脱落

 沢村との一件以降、日和はあまり深いことを考えないようになった。


 同期の為とか、団結の意味とか、自分の本当の気持ちとか、そういう難しい理屈には蓋をしてしまって、とにかく目の前に見える目標に全力で取り組むようにした。


 考えてしまえば動きが止まってしまう。考えてしまえば自分を見失いそうになる。だが取り敢えず体を動かしてしまえば、そういう余計なことを考えずにすんだ。


『後任期学生舎前集合。服装、乙武装』


 すっかり聞き慣れてしまった非常呼集の合図。考えるより先に体が動き出してしまうのは恐らく日和だけではない。


「遅い! 他の同期はもう舎前に出てるぞ!」


「脱いだ服適当にロッカーに入れてんじゃねぇ! 整頓して入れてこその物品愛護だろうが!」


 指導学生の怒号が飛び交い、後任期たちがあちこちを慌て駆け回る。導入開始の頃から変わっていない光景だ。


 だからなのか、その光景を眺める指導学生たちは不機嫌そうだった。なにも変わっていないということは、なにも成長していないということ。相変わらず後任期たちの動きには無駄が多く、ミスが目立つ。


「報告します! 第6区隊総員20名、事故無し現在員20名、集合終わり!」


「番号を数えさせんか! いい加減報告要領くらい覚えろ!」


 こういった小さなミスが重なり、貴重な時間はどんどん過ぎていく。合格基準である5分はとっくに過ぎており、指導学生たちの表情はますます険しくなっていく。


「8分35秒。導入初期から3分近くは早くなっているな…とでも言うと思ったか? 論外だ。お前たちの向上心の無さには呆れるばかりだ」


 指導学生長の川越が前に立ち、静かに怒る。


「導入開始からもう2週間が経とうとしているというのにこの様だ。なんでこんなにも成長できないのか、お前たち考えたことあるのか?」


 即座に「はい」と答える後任期たちだが、その答えは誰の口からも出てこなかった。毎日自習時間に各区隊で反省会を行い、どうすれば非常呼集訓練で基準をクリアすることができるかの話し合いは何度もしてきた。だが結果はこの通り、なにも変わっていなかった。


 正直なところ、なにがいけないのか彼等にも分からないでいた。結局のところ個人の動きをさらに速くしていくしかない。同期として、チームとして打つべき手は打ってきたはずだ。


「川越、代われ」


 なにも答えようとしない後任期たちに痺れを切らした教官が、川越を下がらせて前に立った。2区隊長小幡1尉、航学59期の現役の戦闘機パイロットだ。普段あまり口を開くことはなく、感情的ではなく静かに学生を指導するその姿から「氷の小幡」の異名を持つ。


「君たち71期のでき具合は目に余るものがある。この現状が君たちにとっての限界だと言うのであれば、導入期間延長についても真剣に検討しなければならない。そしてそれは同時に、今後予定されている全ての教育が遅れていくことを意味する」


言っている意味は分かるな? と小幡1尉は無言で後任期たちを睨んだ。


 導入教育期間が延長すれば、当然他の教育に影響が出る。だが学生に与えられた時間は有限で短く、その遅れを取り戻すことは容易ではない。


「はっきりと言おう。私が見る限り君たち71期生は、この先誰一人としてパイロットになることはできない」


 たとえ誰かが許そうとも、自分がそれを許さないとでも言っているような口振りだ。思わず後任期たちは身震いする。


「君たちに足りていないのは個々の能力でも団結力でもない。このままではマズイと思える「危機感」だ。自らが崖っぷちに立たされていることを自覚せず、次があるから大丈夫とか、時間が解決してくれるといった甘い考えでいると、すぐに崖から叩き落とされるぞ」


 彼の言葉に後任期の何人かは思い当たる部分があったかもしれない。明らかに無理な時間設定に理不尽とも思える指導の数々。それも導入期間を終えてしまえば楽になる。だから一ヶ月だけ耐えればいいと、そういう風に考えていたのは決して少数ではなかった。


「私からは以上だ。今後の君たちの動きに期待する」


 指揮権が小幡1尉から川越に戻り、再び非常呼集訓練が始まる。後任期たちはあっという間に舎前からいなくなり、隊舎の中から先任期たちの怒鳴り声が響き始めた。


「出過ぎた真似をしたかな」


 訓練の様子を見守る区隊長たち。その中に戻った小幡1尉は後任期区隊長たちに呟いた。


「とんでもないです。本来私達が動くべきところを、申し訳ありません」


 申し訳なさそうに戻ってきた小幡1尉を、後任期区隊長たちは頭を下げて迎える。


「あいつら、今ので変わりますかね?」


「どうかな。恐らくなにも変わらんだろうな」


 5区隊長森脇2尉の問いに小幡1尉は隊舎を見つめながら答える。


「こんな私の一言で変わるような奴だったら、とっくに気付いているはずなのだ。自分がいかに追い込まれた状況であるか。だが気付かん奴は最後まで気付かん。それこそ崖から突き落とされるまでな」


