入隊試験
「その辺にしておきな」
「お義母さん…」
二人の間に入ったのは日和の祖母だった。
「日和は、この子はいつまでもあんたの持ち物じゃないんだ。たまには自分の娘を信じてあげたらどうだい?」
祖母は日和の教育のことで滅多に口を出す人ではなかった。正直日和は祖母とあまり関わったことがなかったし、自分の人生にはあまり関係のない人だと思っていたが、だからこそ自分のことを理解してくれているというのは非常に嬉しいことだった。祖母の一言で母は何も言わなくなり、乱暴に涙を拭ってその場を後にした。そしてこれ以降両親共に進路のことで日和に何か言うことはなくなったし、家では自衛隊の単語すら出ることはなくなった。
秋になると各種の公務員試験と同様に自衛隊の入隊試験も行われる。入隊試験はほとんどの場合一次で基礎学力が、二次で面接試験が行われるが、航空学生の試験は3次まで行われる。
一次では高卒程度、といっても自衛官候補生などの入隊試験とは違い、進学校レベルの基礎学力と、それに加えて軽い航空適性を試される。航空適性の試験では簡単な飛行機の操縦方法を試験前に教えられ、どの操作をすれば機体がどのような姿勢になるかなど、空間把握能力に近いものをテストされる。
一次が通れば面接と身体測定が二次試験で行われるが、ここまでで大半の人間が夢半ばに消えて行く。パイロットになるには通常の人間以上に健康で丈夫な体が必要であり、訓練に耐えられないと判断されたものはここで脱落していくようになっているのだ。
日和はここまで無事に試験をくぐり抜けることができ、案外簡単なのかもしれないと拍子抜けしていた。ところが大森1曹が何度も日和のことを凄いと誉めるので、実は大変な道を進んでいるのではと自信がついていった。
そして三次試験ではなんと操縦試験が行われた。ほとんどの操縦は試験官が行い、上昇や下降、旋回など簡単な操作を教えられた手順通りにできているかという試験だったが、そこは生まれて始めて持つ操縦幹である。嬉しさ半分、恐怖もある。実際に空を飛ぶというプレッシャーから、ここで辞退する者も少なくない。
「空、広いだろ? 思いきって動かしてみな。なぁに、壁にはぶつからんさ」
冗談混じりに試験官は語る。言われるままに操縦する日和。不思議と空を飛ぶことに恐怖は感じず、むしろ自分を縛るなにかから解放されたかのような自由さが心地良かった。試験が終われば基地へと帰投する。しかし日和の試験官は真っ直ぐ帰投せず、少し遊んで帰ろうと言い出した。
「アクロバットやるぞ。気持ち悪かったら正直に言え!」
日和が返事をする間もなく機体は宙返りを始めた。強い遠心力、Gが日和の細い体に襲いかかり、苦しくて悲鳴すら出せない。しかし数秒後目の前の世界はまっ逆さまに変化し、日本の形が分かるほど遠くまで見渡すことができた。
「綺麗…」
その光景が見れたのはほんの数秒間だったが、日和にはひどく長い時間のように思えた。航空機は態勢を立て直し、また通常通りに飛行を続けた。
「いいもん見れたみたいだな」
試験官は満足そうに笑って言った。
「大抵の奴はアクロバットやると悲鳴をあげたり、じっとGに耐えたりで、景色を見る余裕なんてないんだが…」
大したもんだ、と試験官は日和を褒めた。しかし彼女にその言葉は届いておらず、ただずっと水平線が続く景色を眺め続けていた。しばらくすると航空機は大きく旋回し、基地へと進路をとった。
操縦試験という特性から、必然的に試験は航空機のある基地で行われる必要があり、その中でも練習機を保有している基地に限られるため、静岡県焼津市の静浜基地と山口県防府市の防府北基地の二ヶ所でしか三次試験は行われない。一週間という期間で試験が行われ、この間十数人の受験者たちは共同生活を行うことになる。受験資格には18歳以上21歳未満とあるため、ほぼ同い年で夢が同じ者が集まるわけだから、なかなか活気がある。名前こそ覚えきれなかったが、なかなかいい人ばかり集まっていたなと日和は覚えている。
