課業行進
導入開始から早くも5日、金曜日の朝を迎える日和たち。ここ数日でまともな食事は採れておらず、毎日朝から夜まで厳しい訓練が続くものだから、後任期たちの疲れは既にピークに達していた。
しかしそれも残り一日の辛抱であり、今日を終えれば土日がやって来る。さすがに休日まで訓練はしないはずだから、明日から二日間は心身共に休めることができるだろう。そんな僅かな希望を抱き、日和たちは疲れた体に鞭を打つ。
朝の清掃と身辺整理を終え、いつもなら朝礼の時間まで教場で待機する日和たちだったが、今日は普段より早めに朝礼場に集まるよう言われていた。0730までに教場に入って荷物を置き、休む暇もなく朝礼場に向かって群庁舎の階段をかけ降りる。
「なんだお前ら、眠そうな顔しやがって。疲れてんのか?」
整列した後任期たちに5区隊長森脇2尉が渇を入れた。即座に「いいえ」と声を揃えて答える後任期だが、その心身に溜まった疲労は隠しきることができないようだった。
「今日は今から課業行進っていうのを教えるからな。まず先輩たちが行うのを見学するから、その眠そうな目を開いてよく見とけよ」
課業行進とは、学生たちが隊列を組んで行進曲に合わせて歩くというもので、そのまま教場まで歩いて課業を開始するというのが本来の意味だが、航学群では行進を終えた後に朝礼を行うため、課業行進とは名ばかりの行進訓練となっている。イメージとしては学校の運動会で行われる入場行進などが近いだろうか。
行進は毎朝ではなく、週に月水金の3回行われ、そのうち月曜と金曜は各区隊ごと、水曜は各期ごとの行進となる。学生は指揮官を先頭に旗手、部隊といった順番で並び、群庁舎前の長い直線道路を行進して再び朝礼場に戻ってくる、というのが大きな課業行進の流れだ。
少しすると先任期たちが道路に整列し始めた。指揮官は区隊当直学生が務め、旗手は次の当直が務める。水曜日に期で行進する場合は期当直と時期期当直だ。
航空学生の歌が流れ出し、まず先頭の1区隊が行進を開始する。音楽に合わせて歩くというのはなかなか大変で、この曲であれば2拍子の1拍目に左足、2拍目に右足を踏み出すことになる。普段の行進なら指揮官が歩調を数えれば全員の足並みが揃うが、この課業行進では指揮官が先頭を歩く為それが出来ず、学生たちは音楽を聞いて足を揃えるしかない。しかしそこは先任期、綺麗に歩調を合わせて歩いて行く。
「かしらぁ! 右!」
群庁舎の手前まで歩いたところで指揮官が敬礼し、号令に合わせて隊員が頭を右斜め上にむけた。頭右の敬礼と呼ばれるものだ。敬礼を受けるのは高い受礼台の上に立つ学生隊長、野川2佐である。
「第1区隊、よし!」
道路の脇に立つ学生が声を張り上げた。これは敬礼が正しいタイミングでされているかを確認しているもので、標示隊と呼ばれる。部隊が敬礼を実施するタイミングは台上に立つ受礼者、つまり学生隊長が指揮官の視界斜め45度のあたりに入った時である。指揮官と学生隊長の位置関係が調度良い場所に、道路に対して垂直の白線が引いてあり、標示隊勤務をする学生はその白線を目安に敬礼のタイミングを確認する。ちなみに標示隊勤務をする学生は2人いて、敬礼を開始する入り口と、敬礼を止める出口に一人ずつだ。担当するのはその日の学生隊当直と時期学生隊当直である。
「なおれぇ!」
1区隊が受礼台を通りすぎ、敬礼を止める号令がかかる。敬礼を止める位置は出口に引かれた白線を部隊が完全に通り過ぎてからなのだが、号令をかける指揮官は先頭にいるわけなので、当然部隊が白線を越えるところを直接見ることはできない。なので指揮官はあらかじめ部隊がどれだけの長さで、何歩歩けば部隊が白線を越えるのか把握しておかなければならない。これが非常に難しい。
「第1区隊、1歩早い! 欠礼、やり直し!」
