引率外出

 教育開始から2週目の土曜日、この日後任期学生たちは区隊長と助教の引率の下で、着隊以来初の外出を行う。


 引率外出と呼ばれるこの行事は、まだ防府の地にやって来て右も左も分からない学生たちに、駅や郵便局といった公共施設の場所や、外出する際の注意点などについて教育することが目的として行われるが、実際のところは区隊の親睦を深めることと息抜きがメインだ。


「よいしょっ!」


 基地の正門、自衛隊と外部の境目となっているラインを月音がわざとらしく飛び越えた。


「見て見て! 私は今、外の世界に飛び出したんだよ!」


 外出するということで久しぶりに袖を通した私服。少し短めのスカートをヒラヒラと揺らしながら月音は嬉しそうに跳ね回った。


「こらこら、外に出たって自衛官であることに変わりはないんだ。あまり調子に乗りすぎるなよ」


 助教の青木2曹が注意するも、浮かれているのは月音だけではなく、皆々外に出た喜びから歓声をあげていた。


「っしゃあぁぁ! シャバに出たぞぉ!」


「お勤めご苦労様でしたぁ!」


 まるで刑務所から出て来たかのような喜びようを見て日和は思わず笑ってしまう。振り向けば他の区隊の同期たちも同じようにはしゃいでいた。


「ぷはぁぁ! やっぱり外の空気は一味違うねぇ!」


 まるで酒でも飲んでいるかのように空気を味わう夏希。空気なんて基地の中も外も変わるわけないのだが、そこは気分の問題だ。


「ほらほら陣内さん! この辺の空気は味がついていますよ!」


「なにっ!? おおっ、ホントだ! ここの空気は甘くて美味しいぞぉ!」


 二人して深呼吸する夏希と春香。まるで散歩に連れていく時の犬みたいな喜びようだ。


「ほらほら、馬鹿なことしてないで行くわよ。桜庭学生は5区隊だから向こうでしょ」


 辺りを駆け回る夏希を、やって来た冬奈が襟首を掴んで引っ張って行った。どうやら6区隊はもう防府市内に向けて出発するようだった。


「犬みたい…」


「秋葉か。5区隊はまだ出発しないの?」


 他の同期とは少し離れたところで皆の様子を眺めていた日和だったが、いつの間にか隣に秋葉が立っていた。彼女の性格上、夏希や春香のように感情を表に出して皆の輪の中に入って行くのは難しかったのだろう。


「私達はバスで移動するから、もう少しここで待ってる…」


 防府北基地周辺にあるのは畑や住宅がほとんどで、大きな店や施設などは存在しない。自衛官が外出して買い物をしようと思えば、一度防府駅周辺まで出ていく必要がある。


 今回の場合5区隊は路線バスを利用しての移動、6区隊はマイクロバスをレンタルしてきて、助教の田村3曹の運転で移動している。そして4区隊はというと、徒歩だ。


「私達も車で移動したかったな。ここから駅まで、けっこうあるみたいだし」


「自由に動ける分、気が楽だと思うよ。バスは時間が決まってるし…」


 他の移動手段と言えばタクシーがある。防府の街には自衛隊お得意のタクシー会社があり、他の会社と比べて格安で乗せていってもらえる。自転車や私有車という手段ももちろんあるが、航空学生についてはどちらも保有することが禁止されているため、普段の外出で主な移動手段となるのはタクシーの利用になるだろう。


 先に出発する6区隊のバスを他の同期たちが手を振って見送る。中には走って追いかけるものもいるが、すぐに引き離されて皆の笑いを誘っていた。


「みんな、元気だね」


 楽しそうに笑う同期を眺めて日和は言う。


「作ってるだけ…」


「え?」


 予想しない返事に、日和は秋葉に顔を向けた。


「昨日同期が一人居なくなって、ホントはみんな動揺しているはずなのに、そういう気持ちに蓋をして「気持ちを切り替えなくちゃ」って言い聞かせてるだけ。ああやって無理矢理笑っていないと、壊れちゃう気がしちゃうんだよ」