しかし彼らは共に生活を送る仲間であり競争相手、受験者のほとんどが不合格となる運命にあった。総合的な競争率はおおよそ50倍。記念受験者や滑り止め受験者が他の就職試験に比べて圧倒的に少ないことを踏まえれば、決して低い倍率ではない。
日和のもとに合格通知が届いたのは年が明けての一月中頃、一次試験の開始された九月から五ヶ月も経っていた。
入隊するのは四月一日だったが、その準備期間があるとの関係で着隊するのはその一週間前とされた。出発の朝は早く、見送りには祖母とこの春から中学生となる妹が来てくれた。最後まで娘の入隊に賛成ではなかった両親は共に来なかったが、日和は大して気にしていなかった。
大森1曹は家の前まで車で迎えに来てくれ、祖母と妹に対して綺麗に敬礼した。出征、なんて言葉が日和の頭に浮かんだ。
「体には気をつけるんだよ」
「うん、お婆ちゃんも」
妹は目に涙を浮かべていたが、不思議と祖母は笑顔だった。
「自分の信じる道を進めばいい。きっとあなたの夢は、その先にあるからね」
不意を突くように祖母に言われ、日和は一瞬涙が込み上げてきた。慌てて少ない荷物を抱え、車へと駆け出す。
「じゃ、行ってくる!」
車のドアを開け、元気に手を降った。大森1曹は残された二人に再度敬礼をして運転席に座り、防府北基地を目指して出発した。
結構田舎なんだな、と防府に入った時日和は思った。駅前こそ建物が多いが、少し離れればやはり田んぼや畑が目立つ。これでも山口県の中では栄えているほうだと、大森1曹は言った。聞けば、自衛隊の基地がある街は自衛官が街にお金を落としていくから、それなりに栄えるのだという。
しばらくすると防府南基地が見えてきた。ここは北基地とは違い、自衛官候補生や曹候補生などの隊員を教育する基地である。飛行場は持っておらず、北基地と比べると規模は小さい。しかし、航空自衛隊はこの防府南基地と、埼玉県にある熊谷基地の二ヶ所でしか最初の教育は行っていない。さらに女性隊員に関しては全て防府南で教育を行う。つまり、航空自衛官の半分が防府で教育を受けた経験を持っているのだ。かくいう大森1曹もここの出身者である。
南基地から5分も走らないうちに、いよいよ防府北基地が見えてくる。もともとは日本陸軍の飛行場で、終戦後はアメリカ軍が接収、その後第1操縦学校の分校としてパイロットを育て続けてきた。今の防府北基地になるのは第12飛行教育団が置かれた後である。また基地内には陸上自衛隊の第13飛行隊も、防府分屯地として所在している。
衛門を通るとすぐ右手にFー1支援戦闘機などの展示機が多数置かれており、日和は物珍しそうに見つめた。道の両側には多くの桜が植えられており、その花が開くのを今か今かと待っていた。そしてその通りを過ぎて左へ曲がれば、いよいよ航空学生教育群の庁舎が見えてきた。
航空学生教育群というのは、その名前の通り航空学生を教育する部隊のことである。一言で航空自衛隊と言っても、その任務は多岐に渡り、そして任務ごとに部隊も違う。航空自衛隊の中でも教育を専門に行う部隊が航空教育集団。その中に第12飛行教育団という部隊があり、さらにその中に航空学生教育群が存在している。
ところで自衛隊は言葉を短く略す癖があり、「航空学生教育群」だと長すぎて呼び辛い為、普通は
航学群庁舎3階にある教室、いわゆる教場には多くの航空学生が待機していた。これから着隊する隊員を彼等が出迎える為だ。後輩ができるということもあり、少し浮かれた者もちらほら見られた。
『木梨学生、1階まで』
一人の女性学生が1階玄関に待機している学生から無線機で呼び出される。
「お、来たな。お前の対番、なんて名前だっけ?」
「坂井よ。坂井日和」
同期にそう告げると、少女は急いで教場を出て階段を駆け降りていった。
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