帰郷 そして再会
特急列車の窓から見える冬景色。山は頂から麓まで白く染められ、故郷が近付くにつれて周りに積もる雪の量も増えてきた。暖かい防府とは違って長野の冬は厳しく、またそれが日和には懐かしくもあった。寒いのは苦手だが、この綺麗に雪で飾られた地元の景色は嫌いではない。
この前の夏休暇とは異なり、今回は随分と晴れ晴れとした心で家に帰ることができている。帰郷すれば
きっと穏やかな年末年始を。列車が木曽路を駆け抜けて行く中、日和は自衛隊のお土産が入った袋を握りしめた。
「どの面下げて戻って来たのかしら?」
それが最初の一言だった。玄関に入る手前、まだ家の敷地にも足を踏み入れていないのに、そこで母と、
「言っておくけど、自衛隊の人をこの家に上げるつもりはありませんからね」
ぐっと奥歯を噛み締める。自分だけでなく、仲間である自衛官全員を否定する言葉。しかし日和はまだ冷静さを保っていた。
「父さんは?」
「出勤したわ。あなたが帰ってくるはずだから迎えてあげろと言われたけれど、そもそも自衛隊に入った子なんてうちには居ませんから」
「あくまで私が自衛官だから…ってわけ?」
「今すぐ辞めて帰って来るというなら、その敷居を跨がせてあげてもいいわ」
ふん、と日和は鼻で笑う。
「大学に行けって言うと思ってたよ」
「そうね。出来ればそうして欲しいわ」
「嫌だと言ったら?」
母の顔がひどく歪む。どうしてこいつは言った通りに動いてくれないんだと、強い憎しみを込めた目だ。一体何度この顔を見てきたことだろう。果たしてこれが実の娘に向ける目だろうか。
しかし自分は昔とは違う。もしかしたら、ちゃんと話せば母だって理解してくれるかもしれない。そんな僅かな期待と自信が今の日和にはあった。
「お母さん、私は今の自分が好きだよ。なにも持たない、空っぽだったあの頃より、空を飛ぶために頑張っている今が好き。それにね、沢山友達もできたんだ。私と同じように、一緒に努力できる同期が…」
「そんなこと聞いてない!」
殆ど条件反射で身体が凍りつく。幼い頃からよく耳にしている、母の強い声だ。
「どうして? 自衛隊のどこがいいのよ? 友達を作りたいなら大学に行けばいいじゃない! あんな危ない訓練ばかりして、世間から冷たい目で見られて、いざとなったら戦争に行かされて!」
「いいんだよ。他になにも持たない私が、私にしかできないことを見つけられた場所なんだ。それが誰かの為になるんだったら、こんなに嬉しいことはないよ」
「どうしてっ! どうして私の子が…!」
ああ、またかと日和は哀れむように母を見る。結局は自分の為なのだ。子供が高卒で自衛隊に入った。それがどうしても気に食わなくて、プライドが許さないのだろう。
これ以上はなにを話しても無駄だ。日和は綺麗に回れ右をすると、うっすらと雪が積もった道を、自分の足跡を辿るように戻っていった。
「日和! あなたはっ!」
なにか言っている気がしたが、聞く耳は持たなかった。聞きたくもなかった。
とは言え、どうしたものかと日和は途方に暮れる。殆ど勢いで家から戻ってきてしまったが、これからの長い冬休暇をどう過ごしていくのか何も計画は持っていなかった。
誰もいない昼下がりの公園で、ベンチに座りながらこれからのことについて考える。とにかく今は寝泊まりできる場所を探さなくては。このまま夜を迎えてしまうと凍え死んでしまうかもしれない。
「明…」
藤風明。思わず口から零れ落ちるその名前。高校時代の友達で、夏休暇の時に行き先のなかった日和をずっと家に泊めてくれた。今の状況を考えると、もしかしたら今回の休暇も彼女にお世話になるかもしれない。しかしそれはあまりに身勝手な話で、というのも日和がこの状況に陥ったのは母親との会話が足りなかったからであり、そんな家庭の事情で友人に迷惑をかけることはどうしてもできなかった。
取り敢えず長野に帰って来ていることだけメールで伝えておくが、最悪防府に戻って下宿で休暇を過ごすことになりそうだなぁ、と苦笑いして日和は携帯を閉じた。
