航学日和

ラスカル

序章

少女は初めて空を見上げた

 山口県防府市にある航空自衛隊防府北基地。ここは未来の航空自衛隊を担うパイロットたちを養成する場所であり、航空自衛隊に所属するパイロットのほとんどがここで航空機操縦の基礎を学んで巣だって行く。その中でも入隊当初からパイロットになることが約束された、いわばパイロット養成の専門コースへと進んだ者たちは、他の航空自衛官とは違い、自衛隊の基礎からパイロットになるまでの全てをここで学ぶ。航空学生と呼ばれる彼らは、全員がこの防府北基地に集い、日々厳しい訓練を乗り越えていく。彼らにとってここは故郷のような所だ。


 その日も飛行訓練が行われていたのだろう、Tー7初等練習機が戦闘機とはまた違ったエンジン音を出しながら静かに離陸していった。


 一人の少女、坂井日和さかいひよりは頭上を越えていくTー7を車の中から窓越しに眺めていた。3月も終わりに近付き、暖かい春の日差しが目に眩しかった。


「もうすぐ着くよ。いよいよだね」


 運転席から声をかけられ、日和はどこか上の空のような返事をした。ここまできてなお、まだ実感が湧かないのだ。将来自分があの飛行機に乗ることになるのだという実感が。



 夢。それは若者の原動力である。小さかろうが大きかろうが、若者はその夢を目指して日々努力を重ねる。否、努力することができるのである。


 早い話が、日和にはこれといった夢が無かった。幼い頃から普通に勉強し、普通に青春を送ってきた彼女には、具体的な未来の自分の姿というのが想像できなかった。きっとこれからも普通に、無難に、言い方を変えれば面白みのない人生を送るのだろう、と日和は考えていた。そしてそれは彼女にとって耐え難いもので、そんな未来の自分を思うと、ただ漠然と、生きるために生きている姿を想像すると、なんとも言えない底知れぬ寒気に襲われた。


 普通の者が彼女の気持ちを知れば、なんと贅沢な悩みだと憤るだろう。様々な人々が生きているこの世界で所謂成功者と呼ばれる者はほんの一握りで、多くの人が挫折や失敗を繰り返し、まともに生きることもままならない中、普通に人生を送ることのなんと難しく尊いことか。そういう意味では日和は非常に恵まれていると言えた。


 日和がこんなことを考えるようになったのは高校受験が始まる頃である。彼女の両親は共に教師であると共に熱心な教育者であり、幼い頃から日和は両親に言われた通りの学校に通い、塾や習い事をしてきたわけだが、学校で進路希望調査があったのをきっかけに、言われた通りに生きることに疑問を持ち始めたのだ。


 今思えば、それまで反抗期らしいものがなかったことの反動みたいなものだったかもしれない。高校受験の受験校を決める三者面談では必ず日和は親の薦める高校とは別の高校を志望し、毎回のように大荒れとなった。結局、高校以降の進路は好きに選んでも構わないからという条件付きで、親の選んだ進学校を受験することとなったが。


 地元でも有名な進学校に入っておきながら就職を希望したのはその為である。大学に行く理由がない。学びたいことが無いのに大学に行くのは金と時間の無駄だと、それならばいち早く働いて社会に貢献しようと、日和は就職の道を選んだ。高校入学から僅か一年経った時のことである。


 当然ながら家族には反対された。担任も、友人さえも反対した。能力もあるのにその若さで将来を決めてしまうのはもったいない。大学とは夢を探しに行く場所でもあるのだから、取り敢えず進学しろ、と。だが日和にはその「取り敢えず」というのが我慢できなかった。今まで全てを「取り敢えず」で済ませてきた結果、こうした夢の無い、つまらない人間になったのではなかったか。


 父親と話さなくなったのもこの頃だった。それが日和への、娘への諦めだったのか呆れだったのかは今の日和には分からなかった。しかし母親だけは頑なに説得を続けた。なにがなんでも進学の道を選んでもらう、と度々日和と衝突した。その熱意に圧倒され、徐々に日和は就職の道を諦めようかとも考えていたくらいだ。そんな高校二年生の夏頃のことだった。


 その日の朝もいつもと同じように母親と口論となっていた。母親は学歴の有無が今後の人生においていかに重要なものなのかを延々と説き、日和はそんな母の言葉を半分聞き流しながら登校する準備をしていた。


「…私の子が高卒だなんて」


 思わず母の口から溢れたその言葉を、日和は決して聞き逃さなかった。きっと心からの言葉ではなかったのだろう。しかしエリートコースを進んできた夫の存在や、高校の教師という自ら立場から、それなりのプライドもあったのだろう。自分の娘が学歴を持たないというのが許せないという想いが、娘の人生よりも自分のプライドを優先させてしまったのだ。


 瞬間、日和の中でなにかが切れた。母への怒りからか、それともしがらみから抜け出したいという想いからか、途端に登校する準備をやめ、制服のままなにも持たずに家を飛び出した。行くあてもなにも持たない一人の少女が、そう長い間行方をくらますことなどできるわけもなく、その日の夜には警察に補導されて家に戻ることとなったのだが、この日を境に母は進路のことで日和になにも言わなくなった。


 とにもかくにも、日和は就職への道を進み出す。幸い頭が悪いわけではなく、就職に必要な勉強には苦労しなかった。というより、始めて自分がやりたいと思った勉強だったので、いつも以上に真面目に取り組めた。このまま彼女は市役所の役員なり県庁の役員なり、将来の約束された公務員になるのだと誰もが思った。


