着隊 前編

 航空学生教育群庁舎、通称「群庁ぐんちょう」の正面入り口には「祝入隊 71期航空学生」と書かれた大きな看板が飾られており、しばし日和ひよりは目を奪われていた。送ってくれた大森1曹は「ここからは航学群に任せるから」と既に帰っており、日和は一人になってしまった。庁舎のロビーには受付が作られており、そこでは数人の学生や、先に着隊した子たちが世話しなく動いていた。


「君、入隊予定者だよね?」


 立ち尽くしている日和に受付の学生が声をかけ、慌てて日和は駆け寄る。


「坂井日和です。よろしくお願いします!」


 学生は名前を聞くと名簿を確認し、無線機を持った学生になにかを伝えると、少しここで待つよう指示してきた。


 ロビーには現在在籍する学生の顔写真が飾られており、日和はしばらくそれを眺めていた。航空学生過程は2年間あるという話だから、ということは飾られている顔写真は先輩たちのものということになる。その数僅か60名ほど。いかに航空学生が全国から集められた少数精鋭かというのが分かる。


「あなたが坂井日和ね!」


 少しして一人の女性学生が中央階段を降りてきて日和に駆け寄ってきた。


木梨巴きなしともえ、あなたの対番…担当する先輩になるわ」


 彼女が言い換えた「対番たいばん」というのは航空学生特有の単語で、一人の後輩に対して一人の先輩をつけ、責任を持って指導させるという制度のことである。航空学生過程は2年という期間で行われているため、当然先輩と後輩が混在する。教育そのものは教官たちが行うわけだが、当然私生活の面まで教官たちの目が行き届くことは不可能に近く、それを補完するのが先輩学生となる。その際先輩がいい加減な指導をすることがないように対番というパートナーをつくり、よりためになる学生生活を送らせることが、この制度の主旨となる。


「よ、よろしくお願いします!」


 緊張してるのか、日和の声は僅かに裏返った。すると凛々しく鋭かった巴の表情は途端に緩み、クスクスと笑った。


「ごめんね。緊張するなというのが無理な話だわ。でも安心して。あなたのことは私が責任を持って面倒を見てあげる。分からないことがあったら、どんなことでもいいから訊いてね?」


 一年先輩というだけで、こんなにも頼もしいものかと日和は感心した。きっとここで厳しい教育を一年乗り切ったという事実が彼女に自信を持たせたのだろう。巴は日和の荷物をひとまず廊下の隅に置かせると、今から教官のいる部屋に入るから、と身嗜みを整え始めた。


「部屋に入ったらとりあえず気を付けをして私の左隣に立って。私が歩いても常に左隣から離れないこと。敬礼、と言われたら軽くお辞儀をして、直れでまた気を付け。細かいことは考えなくていいから、とにかくそこだけ守って」


 要点を押さえて淡々と説明をする巴の言葉に日和は夢中で頷いた。それを確認すると巴は満足そうに笑い、教官たちのいる部屋の入り口に立った。入り口上のプレートには学生隊と書かれていた。


「入ります!」


 張り裂けんばかりの大声を出しながら巴は戸を開いた。日和は少し驚きながらも、先程言われた通りに巴に続いて部屋に入り、彼女の左隣へと立つ。


「1区隊木梨学生他1名の者は4区隊長のもとへ参りました!」


 部屋の中は一つの教室分くらいの広さで、入り口に対してコの字で机が置かれ、各教官が入室してくる学生に気付きやすいようになっていた。部屋の入り口は二つあり、左側が後輩の期を担当する教官、右側が先輩の期を担当する教官たちが座っている。日和は巴に付いていき、真っ正直の机に位置する教官の前に並んだ。