さてこれからどうしようか。近場のホテルでも探して、寝床を確保するのが先だろうか。
「…いや、違うよね。そうじゃないよね」
自分自身が情けなくて笑えてすらくる。
結局のところ、父や妹に全てを押し付けて、自分は現実から逃げてばかりいたツケが回ってきただけだ。母と話そうと思えばいくらでもその時間はあったはずで、ちゃんと話しあっていればこうして喧嘩することもなく、無事に実家で休暇を過ごしていたはずなのだ。夏の休暇で一体なにを学んだのだ。あれほど「実家と向き合わなければ」と心に誓ったはずではないか。
パチンと頬を叩き、立ち上がる。
やっぱりもう一度家に戻って母と話し合ってみよう。感情的になるかもしれないが、それでも粘って話し続けよう。そう決意した時だった。
「お前…日和か?」
どこかで聞いたことのある声。驚いて顔を向けると、さっきまでは誰もいなかった公園に、大きな犬を連れた青年が一人立っていた。
おかしい。どうしてこうなった。
こたつで暖を取りながら頭をフル回転させる日和。黙って座っていると暖かいお茶やらお菓子やらまで出されて、異様な歓迎ぶりにますます混乱してくる。
「気を使わなくても、普通にしてくれていいぞ。うちは遠慮とかいらないから」
「あ、うん。ありがとう」
「それにしても驚いたなぁ。卒業して、もう会えないかと思ってたけど、偶然ってあるもんだな」
「そう、だね」
嬉しそうに笑いながら彼は日和の向かいに座る。まだ状況が飲み込めずに緊張している日和に対し、こっちは随分と気楽そうだ。もしかしたら気持ちを解そうとしてくれてるのかもしれないが。
現在は県内の大学へ進んで陸上を続けているらしく、髪型も高校の頃から変わらないスポーツ刈りのままで、いかにも好青年といった感じだった。とは言え、さすがに航空学生ほど短くはないが。
「ねえ、やっぱり私、家に帰るよ。このままお世話になるなんて申し訳ないし…」
「だから気にすんなって。俺んち、お客さんとか大歓迎だからさ。もう少しすると妹も部活から帰ってくるから、遊び相手になってやってくれよ」
「うぅん…」
親切で言ってくれてる分、非常に断り辛い。
犬の散歩をしている途中、近所の公園を通りがかると偶然日和を見つけたらしい。こんなところでなにをしてるのかと訊かれ、話の流れで家の状況について話したところ、それならうちに泊まればいいと、半ば強引に連れてこられてしまった。そこらのネットカフェなどに泊まる必要がなくなったのは嬉しいが、夏休暇の時に明の家に泊めてもらった時とはまたパターンが違う。
なにより異性の友人の家に上がるなんて日和は初めてだ。どうしても緊張してしまう。
「里見はさ…」
「なんだよ、他人行儀な。高校の頃は名前で呼びあってただろ?」
そうだっただろうかと日和は頭を捻る。なにせ航学の同期のことは殆ど名字で呼んでいるから、それがすっかり染み付いてしまってるのだ。
「直也はまだ陸上やってるんだよね?」
「うん。大学で走るのも楽しいぞ。高校の頃より、もっと高いレベルの練習ができるし。そのへん日和はどうなんだ? やっぱり自衛隊だし、沢山走らされるのか?」
「まあね。休暇が明けてすぐに1万m競技会があるから、この休みの間も練習しないと」
「それなら俺と一緒に走らないか? いくらでも付き合うよ」
「あ、それは助かるかも。一人で走るとやっぱつまんないし」
「高校の部活にも顔出してやろう。あの顧問のハゲ、きっとまだ偉そうな口叩いてるぞ」
「あっはは! 木村先生だよね、それ? 懐かしいなぁ」
思い出話に花が咲き始めると、自然と日和に笑顔が増える。同期と話す時とはまた違った心地よさがそこにはあった。最初は自分の家に帰ろうと考えていた日和だが、こうして話していくうちに、このまま泊めてもらうのも悪くないかなと考えてしまう。
けれど、本当にそれでいいのだろうか。
「ただいま~って、あれ? 兄貴、その人誰?」
「日和。高校の同級生」
