていたそれよりもやや痩せていて、口元にシワも見えるようになっていた。


「自衛隊はどうだ?」


 車に乗ってから全く喋らなかった彼が急に口を開いた。


「いい所だよ、とっても」


「飯はしっかり食えているのか?」


「お婆ちゃんと同じこと心配するんだね」


 くすくすと日和が笑うと、無表情だった父も少しだけ頬を緩ませた。

 

「どんな時でも、飯だけはしっかり食えって言われて育ったからな」


「大丈夫だよ。ちょっと時間は短いけど、限られた時間で食べるのも訓練だし」


「…やっぱり、厳しいな」


「まあ、自衛隊だからね」


「航空学生、だな」


 まさかその単語が出てくるとは日和も思っていなかった。自候生も曹候補生も航空学生も、親からして見れば全て「高卒の自衛官」で人くくりにされていると考えていたからだ。あれだけ反対していた母も、同じ自衛隊の中で防衛「大学校」だけは進路の一つとして許してくれた覚えがある。


「…分かるの?」


「お前が受験を始めた頃に調べたんだ。自衛隊のパイロット育成コース。他の自衛官とは違う、幹部になることが約束された制度で、それ相応に厳しい場所だってことくらいは分かる」


 親から全く理解されないとばかり思っていたが、実は父の方から歩み寄ってくれていたことを知り、日和はばつが悪そうに顔を伏せた。


「でも、お父さんは賛成も反対もしてくれなかったね…」


 いくつかある、と父は車の速度を少し緩めた。


「俺としては、やっぱり日和には進学して欲しかったんだ。高校入試の時、進学校じゃなく商業高校に行きたいと言い出した日和を見た時、どうにも人生を焦っているように感じた。まだ若いのに、可能性も沢山あるのに、それを潰してまで生き急ぐ必要はないのに」


「…うん」


 その時ばかりは雪坂に進学するよう父が薦めてきたことを覚えている。


「日和が自衛隊に入るって言い出した時、なにか答えを見つけたかな、と思った。夢、というには少し足りないけど、それを探せる場所を見つけたといったところか? なにより日和は賢い子だから、勢いだけで自衛隊に入るなんて言わないだろうと信じてた」


「親バカだね」


「構うもんか。親が子を好きでなにが悪いっていうんだ」


 はっきりと「好きだ」と言ってくれたことに、日和は胸が締め付けられそうのなる。


「なにより、日和はもう十分大人の判断ができると思っていたから、基本的には日和の価値観を尊重しようと決めていた。進学しようが就職しようが、日和の決めたことならどんな形でも応援しようってな」


「だったらなんでっ!」


「自衛隊だからだ」


 遮るように父が言葉を重ねてくる。


「有事の時、真っ先に危険な場所へ飛び込んでいく仕事。特にパイロットは、いつ死んでもおかしくない場所で働いている。そんな場所に行きたいと娘が言い出して、それを手放しで喜ぶ親がどこにいる?」


「…危ないってことは分かってるよ」


「いいや、お前は分かってない。お前はいつだって自分を犠牲にして、自分には何もないとか、つまらないとか、勝手に自分に価値つけて…周りの人がどれだけお前を心配しているか気にもしないで」


 まだ駅は先だが、車は道の脇に寄せられて停まった。後続の車たちが次々と追い抜いていく。


「お前は、昔から正義感の強い子だったよ。間違ってると思ったら、ちゃんとそれを主張して、納得できるまで引き下がらない子だった。いいじゃないか、自衛官。とても日和らしい仕事だと思う。でも、それとこれとは話が別だ。お前にはもっと自分を大切にして欲しい。誰かの為にその身を削るのは凄いことだと思うけど、その理由が「自分には価値がないから」とかだったら、俺は絶対に許さないからな」


 入隊する時、賛成も反対もしなかったのはこれが理由だった。娘の好きなように人生を歩かせてあげたいが、親としてはそれを素直に喜ぶわけにはいかない。我が子だからこそ、大切に思うからこそ、危ない道を進もうとする日和の背中を、押すことも引き留めることもできなかったのだろう。


 もしかしたら父は、日和とろくに会話をしなくなってから、そんなジレンマをずっと抱えて生きていたのかもしれない。


「…分かったよ。お父さんを、皆を悲しませることだけはしない。…ありがとう」


 父は小さく頷くと、再び車を走らせた。少し停まっていただけだから、予定していた電車には十分間に合いそうだった。


(お母さんは、どうだったのかな…)


 窓の外を見ながら日和は思う。父とは違い、自衛官になることを猛反対し、今も納得してくれない母。彼女もまた父と同じように、自分のことを心配してくれていたのだろうか。


 今から家に戻ったところできっと話してくれないだろうが、時間をかければ、次に会う頃にはきっと分かりあえるだろう。そう考えると、あれだけ帰りたくなかった故郷が、少しずつ「帰りたい場所」に変わっていくような気がした。





 駅のロータリーに車を付け、そこで別れることになる日和たち。父はこれから出勤なので、構内まで見送りには向かえないようだった。


日奈子ひなこには…母さんには俺からちゃんと言っておく。だから次は隠れたりせず、もっと堂々と帰って来い。居心地が良かろうが悪かろうが、あそこは日和の実家なんだから」


「うん、ありがとうお父さん。会えて嬉しかったよ」


 笑う日和に、父は短く「おう」と返すだけだった。こうやって照れ隠しに無愛想になるところは昔から少しも変わっていない。


 小さく手を振って、日和は駅に向かって駆け出した。急いでいる訳ではなかったが、何故だか走らずにはいられなかった。


「…真っ直ぐ、強い子に育ったな」


 その背中が見えなくなってから、隆和たかかずは車を発進させた。我が娘ながら、一体誰に似たんだろうかと一人苦笑する。


 分かっている。自分があのように日和を育てたのではなく、日和が自然と育っていったのだということくらい。


 教員という仕事を理由にして、他人の子供ばかりに目を向けて生きてきた。家計を支えているし、勉強も見てあげているから、それで役割を果たしている気になっていた。


 日和が自分自身を好きになれる程に、自分は日和に愛情を注いでこなかったのだと隆和は思う。それは妹の灯に対しても同じことで、つまるところ自分は父親らしいことはなにもしてあげていないのだなと、無力さを感じた。


 せめて、安心して帰ってこれる場所を。娘の居場所を守ってあげること。それが今の自分に果たせる親の責任だろう。


 今夜、妻とゆっくり話してみよう。そう考えながら隆和はぐっとハンドルを握りなおした。

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