「お疲れ様です。入隊予定学生を引率して参りました」


「休め。木梨の対番だな?」


「坂井日和です。よろしくお願いします!」


巴の勢いにのせられ、つい大きな声で挨拶をする日和。


「元気があって大変よろしい。4区隊長兼後任期中隊長の猪口いぐちだ。これからよろしく」


 後任期というのは日和たちの期のことである。教官や学生たちは二つの期を区別するために先輩の期を「先任期せんにんき」と呼び、後輩の期を「後任期こうにんき」と呼ぶ。それぞれの期別、つまり日和たちであれば「71期」と呼ばないのは、咄嗟の時に彼等を「ななじゅっき」とか「ななじゅういっき」と呼ぶと聞き間違えが起こる可能性があるためである。先任期と後任期はそれぞれ学生隊に所属しており、別々の中隊として存在している。猪口はその中でも後任期中隊をまとめる立場なので、後任期中隊長というわけだ。


 中隊の下には3つの区隊が存在する。一つの中隊、期にはおおよそ60名前後の学生が所属しているため、一人の隊長だけでは教育が行き届かない。なので区隊というグループで分けている。学校で言うところの組のようなものである。先任期には1~3区隊、後任期には4~6区隊が所属しており、日和は4区隊に割り当てられた。


「教育の開始、つまり入隊式までは一週間あるが、あくまでこれは準備期間だからな。先輩から色々と学んでおきなさい。特に対番の木梨は頼りになる奴だぞ」


「責任を持って指導します」


 姿勢を正して巴は応えた。


「よろしい。以後の行動については助教が示す。助教?」


 中隊長、猪口3佐に呼ばれ、隣の席に座る青木2曹が立ち上がった。


「4区隊助教を担当する青木だ。よろしく」


 助教は区隊長の補佐をすると共に、教育における主な指導を担当する。いわゆる鬼軍曹と呼ばれるのは彼等のことである。これまで何人もの教育を行ってきたのだろうか、その顔ぶりはベテランそのものであり、比較的穏やかな雰囲気の中隊長と比べて青木2曹には近寄りがたいオーラが現れていた。


「この後は隊舎に荷物を運んで軽く身辺整理。落ち着いたら群庁1階の教場で体操服等の受領をしなさい。1700以降は先輩の引率のもと食事、入浴等を済ませること。細部については別示する。質問は?」


 ありません、と巴が答える。ただひとつだけ日和には聞き慣れない単語があった。ヒトナナマルマル。17時のことだが、これは自衛隊特有の言い回しである。時間厳守で動く自衛隊、特に航空自衛隊や航空学生は秒刻みで生活をしている。おおよそこの時間に集合なんてことはあり得ない為、中途半端な時間を設定されることも珍しくない。この為、たとえば1711時に集合だとすると「じゅうしちじじゅういっぷん」と言うよりも「ヒトナナヒトヒト」のほうが言いやすい。今までの生活の全てを自衛隊式に変えていかなければ、と日和は改めて覚悟を決めた。


 学生隊を退室すると緊張の糸が切れたように巴は息を吐いた。


「上手いこと動けたわね。区隊長にも好印象だったみたいだし、その調子よ」


 巴は嬉しそうに日和の肩を叩いた。今後初めてなことばかりが続く中、飲み込みの早さはとても重要になる。先程の入室要領ひとつとっても、日和のように素早く対応でにる者もいれば、環境の変化についていけないあまり、ぎこちない動きになってしまって入室のやり直しをさせられる者もいた。ここに着隊した時から既に教育は始まっているのである。


 学生隊を出た後日和は巴の引率のもと学生隊舎に案内された。航空学生過程に限った話ではないが、自衛隊の教育は生活の全てが教育につながっているという理念に基づき、その生活は全寮制となっている。学生の隊舎は男女で分けられていて、男性用が「俊鷲舎しゅんしゅうしゃ」、女性側が「俊鷹舎しゅんようしゃ」という名前がつけられていた。


「私たちの他にも女性はいるんですか?」


 勿論、と巴は答える。今から10年程前、自衛隊は女性の任用数を大幅に増やすと同時に、それまで制限されていた戦闘機パイロットへの女性の起用を解除した。その理由としては、女性が活躍する場を増やしていくという政府の方針に従ったというのもあるが、優秀な人材は男女問わず採用することこそ戦力補充への近道であるという理念からである。61期航空学生からは男女別々で設けていた採用枠を統一させ、女性学生が増加することを見込んで女性学生隊舎の拡張、すなわち俊鷹舎の建設を行った。


