着隊 後編

 身辺整理が落ち着くと、ともえたちは日和ひより月音つきねにここでの生活について教えてくれた。


 航空学生の生活は、あらゆるところに細かいルールがある。部屋を出る際はロッカーの鍵を閉めることや、先輩には挨拶をすることといった当たり前のことから、ロッカー内の私物の配置、ベッド周りにあるタオルや洗面器の定位置など、全てがルールによって定められている。


 あまりにも膨大なルールの数に困惑し、覚えきることなど到底無理な二人は、ただひたすらに巴たちが教えてくれたことをメモ帳に書き連ねていった。


「いろんなルールがあるんですねぇ」


 一通り教わったあと、メモ帳を眺めながら月音が息をついた。


「面倒くさい?」


 巴の問いに二人は慌てて首を横に振ったが、正直なところ面倒だとは思っていた。どうしてこんなところまで、と思う程ルールが細かく、そこにどんな意味があるのか今一理解できないからだ。例えば洗濯物を入れておくバケツの定位置ひとつとってみても、ベッドの下かつロッカーに対して斜め45度の位置、併せてバケツの縁をロッカーの角に着けること、となっている。概ねこの位置、ではないのだ。


「わかるわ。こんなに沢山あっても覚えきれないし、意味があるのかどうか分からないルールも多いものね」


 日和たちが抱いている気持ちは、一年前巴たちも抱いていたそれと同じである。


「でもね、航空機に乗る前のパイロットによる点検は、これより難しいことを同じくらいの数だけ見ていかなければならないし、その点検に「概ね」なんて存在しない。ここでの生活は、そのルール自体に意味はないかもしれないけど、定められたルールを守ることは、必ず後々生きてくるんだよ」


 成る程、と日和は思った。一瞬の油断やミスが死に直結しているパイロット。その卵をここで育てているわけだから、今のうちから細かいルールを守る癖をつけさせることこそ、ここでの生活の目的というわけだ。


 だが、納得こそしたものの、やはり覚えきれる気がしてこないのか、月音は相変わらずメモ帳を睨んでしかめっ面をしていた。


「平気平気。私たちも最初は覚えきれてなかったし、そのうち慣れるわ。現に私たちはなにも見ないで坂井たちに教えていたでしょう?」


 巴はそう言ってまた笑った。慣れることは航空学生にとっての必須スキルだ。頭で理解せずとも、これから毎日繰り返すうちに自然と体が覚えてくる。日和は自分のメモ帳をペラペラとめくり、これからの生活を想像しては奥歯を噛み締めた。



 17時になると夕食の時間である。食堂においても当然ルールが存在する。まず食堂に入る前に確実に手洗い。食堂に入ると正面に一礼。指定された場所に帽子を置き、配食されているおかずを受領していく。もちろん大きな声で「いただきます」は忘れない。一度席に着けば、食べ終わるまで再び立ち上がることは許されない。たとえ箸を取り忘れていたとしても、である。食べ終われば食器を返納し「ごちそうさまでした」。食堂を出る際にまた一礼。食堂内は一方通行で、指定されたルートしか歩けず、走ることや口に食べ物を含んだまま歩くことも厳禁だ。


 防府北の食事は美味しいと評判だが、これだけルールを叩き込まれると、そっちが気になって正直味なんて分からない。もっとも、休日でもない限り学生たちに時間的余裕なんてなく、味わって食べる暇もないわけだが。


「あのー、お二方も入隊予定者ですか?」


 月音と向かい合って食べている日和に、一人の少女が夕食を手に話しかけてきた。


「安心して。同じ71期だよ。こっちは坂井日和ちゃんで、私は菊池月音」


 月音が答えると少女は表情を明るくして日和の隣に座った。


「良かったです。先輩だったらどうしようかと」


「名札見ればいいじゃん。ほら」


 月音は胸元に着けられた名札をちらつかせた。指導する際に名前をすぐ確認できるようにと、入隊予定者には先輩たちとは違った大きめの名札がつけられている。同時に日和たちにとっても先輩と同期を見分けるための目印となる。