しばらく話していると、先程直也が言っていた妹が帰ってきた。高校生で、日和と同じ雪坂高校に通っているらしく、その制服がなんだか懐かしかった。
「ふぅん? あ、直也の妹です。初めまして」
「お邪魔してます…」
丁寧にお辞儀して挨拶してくれたので、日和も頭を下げる。
「ちょっと事情があってさ、しばらくうちに泊めてあげるから」
「あー、なるほどね」
「いやいやいや!」
ぶんぶんと手を振って否定する日和。まだ泊まると決めたわけではないのだが、しかしこの兄妹たちは既にそのつもりらしい。
「そしたら二階の空き部屋を綺麗にしなきゃね。兄貴のトレーニング器具とか片付けちゃってよ」
「はいよ」
そそくさと直也は席を外す。あまりに行動が早いので、日和はそれを呼び止めることもできなかった。参ったなと困り顔をしつつ妹の方に目を向けると、その視線に気付いた彼女はニッコリと笑って、日和の真正面に腰を下ろした。
「ね、ね、日和さんってアレですよね? 兄貴の彼女さんなんですよね?」
「え? いや、ちが…」
「嬉しいなぁ。うちの兄貴ってマラソン馬鹿だから、年がら年中走ってばかりで、全然女っ気がなくて心配してたんですよね」
「あー、まぁそういうイメージはあるかな?」
彼の高校時代と言われると、真っ先に思い浮かぶのは部活で走っている姿だ。他ではあまり目立った場面を見たことがなく、同じクラスなのに部活以外では殆ど話したことがない。もっとも、日和がクラスの人間とあまり関わりを持たなかったからというのもあるが。
「家に連れて来るのも男友達ばっかりで、私も楽しくないし。兄貴が女の人を家に上げたのってこれが初めてなんですよ」
「…喜んでいいのかな?」
「それだけ兄貴が特別扱いしているってことです。凄いことですよ」
だから、と彼女は口調を強くして日和の手を包み込むように握った。
「変な兄貴ですけど、宜しくお願いしますね! 私、日和さんのことはよく知らないかもしれませんけど、兄貴が好きになった人だから、きっと素敵な方なんだって思ってますから」
直也とは付き合っているわけではないし、そもそも彼が自分のことを好きかどうかも分からない。しかしこんなにもキラキラとした期待の目で見つめられると、日和としてもどう否定していいのか分からず、黙って小さく頷くしかなかった。
それにしても、こんなに兄のことを信頼、心配しているなんて、きっと仲の良い兄妹なのだろう。日和には灯という妹がいるが、もし兄か弟がいたとしたらどんな感じだったのかなと興味はあった。
「直也…お兄さんのこと、大切なんだね」
「良い兄貴ですよ。時々喧嘩もしますけどね。なんだかんだ優しいし、顔も悪くないしスポーツマンだし。私が言うことじゃないですけど、日和さん、いい男を捕まえたと思いますよ」
彼女はまた歯を見せて笑う。きっと本心なのだろう。正直なところ、日和にとっての直也は単に「部活が一緒のクラスメイト」程度の認識だったのだが、ここにきて彼という存在が日和の中で大きくなってきた。
「ホントに遠慮しないで下さい。急にお客さんが来ることなんて珍しくないですから。うちの親、兄貴が彼女連れて来たって聞いたら張り切ると思いますよ~?」
そう言って彼女は立ち上がった。部屋の片付けだったりと、客人を受け入れる為の準備が色々とあるらしい。
「ちょっとだけ待ってて下さい。すぐ日和さんが寝る場所作っちゃいますから」
「それなら私もなにか…」
「いいですって。兄貴の彼女さんなんですから手伝ってもらうわけにはいきません。あ、お茶淹れなおしますね?」
直也妹は空になった日和の湯飲みをとり、パタパタと嬉しそうな足音をたてて台所へ入っていく。結局、自分が直也の彼女だという誤解を解くことができないまま話が進んでしまった。長引かせれば長引かせるほど言い出し辛くなることは分かってはいたが…
しかしどうして日和は、この誤解が決して悪い気はしなかった。
直也の家族は日和のことを暖かく迎えてくれ、特に彼の母親なんかは「家族が増えた!」と言って猛烈に歓迎してくれた。最初は赤飯を炊こうかという勢いだったので、さすがにそれは直也によって阻止された。