「秋葉…」


 普段あまり喋らない秋葉が、今日はよく口が動く。だからなのか、彼女の言葉がいつになく重たいものであるように日和は感じた。


「日和はどう? 自分の気持ちに整理はついてるる?」


「私…私は…」


 答える間もなくバスがやって来る。バス停で待つ5区隊助教が区隊員を呼び、秋葉もそれに応じて駆け出した。


「私は、分からないよ…秋葉」


 ようやく絞り出した答えは結局「分からない」だった。自分がどういう気持ちで、なにをしたらいいのか、日和は自分自身のことがなにも理解できていなかった。


「おーい日和ちゃん! うちも出発するよー」


 5区隊を乗せたバスが出発し、それを見送った月音が日和を呼んだ。


 今日は引率外出、多くの学生にとって楽しい一日になるはずだ。




 防府北基地を出てしばらく歩いた4区隊だが、それでわかったのは基地の周りにはなにもないということだけだった。


 5分程歩いて見えてきたのは区隊長らが暮らしている自衛隊の官舎と、航空教育隊が所在する防府南基地。そしてもう少し先に自衛官がよく使うという焼肉屋「カルビ市場」。


 航空学生課程では区隊対抗の競技会が多く設定されており、そこで勝利した区隊のみが外出を許可されて外の焼肉屋などで祝勝会を開く。この「カルビ市場」も祝勝会がよく開かれる店のひとつだ。


 その他には小さなスーパーマーケットや居酒屋が点々とあるくらいで、目立ったものはなにもない。飛行場を持っているという基地の特性上、周辺には大きな建物は建てることができないので、航空自衛隊の基地はそのほとんどが基地周辺になにもないということが普通だ。例外としては市ヶ谷や春日などが街中に存在しているが、いずれも滑走路を持たない基地だ。


 基地を出て約1時間程歩けば防府駅までやってくる。ここまで来たらいろいろな店があるので、買い物するのには困らないだろう。


 駅前のショッピングセンターには映画館も入っているし、周辺にはいくつかのネットカフェもある。少し離れた場所にあるショッピングモールまでは無料のバスが出ているし、カラオケ屋だってある。決して都会とは言えないが、休日に羽を伸ばすのには十分だろう。


 街中を歩きながら、ここにはどんな店があるとか、交番や郵便局の場所などを助教が教えていく。今日はあくまで区隊長らの引率による外出なので自由行動はなしだ。


「電車やバスを使えば防府から出て遊びに行くこともできるが、その際には行動計画書といった書類を提出してもらうからな。まあ慣れないうちは防府市内で遊んでいるほうが無難かな」


 防府から出たところであまり変わらないけど、と付け加えて青木2曹は笑う。彼はそう言うが、山口出身の月音からしたら土日で実家に帰ることもできるので、防府から出る意味は大きい。


 1時間程説明を受けつつ歩く日和たちが訪れたのはスーパー銭湯だった。普段まともに入浴することも出来ない後任期たちのために、今日くらいは体を休ませてあげようという区隊長の提案である。今日はここでゆっくり疲れをとり、その後焼肉屋で区隊の団結会をして基地に戻る予定だ。


「特に集合時間を設けるつもりはない。男どもはさっさと上がってくるかもしれんが、気にする必要はないからな。心ゆくまで湯に浸かるといい」


 男湯と女湯に別れる時、区隊長はそう日和たちに告げた。男性とは違い、色々と体の手入れをする必要がある彼女たちへの配慮だ。本当ならば毎日しっかりと風呂くらい入らせてあげたいというのが区隊長を始めとする、基幹隊員たちの考えなのだが、そういう厳しい時間設定を乗り越えてこその航空学生生活である。それは導入期間中であろうとなかろうと変わらないし、そこに男女の差も存在しない。


