徒歩行進訓練

 自衛官の基礎的技術の一つとして野外行動というものがある。言ってしまえば銃などを扱った戦闘訓練の総称だが、その中でも徒歩行進は航学で最初に経験する野外行動訓練だ。


 内容は至って単純で、目的地まで30kmの道のりを銃や装具を身に付けた状態で一日かけて歩くというもの。この訓練を通じて学生たちは部隊の徒歩行進要領、簡易的な指揮要領を学ぶ。


「状況説明を実施する」


 訓練開始前のブリーフィング、猪口中隊長が本訓練において付与される状況について学生に教育を行った。


目下もっか、我々は赤国と交戦状態にあり、防衛出動が下令中である。戦況を見るに、敵機による空襲が予想されるため、防府北基地近辺に高射部隊を展開する予定である。これを受けて航学群学生隊後任期中隊は高射部隊の陣地設営を援護、これの警備を行う。なお、秘匿性を要するため移動手段は徒歩行進とする。以上、質問」


 なし、と声を揃えて答える学生たち。こういった状況付与は野外行動訓練で必ず実施されるものだ。心身を鍛えるため、ただ歩くことが訓練の目的ではない。全ては有事に備えた訓練であることが前提な以上、その内容は実戦と同じ状況であることを想定しなければならない。もちろん実際には高射部隊なんて展開していないし、もっと言えばこの徒歩行進は防府北基地出発の防府北基地到着。つまり基地の外を歩いて戻ってくるだけに過ぎない。それでも区隊長らは「状況下に入れ」と口を酸っぱくして言う。ごっこ遊びと言えば言葉が過ぎるが、想像力が学生たちを「状況の人」へと変えるのだ。


 訓練行程はまず防府北基地を出て向島運動公園に向かい、その後県道を沿いながら工場地区を抜け、佐波川を目指す。その後は基地近辺まで戻って田島山を中腹まで登り、そして戻って来るといった内容だ。


 勿論ただ歩けば良いというものではない。部隊として行動する以上、学生たちには様々な役割が与えられる。部隊の安全を確認する警戒係や、小隊間の連絡を担当する伝令係、その他にも部隊旗や担架を持つ係などなど。また徒歩行進はある程度歩く速度が定められており、数kmごとに置かれた小休止ポイントを決められた時間に通らなければならず、このペースメーカーも学生が担当する。


「第1小隊、前へ、進め!」


 装具点検や編組完結式等を終え、猪口3佐の号令によっていよいよ行進が始まる。第1小隊とは普段の4区隊のことで、野外行動訓練中は各区隊が1~3小隊として呼称される。


 多くの基幹隊員が見送りの為に並び、学生たちに声援を送る。基地の外に出るまでは全員が歩調を揃えて歩くが、正門をくぐって少しすると「道足」の号令がかかり、学生たちはそれぞれ自分にあった歩調で歩き始めた。


 行進中、伝令が各小隊間を走り回ったり、横断歩道等を速やかに渡る為に「駆け足」がかかることはあるが、基本的には目的地を目指して黙々と歩くだけだ。普段から心身を鍛えている学生たちにとってはこれ位、体力的にはなんの問題もなく、軽く雑談もしながら皆笑顔で歩く。



 こんな程度か。そんな考えが学生たちの頭をよぎる。しかし訓練が昼頃に近付き始めると、いよいよ本訓練が思わぬところで牙を剥き始める。


「痛ったぁ…」


 昼食の為の大休止。春香を始めとする何人かの学生が、随伴する衛生隊員の手当てを受けていた。編上靴と靴下を脱ぐと、足のあちこちに赤い腫れや水ぶくれができてしまっている。靴擦れだ。


 編上靴はとても固い素材でできており、足に馴染むまで相当な時間がかかる。なので貸与されて間もない状態でこの靴を履くと、数時間歩いただけで足が悲鳴をあげてしまう。靴擦れ防止の為に学生たちは靴下を二重に履いたり、クッションを入れたりと色々工夫するのだが、それでもこうして足を痛める者が出てきてしまう。