一方日和が直也の彼女だという誤解は相変わらずそのままで、しかしここまで喜ぶ彼の家族を見てしまうと、実はただの友人だと否定してしまうのは逆に申し訳ない気がした。
さて、これからどうしよう。
入浴を終え、直也たちが用意してくれた部屋で一人横になりながら、日和はこの休暇の過ごし方について考える。里見家のまるで実家のような居心地の良さに思わず甘えてしまいたくなるが、いつまでもこのままではいられない。あくまでここは他人の家で、本来日和は自分の家に帰って、ちゃんと母親と腹を割って話し合わなければならないはずなのだ。
そんなことを考えていたら誰かに扉をノックされ、日和は身体を起こした。誰だろうかと思いつつ、どうぞと返事をする。
「悪い、日和。寝るところだったか?」
「いや大丈夫だよ。どうかした?」
直也だった。彼も風呂から上がったばかりらしく、ラフな寝間着に湿ったタオルを首にかけている。
「いや、怒ってるかな…と」
「怒る?」
「うちの家族、すっかり俺たちが付き合ってるものと思い込んでて…ちゃんと否定しない俺が悪いんだけど」
「ああ、そのこと? 気にしてないよ。心配しないで」
逆の立場だったらきっと同じ様に考えるだろう。それに、ちゃんと否定しなかったのは日和も同じだ。
「直也こそいいの? 私、直也の彼女ってことになっちゃってるよ?」
「全然平気。うちの親「そろそろ彼女の一人くらい連れて来い」ってうるさかったから、むしろ助かってるよ。それに…」
「それに?」
「俺、日和が本当に彼女だったらいいなって思ってるからさ」
「…へ?」
好きだ、と言われた気がした。もしかして、もしかしなくとも今、告白をされているのだろうか。
「日和さえ良ければ、この冬休みの間ずっとうちに居て欲しい。まぁ、これは俺の我が儘だけど。でも、もし日和が俺に遠慮とかしてるんだったら、そんなの全然必要ないんだからな」
「…うん」
「冬休みと言わず、これからもずっと、ここが日和の帰って来る場所の一つになればいいなと思ってる。俺はいつだってここで日和を待ってるから」
「うん…考えておくよ」
なんて答えるのが正解なのか分からず、けれどそれは告白に対する答えになるだろうことは日和にも分かってて、高鳴る胸を抑えながら、まるで受け流すような言葉を返した。
思っていたよりも反応が薄かったからなのか、直也は一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐにフッと笑顔になった。
「寝る前にごめんな。ランニングの練習する時は声かけてくれ。いつでも付き合うから」
「うん。ありがとう、直也」
互いにおやすみと言葉を交わし、直也は部屋を出ていく。彼が扉を閉めてからすぐ、日和は自分の顔がとても熱くなっていることに気付いた。顔に手を当てるとまるで風呂から上がったばかりのように火照っていて、同時に頬が今までにないくらい緩んでいるのを感じた。
自分は直也の話をどんな顔で聞いていただろうか。彼は至って冷静な様子だったのに対して、顔を真っ赤にしてひどくニヤけていたかもしれない。そう考えると途端に恥ずかしくなって、日和は枕に顔を埋めた。
この息苦しい程の興奮はなんだろう。中学生じゃあるまいし、これくらいで心が浮わついてしまってどうするんだと日和は自分を抑えようとするが、しかし彼女は男性に告白をされるなんて体験はこれが初めてだった。
「そんなこと今言われたら、寝れないじゃんか、バカ…」
考えれば考える程に鼓動は早くなる。その気持ちを抑えたくて理解したくて、だから日和は携帯を手に取りメールを打った。
恐らく、一番冷静になって今の日和と相談してくれるであろうその人に。
From:坂井日和
To:関先輩
件名:無題
私、恋をしているんでしょうか…?
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