「はぁぁ…風呂は命の洗濯とはよく言ったものだよねぇ」


 湯船に浸かりながらそんな声を漏らす月音。こういった大きい浴槽は基地の浴場にもあるが、外出して入る風呂となると気分的に違うものがある。買い物や遊びに外出するのもいいが、たまにはこうして銭湯などで体を癒すのも悪くないだろうなと日和は思う。


「導入期間が終わったら自由に外出できるようになるだろうし、その時はまた一緒に温泉とか行こうよ」


「おっ、いいね! 私お風呂入るの好きだから色々な温泉知ってるんだ」


 日和の提案に月音は嬉しそうに足をばたつかせた。


 基地の近くにはこのスーパー銭湯くらいしかないが、山口県内にはあまり有名ではないものの数々の温泉がある。例えば隣の山口市には岩盤浴も楽しめるような入浴施設があるし、県北部に行けば川沿いや海沿いなど、視覚的にも楽しめる温泉がいくつもある。その足で各地の観光名所を巡るのも一つの楽しみかたかもしれない。


 少しすると他の利用客が二人のいる浴槽に浸かり始めた。日中と言えど今日は休日、銭湯を利用する者は日和たち以外にもそこそこいる。


「ね、日和ちゃん。ちょっと露天風呂のほうに行こうよ」


 月音が指差す外の浴槽にはまだ誰も利用している人がいなかった。日和もちょうど外の風に当たりたいところだったので、二人は揃って屋外に出る。


 4月の風はまだ少しだけ冷たさを持っていたが、日差しのほうはすっかり春の訪れを告げていた。5月、6月になれば夏はもう目の前。今以上に沢山汗をかき、洗濯物が増えることは容易に想像がつく。その頃にはせめて洗濯や入浴がまともにできるくらいには余裕を持った生活を送れるようになりたいなと日和は思う。


「最近さ…」


 湯船に半身だけ浸かりながら月音が話し始め、日和は彼女の隣に座った。


「何て言うか、みんな心に余裕が無くなってきたように思わない?」


「まぁ…そうだね」


 日和は月音よりも深く座り、肩まで湯に浸かる。


「最初はみんな協力しあって動いていたのにさ、一週間経っただけで急に自分のことしか見えなくなって…」


「仕方ないよ。自分のことだけでも精一杯なんだから」


 仕方ないなんて諦めの言葉が出てくるとは日和も思わなかった。


「誰かを助けてあげられる程余裕があるわけじゃない。結局、それぞれが自分のやるべきことを一生懸命こなしていくしか方法はないんじゃないかな」


「…だから木下くんは誰にも頼れなかったんだよ」


 話題にしたくなかった名前が出てきて日和の表情は険しくなる。


「みんな表面上は元気そうだけど、ホントは怖くて仕方ないはずなんだ。木下くんみたいに、次は自分の心が折れちゃうんじゃないか。そうなった時、同期は誰も自分のことを助けてくれないんじゃないかって」


 木下の脱落は学生たちにとって決して他人事ではない。厳しい訓練が毎日続く中、それに耐えきれずに「辞めたい」と思ってしまう可能性は誰もが持っている。


 今回の木下の脱落は、そういった恐怖心を71期学生に植え付けるには十分だった。


「多分、このままだと何人も辞めていっちゃうよ。木下くんが居なくなった今だからこそ、もっとみんなで協力し合わないといけないと思うんだ」


「それは、私だってそう思うけど…」


 そこまで言って日和の脳裏に沢村の言葉が浮かんだ。


「そんなの、綺麗事だよ。皆が皆同じ考えをしてるわけじゃない。私が誰かに助けられるのも、誰かを助けるのも、決して同期の為なんかじゃない。ただ、友達感覚で仲良くしたいからで、嫌われたくないだけで…」


 まるで吐き出すように、沢村に言われた言葉がするすると口から出てくる。だがそれは日和の心の奥底にある本当の気持ちなのかもしれなかった。


「私は、月音みたいに真っ直ぐな人間じゃないんだよ。ここでの生活をどこか学校生活の延長みたいに思ってて、団結の意味とか、そういうことを真剣に考えているわけじゃなくて…」