「ああ、言われてみればそうですね。私にも着いてたんでした」


 少女は自分の名札を見て笑う。


「私、桜庭春香さくらばはるか。5区隊です」


 少女は日和に手を伸ばした。


「私たちは4区隊。桜庭さん一人?」


 握手しながら日和がきくと、丁度春香の真向かいに名札を着けた入隊予定者らしい少女がやってきた。


「こちらは轟秋葉とどろきあきはさん。同じ5区隊です」


 春香に紹介された少女は日和たちに頭だけ下げると席に着いて3人をそっちのけで、目にも止まらぬ速さで夕食を食べ始めた。


「あー、あの…」


 呆気にとられて、ようやく月音がなにか言い出そうとすると秋葉は綺麗に完食して箸を置き、一つ息を吐いた。


「はやっ!」


 米粒一つ残しておらず、見事としか言い様がない。既に昼食を共にしていた春香は特に驚く様子もなく、楽しそうにニコニコと笑っていた。


「みんなも…早く食べたほうが」


 呟くように秋葉に言われてようやく日和たちは我に返った。この後も予定が詰まっているので、ここでのんびりする時間はない。秋葉には遠く及ばないが、日和たちも慌てて夕食を口に掻き込んだ。



 夕食後は隊舎に戻り、巴たちからベッドメイクの方法を教わることとなった。自衛隊ベッドメイクとは単に寝る準備をするだけではない。決められた通りにシーツと毛布を敷いていき、ベッドからはみ出る部分は全てベッドマットの下へと潜らせる。こうすることでシーツや毛布に「張り」をもたせ、まるでホテルのような(ホテルとは程遠い粗末なベッドだが)ベッドメイクが仕上がる。ここでも一切の妥協は許されず、毛布にしわ一本残さない。そしてその毛布の張り具合は、落とした十円玉がトランポリンに落とした時のように跳ね上がる程だと言われている。


「けっこう、重労働ですね」


 汗を拭きつつベッドメイクをする日和。綺麗なベッドを作る為にはベッド周りを世話しなく動き回らなければならず、また張るために毛布をこれでもかというほど引っ張る為、そこそこ体力を使う。


「これが「のべどこ」で、さっきのベッドメイクをする前の状態が「あげどこ」ね。試しにここから「あげ床」に戻してみようか」


 ベッドメイクが完成すると巴は綺麗に作られたベッドから毛布を剥ぎ取り始めた。日和と月音が見守る中、巴は手際よく毛布とシーツを畳んでいく。ただ畳んでで置くだけなら簡単なのだが、重要なのはここからだ。


全部で4枚ある毛布は僅かながら大きさが異なり、大きなものを下から順番に積み上げる。毛布の端は綺麗に揃えなければならず、その見た目から自衛隊ではバウムクーヘンと呼んでいる。このベッドメイクに要する時間は慣れないうちは20分から30分程、熟練してくれば10分で仕上げる者もいる。


「むぅぅ、難しいなぁ」


 苦戦する月音を見て若宮が手取り足取り、コツなどを踏まえながら教えていく。


「しばらくはこいつに泣かされることになるわ。土日とか、空いた時間があれば積極的に練習しときなさい。ほら、まぁこれでも飲んで」


 また自販機に行って来たのか、若宮は月音と日和に缶ジュースを渡した。まだ寒さの残る季節だったが、ベッドメイクで熱気の籠った部屋で一生懸命動く二人にとっては、冷たいジュースがとても気持ち良かった。



 その後日和たちは入浴を済ませ、群庁舎3階の教場に各区隊ごとで集められ、各区隊長主導の下自己紹介等の軽いレクリエーションが行われた。その後はこれから一週間、入隊式までの日々の流れを伝えられ、そうしているうちに就寝の時間が迫っていた。