 まだ完成して間もない建物なので、隊舎はかなり綺麗だった。勿論歴代の学生が建物を大切に扱い、毎日完璧な掃除をしているからというのもあるが。


「ここが坂井の部屋よ」


 部屋は4人で一部屋。通常の教育部隊だとここと同じ広さの部屋で6人暮らすのが普通だが、航空学生の場合2年間という長い期間と、自習用の机が必要という理由から4人部屋となっている。一人に与えられたものはベッドとロッカー、そして机である。


「あれ? 先に着隊してる子がいるはずなんだけどな」


 巴は首を傾げる。確かに手前のベッドには誰かの荷物が置かれていた。


「まあいいか。夕食は全員揃って行くことにしてるし、その時顔合わせすれば。そっちが坂井のベッドね」


 日和のベッドは巴の隣で、すぐ隣に自分用のロッカーがあった。取り敢えず先に身辺整理をするよう言われ、持って来た荷物をロッカーの中へと移していく。その様子を巴は自分のベッドに腰掛けて、ちょうど一年前の自分を見るかのように眺めていた。


「生活に必要なものはあらかた買い揃えていたつもりだけど、足りないものとかあったら言ってね」


「え、先輩が買ってくれたんですか?」


 気にしないでいいよ、と巴は笑う。ここで買ってもらった分、来年の後輩に買ってあければいい。対番というのはそういうものだ、と。彼女の言う通りある程度の生活必需品は既にロッカーの中に揃えられており、自分の机の中には筆記要具やノートなどの勉強道具、そして驚いたことに大量のお菓子やジュースがこれでもかというほど詰まっていた。


「あの、これは…」


「びっくりするわよねぇ、それ」


 困惑する日和の顔を見て巴はまるで悪戯が見つかった子供のように笑った。


「それも伝統なの。これからしばらくは売店に行くのもままならない程忙しくなるし、せめてもの娯楽にっていう配慮と、歓迎の意味もあるかな。誰が何時から始めたか知らないけど、ちょっと笑っちゃうわよね」


 勿論、来年は日和が後輩にしてあげることになる。なにもかもが今までの日常と違う自衛隊生活では、こういった妙な伝統もたくさんあるのだろう。辛いことばかりではないと思うと、少し日和は気が楽になった。


「あら、巴が帰ってきてる」


 身辺整理も終わろうかという頃、もう一人の先輩が部屋に戻ってきた。自販機にでも行って来たのか、缶ジュースを片手に持っている。


「えっと、巴の対番ね?」


「坂井日和です。よろしくお願いします」


「若宮よ。あとこっちは私の対番で、あなたの同期ね」


 若宮の後ろからひょっこりと少女が顔を出した。ようやく同期と会えた喜びからか、少女はパッと顔を明るくさせた。


「日和ちゃんって言うんだね!私は菊池月音きくちつきね。よろしくね!」


「う、うん。よろしく」


 月音は日和と両手で握手し、ピョンピョンと跳ねて喜んだ。日和よりも一周りも二周りも小柄な少女で、丁度妹がこのくらいだったかなと日和は思った。


「いやぁ、なかなか誰も着隊してこないからさ、ひょっとして女子は私だけ?  とか思ってたよ」


「そんなわけないでしょ。あんたは早く着隊しすぎなのよ」


 あまりはしゃぎすぎるな、と若宮が月音の頭を軽く叩いた。


「ところで若宮、他の入隊予定者は着隊してる?」


「私が見た限りは続々と来てるけど、女子は坂井が初めてね。私が見てないだけかもしれないけれど」


 事前に配布されている名簿を見ながら若宮は答える。日和たち71期の入隊予定者は63名で、うち6名が女子学生である。巴たち70期はというと総員66名のうち女子学生8名。ここ数年は女子学生数10名前後が続いていたため、71期は女子学生最小の期と言える。


「ま、ともかくうちの部屋は全員揃ったんだし、乾杯と行きましょう」


 自販機に行こう、と若宮は戸を開けて廊下に出た。帰ってきたばかりなのにまた行くのか、と3人は苦笑いした。

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