 うつむき、そのまま湯船に沈んでしまいそうな調子で日和は言う。すると月音は日和の前に周り、優しく彼女の手をとった。


「なんで? それでいいんじゃない?」


「え?」


 思いもしなかった反応に日和は目を丸くする。


「私はそんな難しいこと考えてないし、誰だってそうだよ。皆と仲良くしたいのも、困っている人を助けることも、全部自分にとって都合がいいからやってるんだよ」


「で、でもそんなの自分勝手だよ。うわべだけみんな仲良くなって、それで自分は満足なのかもしれないけど…」


「自分勝手でいいじゃん。みんな自分勝手に動いているんだからさ」


 日和の表情とは対照的に月音は笑ってみせる。


「区隊長とかが言う団結なんてさ、一週間やそこらで出来上がるものじゃないんだよ。その域まで達するには、私達が出会ってからの時間はあまりに短すぎるんだ。今の私達に必要なのは、うわべだけでも何でもいいから取り敢えず協力し合うことだよ。本当の意味での団結とかは、今を乗り越えた後にゆっくり考えればいいと思うよ」


「あ、ああぁ…」


 強張っていた日和の手が、徐々に月音の手の中で柔らかくなっていく。


「日和ちゃんは皆で協力し合えたらって思っているんだよね? 私も同じ。お互い自分の気持ちに正直にいこうよ。誰に何を言われたって、私達の気持ちは同じなんだからさ」


 月音の笑顔に日和は溶かされるような気分だった。今まで自分は物事を難しく考えすぎていたのかもしれない。目の前のことに一生懸命になると言っておきながら、自分が一番目の前が見えなくなっていた。月音はそんな彼女を一度立ち止まらせ、見えなくなっていた視野を開けてくれたのだ。


(馬鹿だなぁ、私)


 今まで他人に言われたままに生きてきたからこそ、自分の気持ちに正直になるということが出来なかった日和。対して何時でも自分の思った通りに動く月音が日和のパートナーだったことは、彼女にとって大きな幸運だったに違いない。


「ありがとう、月音」


何が? と言うように月音は首を傾げるが、それ以上はお互いなにも言わなかった。




 銭湯で心身を休めた4区隊員たちはその後焼肉屋で団結会を行い、基地へと向かう。いつの間にか陽は落ち、辺りは暗くなっていた。


 日和たちが基地の正門に到着した頃、丁度同じ時間に他の後任期区隊が戻ってきた。どこの区隊もほぼ同じタイムスケジュールで動いていたようだ。どこの区隊も十分外出を楽しんできたようで、誰も彼も晴れ晴れとした表情をしていた。


「あっ」


「おっ?」


 これから基地に入ろうという時、日和は沢村と鉢合わせる。


「なんだよ…」


 不機嫌そうに日和を睨む沢村。だが無視して立ち去る様子もなかった。それほどまでに何か言いたげな顔をしていただろうかと、日和は自分自身に苦笑する。


「なにもないなら俺は行くぜ。じゃあ…」


「わ、私!」


 まだ頭の整理がつかないまま日和は沢村を呼び止め、強く彼の目を見た。


「私、もう逃げないから」


「はぁ?」


 何を言ってるんだとばかりに沢村は呆れた声を出す。が、日和はそれだけ言い残すと早々と基地の正門をくぐった。


「おい、坂井!」


 今度は沢村が呼び止めるが、日和は振り返らずに歩き続ける。これ以上はなにも話すことはないといった、そんな力強い歩みだった。


 今はこれでいい。これだけでいい。自分が満足ならそれでいい。


 日和は真っ直ぐ隊舎へ向かって歩く。戻ったら身辺整理をして、その後すぐに点呼だ。学生たち楽しいの休日は今日もこうして過ぎていく。

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