 そして崖から落とされた者には、もう二度と這い上がるチャンスはもらえない。ここはそういう世界だ。


 未だ成長の兆しが見えない71期、この中で何人が自らの状況に気付けるだろうか。それとも誰も気付けないだろうか。


 本日の訓練にこれ以上見る価値はないと小幡1尉は後任期区隊長らを残してその場を後にした。



 導入2週目もあっという間に終盤を迎える。訓練は日に日に厳しさを増し、後任期たちの体にも疲労が蓄積されていく。となれば同時に心にも余裕がなくなってくるのが人間というものだ。


「今日は散々だったな。午後の教練といい、その後の導入教育といい、全部集合時間に間に合ってない。これじゃ危機感が足りないって言われるのも仕方ないぜ」


 いつも通り行われる反省会。日和が所属する4区隊では奥村が仕切って話を進めるのが定例となっていた。


「でもさ、いくらなんでも時間設定が厳しすぎないか? 導入教育を終えてから風呂入ってここに集まるまで、今日は5分しかなかったぞ。5分だ。そんなの移動時間だけで過ぎちまう」


 同区隊の谷水が声を大にして言う。あまり先任期たちに聞かれてはマズイので、隣に座る学生がヒートアップした谷水をなだめに入った。


「落ち着けよ。今日は呼集訓練の出来が悪かったしさ、時間を貰えなかったのも俺たちの責任だと思って割りきろうぜ?」


「だとしても理不尽にも程があるだろ? こんな無茶苦茶な時間設定をされて、それを守れなかったら腕立てさせるのが教育なのかよ?」


 誰もが彼の言い分に同意する。が、そういう理不尽を含めてこその航学であり、自衛隊なのだ。皆それぞれ言いたいことはあるが、どんな理不尽でも黙って受け入れなければならないことも理解していた。


「現状を嘆いても仕方ないだろ。反省すべきところは反省して、次に生かしていかなきゃならない。例えば今日午後イチの集合についてだ。あれはなんで遅れたんだ?」


「…いつも以上に部屋が荒らされていたからだ。今日の台風はかなり気合いが入っていたな」


 奥村の言葉で谷水は冷静さを取り戻したようだった。


「だよな? てことは指導を受けないくらいに身辺整理を完璧にやれば昼休みに時間的余裕が生まれる。そうすれば集合時間に遅れることはないってわけだ」


「それができてりゃ苦労しないよ、奥村」


 今度は谷水とは別の学生が口を開いた。


「身辺整理、ベッドメイクに限った話じゃないけどさ、一週間やそこらで完璧なものを作れるようになるなんて無理に決まってんじゃん」


「そうだよ。誰も手抜きなんかしてない。全力でやってこの結果なんだよ」


「ホントかよ? 例えば中村、お前時々手抜きしてるよな。どうせ指導食らうんだからとか言ってよ」


「んだと!? そんなわけあるか!」


 段々と皆の口調が激しくなってくる。それぞれが思い思いのことを口にして最早収拾がつかない状態だ。この場を仕切っていた奥村でさえ数人の学生と口論を始め、誰もこの状態を止めようとはしない。


「だからさ、もっと互いをフォローし合ったほうがいいよ。出来ない部分は出来る人が助けてあげるとかさ」


 日和の隣では月音も他の学生と同じように誰かと口論になっていた。


(みんな、もう限界なんだな…)


 そんなことを思いながら日和は4区隊の様子を傍観者のように眺めていた。


 ほんの一週間前までは奥村を中心として皆団結し、頑張って導入教育を乗り越えようと意気込んでいたのに、すでに彼等に心の余裕はなく、それぞれが抱える不満をぶつけあっている状態だ。


 だがそんな中で日和はなにも発しようとしなかった。今自分にはなにができるかとか、どうしなければならないかといった難しいことを考える余裕が彼女にはなく、取り敢えず目の前のことを頑張るしかないと思っていた。


「もう嫌だよ…俺。こんなの耐えられないよ」


 喧騒の中、誰かが小さな声でそう呟いた。



 週も後半の木曜日の朝。散々と輝く太陽とは裏腹に後任期一同の表情は暗いものだった。連日の厳しい訓練に加え崩壊しつつある結束力、心身ともに疲労しきっているのが見てわかる。