「公務員試験にも色々ある。国家公務員に地方公務員…でも受験日はそれぞれ違うから、どれか一本に絞ることはない。滑り止めとして色々受けてみるといい」


 高校3年生になってからすぐにあった担任との面談で、日和は様々な資料を元に説明を受けた。そこでも担任は日和に進学を薦めることを諦めず、同じ公務員でも高卒と大卒では生涯年収が大きく違うことや、早期に社会へ出たことの差は一瞬で埋められてしまうことなど、様々な材料で日和を説得した。勿論担任なりの価値観で日和のことを思っての言葉だったが、散々親に説得され続けていた彼女にとってその言葉は全くと言っていいほど心に響いてこなかった。


 とは言え、日和としても就職先をどこにするか具体的なビジョンは見えていなかった。なにしろ知識がない。役場の職員をとってみてもどんな仕事をしているのか想像もつかない。実際にあちこちの知り合いや職場に足を運んではみたものの、いまいち心に響くものがなかった。


 やりたいことがないからか、と日和は自己嫌悪する。これといった夢を持たない彼女は言わば小学生のように純粋な心の持ち主で、どんな仕事内容なのか分かりにくい職業はどうしても魅力的には映らなかった。そんな彼女を自衛隊は見逃さなかった。


 自衛隊には部外、つまり一般市民に広く自衛隊のことを知ってもらうための総合窓口として地方協力本部、通称「地本ちほん」と呼ばれる機関がある。地本は日本全国の主要都市に出張場や地域事務所が存在し、広報官と呼ばれる自衛官が募集活動を行っている。日和が暮らす地域にも当然存在し、彼女が就職を希望しているという情報も学校関係者等から仕入れていた。


「自衛隊に興味はないかな?」


 その広報官は日和が下校しようと校門を出た直後に声をかけてきた。ここまでだとまるで誘拐犯かストーカーのような動きにも見えるが、こうまでして積極的に動かないと入隊希望者はなかなか集まらないのが現実だった。彼らが自衛官たちに「人拐ひとさらい」と呼ばれる所以である。


 幸いにも、日和は自衛隊に興味が無いわけではなかった。警察や消防とならび、自衛隊の活躍はよく耳にしていたし、彼らの正義感や事故犠牲の精神には憧れを抱くものがあった。しかし自衛隊の入隊試験は他の公務員試験とは全く違う種類で、普通の人は地本の存在をしらず、入隊するアクセスも分からないというのが実情である。


 広報官に案内されて日和は地本の出張所に向かった。そこは自衛隊の施設でありながら、外見は周りにある建物となんら変わりはなく、入り口近くに「自衛隊地方協力本部」と書かれた小さなのぼりが出ているのみで、分かりづらいなというのが彼女の素直な感想だった。事実、出張所は日和の高校のすぐ近くにあり、彼女自身何度もこの前を通っているにも関わらず今まで見落としてきたのである。


「でかでかとアピールするのもねぇ。皆が皆自衛隊に好感を持ってる人ばかりじゃないからさ」


 広報官、大森1等空曹は苦笑しながら日和を事務所の中に通した。内装も特別なものはなにもなく、自衛官募集のポスターやパンフレットがあちこちに置かれていること以外は普通の会社と変わらなかった。


 コーヒーでも入れようか、と大森1曹は面会室のソファーに座って待っているように日和に伝えた。と、日和は大きなテレビの側に飾られた戦闘機の模型に眼を奪われた。こういうものの知識をまるで持たない彼女ではあったが、なんとなくかっこいいと思えてきた。


「F15Jイーグルだね。航空自衛隊の戦闘機だよ」


 大森1曹がコーヒーとお茶菓子を持ってきて言った。彼自身航空自衛官なだけあって、なにも知らない少女が自分の組織に興味を持ってくれているというのは嬉しいものだった。


「私にも、乗れますか?」


「昔と違って今では女性戦闘機パイロットの道が大きく開かれているから、坂井さんにもそれに乗るチャンスは大いにあるよ」


 自分にも乗れるかもしれない、と聞くと途端に興味が沸いてきた。自分にしかできないなにか、やりがい、夢、そんなものがこの戦闘機には詰まっているように見えた。


 実際に入隊するかどうかはさておき、他の公務員試験と受験日が重ならないということもあって、日和は入隊試験を受けることになった。そこで彼女が驚いたのが、入隊するコースは1つではないということだった。自衛官候補生、一般曹候補生、防衛大学校、看護学生、航空学生…高卒だけでもこれだけ種類がある。その中で日和は航空学生に興味を持った。


「パイロットの養成コースだよ。頭だけでも、体だけでも入れない。文武両道でもセンスがなければ入れない難関さ」


「センス?」


「コレのセンスだよ」


 そう言って大森1曹は操縦幹を動かす真似をしてみせた。飛行機を操縦するセンス、自衛隊では航空適性と呼ぶ。不覚にも日和は、不器用にパイロットの真似事をする大森1曹をかっこいいと思った。彼自身はパイロットではなく、本当にただの真似事に過ぎなかったのだが、それでも日和に魅力を伝えるには十分だった。結局その日は自衛官候補生、一般曹候補生、そして航空学生の受験申込書を貰って帰ったのだが、日和にはすでに航空学生以外は見えていなかった。


 高校三年の夏、夢を持つには決して遅すぎることのない季節のことだった。

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