「春香、大丈夫?」


 ややぎこちない歩き方で仲間の元へと戻ってきた春香に、日和が昼食の缶飯を渡す。


「絆創膏貼って、一応の応急処置はしてもらいました。歩けないことはないですよ」


 大丈夫と春香は答えるが、明らかに痛みを我慢している様子ではある。まだまだ行程は半分以上残っており、しかも最後には山の登り降りがある。果たして彼女は最後まで無事に歩き通せるだろうかという不安が日和の頭を過った。


「私なんかより、他の皆さんは平気なんですか? 坂井さんとか、午後はけっこう勤務があたってましたよね?」


 春香は受け取った缶飯を小さな缶切りを使って手早く開けていく。今日のメニューは椎茸飯に牛肉大和煮、そして沢庵缶が二人に一つだ。


「私はなんともないよ。月音が大分しんどそうな顔してたけど…」


 日和が1小隊の方に目を向けると、食事を終えた月音が同期と楽しそうに話をしていた。ついさっきまでは喋る気力もない程に疲労困憊していたが、お腹が一杯になって元気を取り戻したようだった。


「あの様子なら大丈夫そうかな」


「前々から思ってたんですけど、菊池さんって疲れるのも早ければ回復も早いですよね…」


「子猫みたいなものだからね」


 体力があるうちは思う存分動きまわり、疲れたら電源が切れたかのように休む。まるで幼い子供のようだが、それが彼女の持ち味なのだろう。そんな彼女を見ていると、不思議とこっちまで元気が出てくるというものだった。


「よし、私たちも負けていられない。あと半日、絶対に歩き通さなくちゃね」


「そうですね。頑張りましょう!」


 まだまだ二人の表情には余裕がある。半分歩いたのだから、残すはあと半分だけ。日和たちだけでなく、誰もがそんな風に甘く考えていた。しかしその半分を越えた時、ようやくこの訓練が本当の恐ろしさを持って彼女たちに襲いかかる。





 初夏の厳しい日差しが頂点から容赦なく降り注ぎ、学生たちの体を熱していく。加えて彼等が被っている鉄鉢てっぱちが1.4kgの重しとなって頭を押さえつけ、太陽の熱を吸収してまるで蒸し焼きにでもされているかのような気分になる。ちなみに航学群に配備されている鉄帽は66式鉄帽。現行の88式と比べて重たく、熱を持ちやすい。


 さらに午前中はなんともなかった64式小銃がここにきて大きな負担となり、負い紐が肩に食い込んで学生たちを苦しめる。足取りは重たくなるが、それでもペースを落とす訳にはいかない。


「あっつい…なあ冬ちゃん、まだ水持ってる?」


「自分用の、それも口を濡らす程度にしか残ってないわよ。陣内学生、もしかしてもう全部飲んだの?」


「うん…あと何回休憩があるっけ?」


「2回ね。分けてあげたいところだけど、ちょっと厳しいかもしれないわ」


 歩きながら夏希は、先を歩く冬奈が腰につけ天気いる水筒を恨めしそうに見つめた。中身は当然飲み水なのだが、これを飲むことは許されていない。将来幹部になる学生たちにとってこの水は、何かが起こった時に部下に飲ませてあげる水であって、自らの渇きを潤す為にぶら下げているわけではない。彼女らが飲むことのできる水は、出発時に自ら背嚢はいのうに詰め込んだペットボトル数本分が全て。途中の休憩時に水道などから補給することは勿論許されない。


「結構多めに入れたつもりだったんだけど、全然足りなかったわね」


 照りつける太陽を見上げて冬奈は呟く。こんなに良い天気になるなんて、完全に見積りが甘かったと後悔する。


 これから熱に体力を奪われた状態で山登りをしなければならない。なかなか厳しい展開になりそうだなと、冬奈は一歩一歩踏ん張りをきかせて歩き続けた。





 田島山は防府北基地の南西に位置する小さな山で、標高は222m程しかない。山頂には航空灯台が建てられており、展望はあまり望めず、登山者も極めて少ない。その為か山道はあまり整備されておらず、倒木などもあって足場が悪い。学生たちはそんな道を疲れきった体に鞭を打って登っていく。