 就寝は2210時からだが、自衛隊では寝る前に2200時から点呼というものがある。点呼とは、所属している隊員の所在と健康状態を把握する為、当直が隊員を起床直後と就寝直前に一ヶ所へ集めて確認するというものである。航空学生では点呼ラッパが鳴り響くと同時に各部屋を飛び出し、1秒でも早く俊鷲舎前、舎前に集まって当直に報告を行う。並び方は各区隊ごとで、各区隊当直が各期当直に報告をあげ、そこから学生隊当直、航学群当直へと順番に報告を上げていく。入隊式までは日和たち71期には当直が存在しない為、その日は70期の先輩たちが代わりに報告を上げることとなっていた。


「1日の閉めだからね。元気よく行くわよ」


 腕時計を見ながら居室の入り口に待機する巴と若宮。ラッパが鳴ると居室の電気を消し、我先にと隊舎を出ていった。日和たちも戸惑いながら、それでも夢中で巴たちに続く。


 舎前には期当直と学生隊当直を勤める学生と、群当直を勤める教官が腕時計を睨みながら待機していた。点呼にかかった時間を計測しているのだ。


「気をつけ。1区隊にならう。右へならえ!」


「2区隊総員22名事故なし現在員22名。番号始め!」


 各当直の怒鳴るような号令が飛び交い、きびきびとした動きで並んでいく学生たち。しかし報告を上げた後は一切動くことを許されないため、徐々に静かになっていく。


「報告します!」


 全ての報告が学生隊当直に上がり、その報告を群当直が受ける。


「航空学生総員129名事故なし現在員129名、異常なし!」


「…入隊予定者は学生に含めるか?」


 群当直に問われ、学生隊当直は青ざめ、慌てて言い直す。


「もとへ!  航空学生総員66名事故なし現在員66名、入隊予定者総員63名事故なし現在員63名、異常なし!」


「そうだな。いい加減な報告をするな」


 静かに怒る群当直の言葉にその場の空気が凍りつく。群当直ため息を吐きつつ腕時計を見た。


「慣れない入隊予定者がいるとはいえ、遅すぎる。お前たちの教育不足だ。それとも各当直は隊員を把握しきれていないのか?」


 いいえ、と即答する各当直たち。当然だが後任期にとっては初めての点呼で、並び終えるまでに若干の時間がかかってしまい、その為か当直が人員を掌握するのも遅れてしまった。仕方ないと言えば仕方ないことだが、群当直は納得しない。


「明日の日朝点呼は確実な人員掌握と軽快な動作を期待する。以上、別れ」


 なんとかこれ以上の指導こそ免れたものの、先任期たちの顔は青ざめたままだった。これから10分後には就寝であり、就寝後は灯りを点けることは勿論、物音一つたてることも許されないのだから、残り数分で点呼の要領を見直す必要がある。日和も含めて一同が騒然とする中、巴は冷静だった。


「この点呼で自分が並んでいる場所は覚えたでしょう?  取り敢えず後任期は迷わずそこに並ぶこと。あとは当直がしっかり報告を上げればいいわ」


 それもそうか、と頷きあう先任期たち。後任期は自分の足元、そして周りに誰がいるかを確認し、すぐに解散となった。


 数分後、就寝ラッパが鳴ると同時に居室の電灯を消していく学生たち。まだ1日の興奮が収まらず、慣れない環境で熟睡できるわけがないが、それでも後任期たちは無理矢理床に着いた。


「まだまだ始まったばかりよ。頑張れ坂井」


 寝る直前、巴は日和に一声かけた。返事をする間もなく巴は横になってしまったが、日和は強く頷いた。


 着隊してからまだ半日。その僅かな時間で多くのことを叩き込まれ、いよいよ自分は自衛隊に入ったのだという自覚が出てきた。落ち込む暇もホームシックになる暇も、彼女たちには与えられていないのだ。

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