先輩のいない一週間 後編

 先任期学生が休暇に入ると同時に、区隊長ら学生隊の面々も多くが休暇に入り、一週間ほど静かな時間が過ぎていった。


 いつもならすぐに眠らなければならない消灯後だが、ついつい夜更かししたくなるのが若者というもの。学生たちはこっそり懐中電灯などで灯りを確保しつつ、携帯を使ったり本を読んだりと各々の時間を過ごしていた。


「当直幹部はもう寝たみたいだよ。今、奥村くんから連絡がきた」


 携帯を片手に言う月音。その日後任期女子6人は全員日和の部屋に集まって7区隊会を開いていた。


「今日の当直幹部って群本の北島1尉か。怖い顔して、案外ちょろい人だったんだねー」


「そうやって油断してるといつか痛い目見るわよ、陣内学生。あの手の幹部は予想もしないところでいきなり怒りだすんだから」


 学生が勤める区隊、期、学生隊当直と違い、航学群当直は基幹隊員の幹部が勤める。つまり課業時間外における唯一の監視役というわけだ。


 しかしその当直幹部も人間なので、厳しい人もいればそうでない人(学生隊所属の幹部は厳しく、教育隊所属の幹部は優しいという傾向にある)もいる。学生たちは日々の生活の中でどの幹部がどんな人物なのか見極め、どれだけ手を抜けるかの判断材料にしているのだ。


「でも携帯自己管理にしてくれるくらいの人ですよ? 見回りもなかったですし、これからも期待できるかもしれないですね」


「群本部の人って普段関わりが少ないからなぁ。奥村くんは、わりと細かい部分で厳しい一面があるから注意しとけって言ってたけど」


 学生たちは携帯電話を使用できる時間が限られており、平日であれば自習時間が終わってから消灯までの約30分程しか携帯を手にすることはできない。それ以外の時は、課業時間中は学生隊に、課業時間外は当直幹部のいる当直室に携帯を提出している。


 が、時々「連絡手段の確保」とか「充電をさせる為」などの諸々の理由をつけて、消灯後にも携帯の保持を許可してくれる当直幹部がおり、その状態を「携帯の自己管理」と呼んでいる。このお達しが出た時は実質「消灯後起きていてもお咎めなし」と言われているようなもので、普段は消灯と同時に床につく学生たちも、この時ばかりはそれぞれの時間を自由に過ごすというわけだ。


「ま、あたしたちには先輩という存在があるから、当直幹部が誰であろうと、気を抜けないことには変わらないわけだけどね」


 そう言いながら夏希はスナック菓子の袋を一つ開けて6人の輪の中心に置いた。まだまだ寝かせるつもりはないようだ。


「こんなことしてて、ホントにいいのかなぁ」


 ふと日和が残り少なくなった缶ジュースを口にしながら呟く。


「どったの、ひよちゃん?」


「いや、本来なら今の時間って寝てなければいけないわけじゃない? なのに当直幹部や先輩たちがいないことを良しとして、こんなことしちゃってて…」


 日和としては本来はこんなこと言いたくなかった。同期たちは楽しそうに今の時間を過ごしているし、それによって団結も図られている。自分の言葉には、それを壊してしまう恐れがあった。


「んん、ひよちゃんの言うことはもっともだけど…」


「確かに、悪いことしてるって自覚はあるんですよねぇ」


 が、思いの外日和の言葉に気を悪くする者はここにはいなかった。それどころか彼女の言葉を真摯に受け止め、真剣に考えてくれている。


 ああ、これは彼女の長所だな、と月音は同期たちを見ながら思う。疑問に思ったこと、おかしいと思ったことがあれば立ち止まり、考えてみる。周りもやっているから、と流されることはなく、自分の言動に責任を持つ。見方によっては「ノリの悪い奴」のなってしまうのだろうが、集団において彼女のようなストッパー的存在は必要だ。


「なんか、普段一生懸命に私達の指導をしてくれてる先輩たちに申し訳ないっていうか、裏切ってるような気分になるんだ。先輩たちがいない今だからこそ、もっと気を引き締めるべきなんじゃないかなって」


(やっぱり、日和ちゃんが気になっている部分はそこかぁ)