 が、そんな表情をしていればまた指導を受けるので、後任期たちは自分に鞭を打って無理矢理元気を取り戻そうとしていた。


「なぁ、なんか一人足りなくねえか?」


 課業開始前の区隊朝礼の時間、朝礼場に集まった4区隊の学生は仲間が全員揃っていないことに気付く。


「ホントだ。木下がいないぞ。教場に集まるまではいたはずなのに…」


 区隊員が全員揃っていないと集合完了にはならない。もう朝礼までの時間は残されておらず、4区隊員たちは焦り出す。


「絶対一緒に行動していた奴がいるはずだろ? なんで気付かないんだよ!」


「急に居なくなるなんて誰も思わないだろ! すぐ人のせいにすんなよ!」


 心身共に疲れきっている為なのか、あっという間に冷静さを失って口論になる。中には月音のように止めに入ろうとする者もいるが、相変わらず日和は動こうとはせず傍観を決め込んでいた。


 するとそこへ区隊長と助教がやって来る。それに気付いた区隊当直はすぐに気を付けをかけた。


「報告します。4区隊総員21名、事故1名、現在員20名、事故内容…」


 集合完了報告をあげようとするが、木下がいないことをどう報告したらいいものか分からず、区隊当直の口は止まってしまう。まさか隊員の所在を把握していませんなんて報告できるはずもない。


「いや、報告はいい。全員揃っていないことは分かってる」


 4区隊長猪口3佐は報告しようとする当直を止め、全員に休めをかけた。


「木下のことだが、今朝自己免を申告してきた」


 区隊長の言葉に皆が驚きの表情を見せるなか、日和はほぼ無感情にそれを受け入れた。どちらかというと「やっぱりか」という気持ちだった。


 自己免とは自分から航空学生課程の履修を免ずることを申告することで、要は自分から「辞めます」と言い出すことを指す。


 自衛隊生活では今までの生活と異なる部分が多く、それに慣れずに自分から辞めていく者は少なくない。航空学生課程においても例外ではなく、その厳しさに耐えきれず毎年数人が辞めていくのだという。


「だが勘違いするな。まだ辞めると決まったわけじゃない。木下がこのまま続けるか辞めるかは、今後本人の家族も含めて慎重に話し合う予定だ。その結論が出ない限り木下はお前たちの仲間なんだから、いつ戻ってきてもいいように全力で課業に臨んで区隊を守れ。いいな?」


 猪口3佐はそれ以上は語らなかった。突然の出来事に4区隊の一同は狼狽えるが、区隊長の言うとおり、今は自分たちがやるべきことを全力でこなすしかない。たとえ同期が欠けてしまってもそれは変わらない。


(私なら、なにか相談できたのかな…)


 日和は先日の区隊反省会のことを思い出す。皆が侃々諤々けんけんがくがくと議論をする中、ひっそりと「耐えきれない」と弱音を吐いたのは、きっと木下だったのだろう。そしてそのことに気付けていたのは、一人同期を眺めるだけだった日和しかいなかったはずだ。


 仲間から脱落者を出したことは区隊の、もっと言えば71期の汚点である。これだけの人数がいながら誰一人仲間の様子がおかしいことに気付けず、助けてあげることができなかった。普段から仲間同士団結しろと散々言われているにも関わらず、である。


 しかし一体今の自分になにができたのだろうと日和は思う。


 自分のことだけでも一杯一杯なのに、その上彼を助けることなんて果たしてできたのか。辞めたいと思っている彼に「辞めるな、頑張れ」とでも言えば良かったのか。


 割りきるしかない、と日和はやけに落ち着いた気分だった。木下は運がなかったのだ。心が折れそうになっていることに同期に気付いてもらえなかったこと。そして唯一気付いていたのが、なんとも頼りないこの自分しかいなかったこと。


 きっと他の誰かが、例えば月音が彼の不調に気付いていたなら、もしかしたら別の結果があったかもしれない。だがそうはならなかった。ただそれだけのこと。


「相談もしてくれなかったんだね。私達って、そんなに頼りなかったんだね…」


 隣で悔しそうにうつむく月音に、日和はなにも言えなかった。今は自分がやるべきことを一生懸命やるしかない。そう自分に言い聞かせることで精一杯だった。



 翌日、木下は正式に航空学生課程を免ぜられて防府北基地を去っていった。


 入隊式前に辞めていった田山に続いて二人目の脱落者。当初63名いた71期航空学生はこれで残り61名となった。

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