1区隊の敬礼を止めるタイミングは少し早かったようだ。入り口で「敬礼」が遅かったり、出口で「なおれ」が遅かったりすると「欠礼」となる。つまり、敬礼すべき区間でちゃんと敬礼出来なかったという意味だ。欠礼となるとやり直しを命じられ、もう一度課業行進を行う。また、それぞれの号令をかけるタイミングが3歩以上ずれた場合もやり直しとなる。
(これはけっこう難しいぞ…)
先任期が行進するのを見て、何となく要領は理解した日和だったが、実際にやれと言われると全く自信が無かった。それは他の者も同様で、指揮官はおろか普通の行進ですらまともに出来る気がしなかった。
幸い今日は見学だけで終わったが、来週からは後任期も先任期と同じように課業行進をしなければならない。つまり、この土日でしっかり練習しておけということだ。
心身共に休めることができると思っていたこの週末だったが、やはり丸々二日間休ませてくれるわけでは無さそうだった。
「自信無いなぁ、私」
机に突っ伏して日和は呟く。朝礼も終わり、次は各教授班に分かれての課業だったが、まだ少しだけ時間がある。
「誰だってそうよ。少なくともあなたが当直に上番するのはまだ先なんだから、そう焦らなくていいんじゃない?」
隣の冬奈は大して不安に感じていないようだった。彼女の言うように、当直に上番する学生は月曜から水曜までと、木曜から日曜までの週に2人だけだ。日和が上番するのはまだ2、3週間後の話で、つまりそれまでは課業行進で指揮官をすることはないというわけだ。
「だけどさ、ただ歩くだけでも緊張すると思うよ? 冬奈はこういうことしたことあるの?」
いや、と冬奈は首を横に振った。
「行進訓練はやるけど、課業行進みたいに指揮官をしたことはないわね。でもあの人なら経験があるんじゃないかしら」
そう言って冬奈は一番前の席に座る学生に目を向けた。6区隊の福本、陸上自衛隊高等工科学校出身である。
「ねぇ福本学生、生徒のあなたなら航学と似たような教育を受けているでしょう? 課業行進だってやってたんじゃない?」
「ん? ああ、まあな」
声をかけられ、福本は大きな体を捻って振り返った。
彼が卒業した高等工科学校とは、陸上自衛隊が持つ高校のようなところで、将来の陸曹を育成する機関である。ここを卒業した者は高校卒業資格を得ると共に生徒陸曹候補生の任命され、一年後には陸曹として活躍する。しかし中には福本のように航空学生等の試験に合格し、陸自とは別の道を進む者も少なくない。
もともと少年工科学生という名前だった為、航学では彼等のことを「
「俺は観閲行進にも参加したからな。行進訓練は嫌というほどやったよ」
「じゃあ指揮官動作もバッチリじゃない?」
「どうかな。ここはここで独特のルールがあるみたいだし、俺のやり方が通用するかどうかは分からないな」
長期間に渡って教育を施すという特性からか、航学での生活と工科学校での生活は類似する部分が多く、ここでの課業行進のような訓練は福本も経験していた。だが彼が受けた教育はあくまで陸上自衛隊の形式に沿ったもの。同じ自衛隊とはいえ航空自衛隊のやり方とは異なる部分も当然ある。
「つまり皆等しく不安ってことだよ」
不安そうな顔をする日和に福本はそう言って笑った。
「俺も坂井も、都築だって航空学生課程は経験したことない。当たり前だけどな」
課業行進に限らず、ここでの教育は誰もが初心者だ。部分的には冬奈たちのように特殊な経験を持つ者が有利になるかもしれないが、それは決して大きな差ではない。
「坂井が不安に思ってる部分は、坂井以外にも同じように不安に思っている奴がいる。だから焦らないで、みんなで徐々に慣れていけばいいんじゃないか?最初から全員がプロフェッショナルでいるなんて無理な話なんだよ」
常に完璧を求められる航学生活だが、それが当たり前である必要はない。むしろ完璧を求めるその姿勢こそが重要なのであって、初めのうちは誰もが上手くできない方が当たり前なのだ。
工科学校でそれを経験してきた福本の言葉には説得力があり、坂井がその胸に抱いていた不安は少しずつ安心に変わりつつあった。