 月音は残っているジュースを飲み干し、もう一本新たに缶を開けた。


「いや、あたしたちも別に先輩たちのこと尊敬してないわけじゃないんだ。でも、なんていうのかな…」


「…こういう時間も大切?」


 言葉に悩んでいる夏希に秋葉が助け船を出した。


「そうそれ。あきちゃん良いこと言う。あたしとしては、こうやってみんなで協力しあって楽しむ時間も必要だと思うんだ。勿論、悪いことしてるってのは知っててね」


「うん。私もそれは分かってるんだけど…」


 どうにも日和は納得いかないようだ。説得した夏希としても、なんと言っていいか分からないでいる。それを見かねて今度は冬奈が口を開いた。


「例えばだけど、私が当直幹部だったなら「やるならバレないようにやれ」って言うわね」


「え、それって悪いことを見て見ぬふりをするってことですか?」


 まあね、と冬奈は軽くうなずいた。


「これだけ厳しい生活を律儀に毎日繰り返していたら、いつか糸が切れたみたいに倒れてしまう人が出てくる。だから適度な息抜きが必要なんだけど、当直幹部としての立場上、おおっぴらに「ルールを破れ」なんて言えないじゃない? というわけで、ちょっと監視の目を緩めてあげて、あとは学生の自己責任で息抜きをしてもらうわけ」


 これは学生と基幹隊員における暗黙の了解だ。学生は当直幹部の意図をくみ取り、目につかない部分で手を抜く。今日のように携帯自己管理と告げるのは「今日は気を抜いて休め」と言っているのと同義であり、学生としてはこの好意を無駄にしてはならない。


「ま、そういうこと。だから今日みたいな時は坂井学生が罪悪感を抱く必要はないと思うわよ」


「うん、そっか、そうなんだね…そうだよね」


 自分に言い聞かせるように何度も頷く日和。頭では理解しているが、心の底ではなにかが引っ掛かっているといった様子で、携帯の灯りによって僅かに照らされた彼女の浮かない表情に、月音はすぐに気が付いた。


「そうじゃないよね。日和ちゃん、認めたくないだけだよね」


「え?」


「先輩たちがここを留守にして、そのことを私達と一緒になって喜んじゃうこと。それを許してしまうと「先輩なんていない方が楽しい」とか考えてしまいそう…とか、そんなところかな?」


 月音の言葉に日和はなにも返さなかったが、否定する様子もなかった。


 他の同期以上に先任期のことを慕っていた日和。彼女にとって先任期の不在を喜ぶ行為は、それまでの自分が抱いていた気持ちを否定するのと同じことだ。先輩と過ごす時間は窮屈でもなんでもなく、むしろ楽しいとさえ思えてしまう程の対番関係が、表面上だけの薄っぺらいものだったのではないかと、日和は不安を感じていた。


 馬鹿だなぁ、と月音は呆れたように笑う。


「それとこれとは別の話なんだよ。日和ちゃんが先輩と過ごす時間が楽しかったっていう気持ちに嘘はないし、それと同じくらいこういう私達だけの時間も好きだって、ただそれだけの話。先輩が留守になったのを喜んだところで、それが直接「先輩が邪魔だ」という意味にはならないんだよ」


 まるで霧が晴れたような目をする日和。その反応を見て月音は安心して話を続ける。


「だからさ、無理に自分の気持ちを押さえちゃう必要なんてないんだ。それとも日和ちゃんは私達と過ごすこの時間、楽しくなかった?」


「そ、そんなことない!」


 即答する日和。


「すごく、すごく楽しいよ。ずっとこの時間が続けばいいのになって、そう思う」


 その返事を受けて、月音だけでなく全員が笑った。結局、この6人の気持ちは初めから皆同じだったのだ。


「なら、それでいいんだよ」


 月音の音頭で乾杯を交わす一同。後任期だけによる小さな宴は、まだまだ続きそうだった。





 楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、いつの間にか大型連休の最終日を迎えていた。その日は朝から隊舎の清掃などが行われ、先任期が帰ってきても指導を受けることのないよう準備していた。