 その時日和は伝令要員だった。これがどうもハズレくじだったようで、通常とは異なる道を歩いている為なのか、状況把握の為に猪口3佐がしょっちゅう伝令を飛ばす。その度に日和は今来た山道を駆け降りたり、そしてまた駆け登ったりしなければならない。一番辛いタイミングで、一番辛い役割を担当することになってしまったというわけだ。


「第2小隊が遅れているな…」


 猪口3佐が後方を見て呟く。そらきた、と日和は身構えた。


「坂井、様子を見に行ってくれ」


「了解です」


 第2小隊というと5区隊。今は3小隊に続いて、一番後方を歩いている。そういえば春香は大丈夫だろうかと思いながら、日和は先頭から最後尾に向けて一気に駆け出した。


 と、途中で2小隊の伝令と鉢合わせる。


「っと、坂井か。伝令だな?」


「うん。そっちも?」


 5区隊の田畑だった。彼が登って来たということは、きっとなにかあったに違いない。


「怪我人が出たんだ。桜庭がちょっと足をやっちまってさ」


「春香が?」


 全部を聞き終わるよりも先に日和の体は動いていた。田畑が呼び止めたかもしれないが、それよりも春香のことが気になった。


 怪我をしたと言っていた。大丈夫だろうか。


 昼の時点で彼女は痛みを我慢しながら歩いていた。心配する気持ちが日和を焦らせる。


 2小隊の所まで降りると、足を押さえて座り込む春香を何人かの学生が囲んでいた。パッと見た様子では大事ではなさそうだ。


「もともと片足を庇うように歩いてたからね」


 日和の到着に気付いた秋葉が状況を教えてくれる。


「担架を運んでいたんだ。それで足元がよく見えなくて、足を踏み外してしまってね」


 どうやら右足首の捻挫らしかった。骨折などの大きな怪我ではなく、日和は安心して息を吐く。


「心配かけてすみません。私なら大丈夫ですから」


「そんな、無理して歩くと悪化させるよ。休まないと…」


 立ち上がろうとする春香を日和は止めるが、彼女は首を横に振った。


 ここで春香がリタイアしても、彼女を運んでくれる衛生隊員と車両は山のふもとに待機している。となるとそこまでは他の学生たちによって担架で運ぶ他ない。ただでさえ疲れきっている同期たちに、そんな迷惑はかけれなかった。


 あとは、ここまで来たなら完歩したいという意地だ。その気持ちは日和も分からないわけじゃなかったが、それでも彼女の身体のことのほうが心配だった。


「それならせめて、私が春香の銃を持つよ。少しでも負担を軽くした方が…」


「どけ、坂井」


 日和が言い終わる前に、二人の間に割って入る学生が一人。沢村だ。


「銃は俺が持つ。轟は桜庭に肩を貸してやれ。あと誰か、代わりに担架を持ってやれ」


「ちょ、ちょっと」


 柄にもなく、てきぱきと動く沢村に一同は戸惑う。


「こんな所で止まっていても仕方ないだろ。時間の無駄だ。さっさと準備して出発するぞ」


「いいよ沢村。無理して助けようとしなくても。私が春香の銃を…」


「お前は伝令だろ!」


 一喝され、怯む日和。


「このことを伝えるのがお前の仕事だろ。目の前のことばかり気にして、自分の役目を見失うなよ」


 悔しいが、彼の言うとおりだった。日和は自分の頬を叩いて気を入れ直す。


「行け。ここは俺に任せとけ」


「…分かった。心配いらないって言っておくからね」


 振り向かず、来た道を駆け登って行く日和を見送ると、沢村は春香から重たい小銃を奪い取るように受け取った。


「すいません、お願いしますね」


 春香が頭を下げるが、沢村はなにも返さなかった。面倒くさい。いつも通りのそんな表情だった。





 おおよそ1時間かけて田島山を踏破し、後任期中隊はおぼつかない足取りで防府北基地まで戻ってきた。誰もが水分不足と疲労でふらふらの状態で、まさに満身創痍といった様子だったが、春香を始めとして脱落者は誰一人いなかった。ペース配分も完璧で、途中アクシデントがあった割には、驚く程時間通りに帰ってくることができた。