だが、その穏やかな空気を破るかのように一人の学生が立ち上がる。
「ずいぶん甘いこと言ってんな」
予想もしなかったその低い声に、驚いて3人が目を向ける。
「少しずつできるようになればいいとか、最初から完璧である必要はないとか、よくそれだけ余裕でいられるよな」
5区隊所属の
「なんだよ沢村。俺、なにか間違ってること言ったか?」
不機嫌そうに返す福本に沢村は全く動じず、二人の間に不穏な空気が流れる。
「別に、お前が間違ってるとは言わないよ。けどな、少なくとも俺は仲良しごっこをする為にここに来たわけじゃない。自分の能力が足りないことを「仲間」っていう都合のいい存在で隠して甘えてる奴は、真剣にパイロットを目指している者にとって邪魔なだけだ」
「なにぃ?」
福本が立ち上がり、沢村に詰め寄った。これはまずいと感じた同期たちが福本を止めに入るが、さらに沢村は続けた。
「みんなで助け合ってとかぬるいこと言ってると、出来ない奴はつけ上がる。そうなると能力のある奴が足を引っ張られ、誰も幸福にはならない。出来ない奴は早々に切り捨てられるか、自分の力で這い上がるしかないんだよ。そこに「少しずつ」とか「焦る必要はない」なんて余裕は無いはずだ」
その辺にしとけ、と同期たちは沢村を止めに入る。これ以上彼に喋らせると、福本が口だけでは治まらない状態になりそうだった。
その時、
「わ、私だって!」
不意に日和が声を挙げた。睨み合っていた沢村も福本も思わず彼女に目を向ける。
「私だって、パイロットになりたいと真剣に思ってここに来てる。みんなの足を引っ張るつもりなんてないよ」
どうかな、と沢村は冷ややかに返した。
「お前の素性は知らないけど、本当に心からパイロットになりたいと思って入隊した奴はそういないと思うぞ。他に夢や目標がなく、ただ漠然と空に憧れて航学に来た奴だっている。そういう奴に限って他人の足を引っ張ったりするんだよ」
彼の言葉が日和の心に強く突き刺さる。今までろくに夢も目標も持たなかった自分。よく知りもしないで漠然と航空自衛隊の門を叩いた自分。沢村とはあまり話したことなどなかったが、彼はそんな自分のことを全て見透かしているようで、日和は何も言い返せなかった。
「沢村学生の言っていること、分からないでもないけれど」
ただ立ち竦む日和を庇うように冬奈が前に立つ。
「完全無欠な人間なんているわけないし、あなた自身も苦手とすることはあるはずよ。そういう苦手を補ってくれるのが同期であって、良い人間関係を築くことはあなたの人生でもプラスになると思うけど?」
「勿論だ。それでも俺は弱い奴を助けるつもりはないよ。そんな余裕は俺にはないからな。自分の弱点は自分で克服してみせる。それこそ死に物狂いでな」
抑える同期の手を振り払い、沢村は冬奈に鋭い視線を向けた。
「お前らが「同期」とかにこだわって友情ごっこをするのは勝手だが、そんなものに俺の人生を巻き込まないでくれ」
睨まれ、思わず怯む冬奈。いよいよ我慢が出来なくなった福本が腕を振り上げた時、ちょうど教官が教場に入ってきた。
「B教授班気を付け!」
教授班当直が咄嗟に気を付けをかけ、全員何事もなかったかのように席につく。教官は彼等に残る妙な雰囲気に気付いて一瞬顔を曇らせたが、すぐに通常通り授業を始めた。
(夢や目標がなく、漠然と入隊した奴…か)
沢村の言葉が日和の頭の中を巡る。もともと自衛隊に興味なんてなく、今となっても自衛隊のことはほとんど分からない。ただ何となく空に憧れ、それを目標にしてここまで来た彼女だが、もしかしたら沢村の言うとおり、それは夢と呼べるほど真剣な想いではないのではないか。ここに来て日和は自分の想いに自信が持てなくなってきた。
いるはずもないのに、背後で母が自分のことをを笑っているような気がした。
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