「おーい、先輩が一人戻って来たってよ」


「はあ? まだ午前中だぞ。一体誰だよ?」


「田中先輩」


「げぇ、俺のところじゃん! 帰ってくんの早すぎるよ!」


 一人でも先輩が戻ればもう好き勝手はできない。短い天下だったと多くの後任期が嘆くが、先輩の帰りを心底嫌がっている者は誰もいなかった。


「いやぁ、今日でGWもおしまいかぁ。今度は夏休暇まで頑張らなきゃだね」


 自室で靴を磨きながら月音が言う。今日の夜には清掃状況や身辺整理の状況について先任期による点検が行われる。当然靴や制服などの官品の手入れも完璧でなければならない。


「案外みんな守るべきラインはしっかり守って過ごしてたね。初日みたいなテンションがずっと続いたらどうなるんだろうって心配だったけど」


 日和は制服のアイロンがけを終え、新たにしわをつけないよう気をつけながらロッカーへとしまった。


 この一週間、先任期や主要基幹隊員などの監視役が不在の中、隊舎での規律や風紀は一気に乱れることかと思われていたが、思いの外後任期たちの自制心が働いたことで無秩序状態となることはなかった。


 誰に点検を受けるわけでもなくても、身辺整理や清掃、ロッカーの施錠や身だしなみ等、適当にすませてしまう学生などおらず、多少手を抜く部分があっても、それが目に余るものだったら同期同士で注意しあうなど、最低限の規律を守って一週間を過ごすことができた。これはなかなかすごいことだ。


 この一ヶ月で航学での生活習慣を叩き込まれ、すっかり体に染み付いているからという理由もあるが、それでも後任期全員がこれだけ自制心が働かせることができたのは、やはり学生としての自覚が芽生えたからだろう。たとえ見られていなくてもやるべきことはやる。そのプライドにも近いものが彼らを航空学生たらしめるのだ。


(つまり私達はもう学生として一人前ってこと? いやいやそれは自惚れか)


 自分も靴を磨こうと、日和は靴墨と布を取り出した。と、ちょうどその時だった。


「お疲れさーん。今帰ったでー」


「ただいま」


「あ、お疲れ様…です?」


 休暇を終えた巴と、なぜか秋葉の対番である瀬川が居室に戻ってきた。割と軽装である巴とは逆に、瀬川の両手には大きな紙袋が引っさげられており、ニコニコしながら日和たちにお土産を配って回った。きっとその紙袋にはWAF全員分のお土産が入っているのだろう。


「ちょうど防府駅で巴と会ってなー。あんまり早う帰ると後輩に嫌われるでって言うたんやけど、巴がすぐ基地に戻りたいって言うから」


「明日からの準備とか色々しておきたかったのよ。ほら、これ二人で食べて」


そう言って巴はお土産のお菓子を日和に渡した。


「帰ってくるのが早すぎで悪かったわね。もっと羽を伸ばしたかったでしょ?」


「いえいえ! そんなことないですよ。先輩が帰ってきてくれて嬉しいです」


 慌てて否定する日和を見て、無理しなくてもいいのにと巴は笑う。


「私と瀬川は一回学生隊に行ってくるわ。区隊長たちにも挨拶しないといけないからね」


「ほな、またなー」


 軽く荷物を片付けて、巴は瀬川を連れて再び部屋を出る。学生隊に行く前に彼女の大荷物をなんとかしないといけないな、と巴は瀬川が持つ紙袋を一つ持ってあげる。


「後任期たちはこの一週間楽しめたみたいやねぇ」


「そうね。日和にとっても、ちょうどいい気分転換になったみたいで良かったわ。」


 休暇に入る前、巴は日和が先輩に依存しすぎているのではないかと心配だった。それ自体は別に悪いことではないが、先輩なんてものは本来憎まれて当然の存在である。


 先輩が不在となれば後輩たちは無条件でそれを喜ぶのが普通というもの。その中で日和のように先輩を強く慕っている者は、もしかしたら同期との間に溝を作ってしまうのではないかという不安が巴にはあった。


 しかし休暇から帰ってきて、清々しい表情で自分を出迎えた後輩を見て、その不安も払拭される。これがもし飼い主の帰りを待っていた犬のような反応をしたらどうしようかと思っていたところである。


「そんな心配せんでもええやないの。先輩のことを慕ってくれるなんて、可愛いらしい後輩やないか。うちとこの秋葉なんて「うわ、帰ってきた」っていうような、あからさまに嫌な顔してくるよ?」


「それくらいがちょうどいいのよ」


 少しくらい憎んでくれてもいいのにと巴は思うが、厳しくすれば厳しくするほど、日和はそれを先輩の優しさとして受け止める。できる後輩を持つと苦労するな、と巴は複雑な気持ちだった。



 明日からまた訓練の日々が始まる。休暇気分はこれまでだと、巴は改めて気を引き締めた。

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