「総員、装具点検!」


 正門前に整列し、学生たちは身だしなみを整える。徒歩行進はあくまで移動手段。本来であれば目的地に到着してからが任務開始となるわけなので、みっともない姿で基地に入るわけにはいかない。


「ほら、お前の銃だ。点検は終わらせてある。最後くらいは自分で持て」


 沢村が春香に小銃を渡す。結局沢村は田島山から基地まで、ずっと彼女の銃を持っていてくれた。


「ありがとうございます。お陰で最後まで歩くことができました」


「礼を言われる筋合いはない。俺はお前を助けたつもりはないんだ。あそこでリタイアされても、全員の負担になるだけだったからな」


「分かってますよ…坂井さんの為ですよね?」


 春香の言葉に、沢村が僅かに表情を険しくした。


「あの時沢村さんが割って入らなかったら、きっと坂井さんは私を庇って歩き続けていたでしょう。それでもあの人なら最後まで歩き通せるでしょうけど、きっと大きな負担になっていた」


「…あいつは何にしても自分より他人を優先する癖がある。入隊当初からずっと、なにも変わってない。ああいうのを見るとイライラするんだ」


 勘違いするなよ、と沢村は春香を睨んだ。


「お前、色々と人の心を深読みしてるけどな、俺は本当に自分のことしか考えていない。坂井も含めて、他人のことなんて割と本気でどうでも良いんだ。ただ…」


「ただ?」


「時々、あいつを放っておけなくなる。助けようとは思わないけど、野放しにしておこうとも思わない。誰もとろうとしないあいつの手綱を、俺がとっていなくちゃ面倒なことになる気がしてな」


 第1小隊のほうで小銃の点検をしている日和を、まるで妬むかのような、悔しそうな目で見る沢村。同じ区隊である春香も、彼のこんな表情は見たことがなかった。


「沢村さん、あなたは…」


「後任期中隊気をつけ! 駆け足、進め!」


 号令と共に、学生たちが歩調を数えて走り出した。これが徒歩行進訓練の最後の試練。それぞれが持つ小銃を頭上に掲げ、所謂ハイポートの状態となって基地内を走り回る。


(沢村さん、あなたは不器用なだけなんですね)


 足の痛みに堪えて走りながら、春香は思う。


 他人との距離の詰めかたが分からなくて、だからわざと突き放してしまう。自己中な人間を演じ、誰も寄せ付けないことで、自分が傷付かないようにする。きっと彼はそうすることでしか他人と接することができなかったのだろう。


 しかしそれも、日和ならもしかしたら変えていくことができるのではと考えてしまう。


 唯一沢村に寄り添ってくれる存在。そして沢村が唯一心を開きかけている存在。彼女ならきっと沢村のことを変えていくきっかけになりうるかもしれない。


 類い希な才能を持つ沢村と、そんな彼に大きな影響を与えるであろう日和。言ってしまえばこの二人は、71期生にとってのキーパーソンに他ならない。


(まったく、ここでの生活はホントに退屈しませんね)


 人一倍大きな声で歩調を数え出す春香。それにつられて、周りの学生も残り少ない気力を振り絞り、落ちかけていた小銃を今一度高く掲げた。


 自分が二人を変えてみせる。二人に一番近い存在なのは、今のところ自分しかいないのだから。そう春香は決意する。



 しばらくして駆け足行進が終わり、これをもって本訓練での任務は完遂したとみなされた。71期にとって初めての野外行動訓練は特に大きなトラブルもなく、全員が無事訓練修了という形で幕を閉じた。

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