覚悟の時
官品の手入れが一通りできるようになれば、今度はそれらの正しい着用の方法、着こなしを教わる。制服は勿論、迷彩柄の作業服に袖を通すといよいよ自衛官になったのだという実感が一層増し、ついつい日和たちも浮足立ってしまう。
しかしそこは自衛隊、ただ着ればいいというわけでは勿論ない。制服姿の「
「編上靴にも種類がある。この短いほうが第1種で、長靴みたいなのが第2種な。1種のほうは訓練等でしか使う予定はないから、当然履かない日もあると思うけど、毎日の手入れは欠かすんじゃないぞ」
助教、青木2曹は皆に見えやすいように朝礼台に立ち、二種類の編上靴を掲げて説明する。この編上靴というのが曲者で、慣れないと履くのに時間がかかる。結んだ紐はプラプラと垂らしておくのは許されず、靴の内側へと収納するか、靴周りに巻き付ける等の処置をしなければならない。これを
試しに1種編上靴を履いた日和は軽く歩き回ってみたり、ジャンプをしてみた。ゴツゴツという独特な重い音は、今まで履いてきたどんな靴からも聞いたことのない音だった。
(硬いなぁ)
予想外の履き心地の悪さに日和は表情を歪めた。自衛隊という組織らしく、戦闘行動に使うことを想定されたこの靴は、山登りなどレジャー用に作られたブーツよりも非常に頑丈な作りとなっている。これが履き心地の良い、足に馴染んだ状態になるには相当な時間を要し、初めのうちは少し歩き回ればマメができて苦しむこととなる。
「坂井、足元見ろ」
5区隊助教、山本3曹に言われて日和は目線を落とした。綺麗に納めていた筈の靴紐が解けてしまっている。
「結びが甘いんだ。力を込めてきつく固定すれば簡単にはほどけん。そうすることで靴擦れ防止にも繋がるしな」
山本3曹は軽く日和の頭を小突くと、足元にしゃがんで紐を結び治してくれた。少し足首が痛いくらいきつく縛られたが、確かにこれなら簡単には解けそうになかった。
「見て見て日和ちゃん、カッコいい?」
作業服にライナーと弾帯を着けた「乙武装」の姿となった月音が日和の前で胸を張った。見た目こそ戦闘員そのものだが、どうも幼さが残る為か勇ましくは見えない。だが本人曰く、根拠はないけど強くなった気分らしく、精一杯にかっこつけていた。
すると急に冬奈がツカツカ足音を立てて月音の背後へと近より、彼女の背中と弾帯の隙間に手を突っ込んだ。
「ひゃあ!?」
なんて声出すのよ、と冬奈は月音の頭を叩く。
「弾帯の締めが甘いわ。こうやって手を入れられるようじゃダメ。限界まできつく締めなさい」
「えぇ? 苦しいよぉ…」
情けない声を出す月音だが、冬奈は容赦なく弾帯をきつく締め上げ、月音は小さな悲鳴をあげた。
「この格好、どんな時にするんでしょうか?」
一通り装着し終えた春香が自分の全身を見回しながら言う。
「そりゃ、戦う時でしょ」
夏希は手で銃を撃つ真似をした。間違いではないがあまりにも大雑把すぎる答えである。
「主に教練の授業で使うぞ」
二人のもとへ青木2曹が近寄ってきた。
「敬礼とか気を付けとか、自衛官の動作について練習する授業なんだが、その時はこの乙武装の格好になってもらう。勿論戦闘服装なんだから、陣内の言うとおり戦う時はこの格好になる。だからいつ出動がかかってもすぐに着替えることができるようにしなくちゃいけないぞ」
装着する物が多く、さらに細部まで装着要領が定められているこの乙武装は、どうしても着替えるまで時間がかかる。制服の状態から着替えだすと10分はかかるかな、と日和は予想していたが、青木2曹が言った「いつ出動がかかっても」という言葉の意味を、この時点では誰も理解していなかった。
官品の装着要領について教育を終えた後、入隊予定学生らは後任期中隊長である猪口3佐の訓話を受けることとなった。これは入隊式を迎える前に学生の心情を把握しておく為だ。猪口3佐はかなり穏やかな性格をしており、話をするにしても学生が緊張しないよう時折冗談を混ぜ、ここの生活はどうか、同期とは仲良くできそうか、など生活面も心配してくれた。そんな彼が、最後だけ表情を険しくした。
「先輩はどうだ、優しいか?」
とても親切です、と先に答えたのは日和だった。その他の者も彼女の言葉に頷いている。
「お前たちはまだお客さんだからな、あいつらも俺たちもまだ猫かぶってるんだ」
俺たち、というのは区隊長ら基幹隊員たちのことである。入隊式を迎えない限り日和たちはあくまで入隊予定学生で、部外者なのだ。一時的な体験入隊をしてくる者たちと大差ないのである。それは、まだ日和たちを自衛隊の仲間だとは認めていないという意味でもあった。
いいか、と猪口は続けた。一同の背筋が徐々に伸びていく。
「辞めるなら、荷物まとめて帰るなら今だ。入隊式まではお前らは隊員じゃないから、家に帰ってもお前らの職歴には傷がつかない。なにがあっても最後までやり通す覚悟がある者だけ入隊式を迎えろ。それがお互いの為だ」
日和たちの間に動揺が走った。無論、全員覚悟を決めた上でここに来ているわけだが、生半可な覚悟では足りないということだろう。
「お言葉ですが中隊長」
一人、冬奈は手を挙げて発言する。
「私たちは元より航空学生になることを望んでここに集まりました。どんな厳しい環境にも耐えうる覚悟はしてきたつもりです」
勇ましいな、と猪口3佐は返した。
「無論、そうでないと困る。これからお前たちが過ごす2年間は人生で最も濃い2年間と呼ばれる程厳しい生活だ。そこら辺の教育入隊とは訳が違うぞ。この中で現役の者はどれだけいる?」
冬奈を初め、数人が手を挙げた。
「現役のお前たちとて例外じゃない。自候生や補生の教育もそこそこ厳しかったんだろうが、それも3ヶ月程度で終わっただろう?航学はそれよりも厳しい生活が2年間だ。俺も教育幹部だから色々な基地で教育をしてきたが、はっきり言ってここの教育は航空自衛隊初等教育の中で最高峰の厳しさだ。多分幹候校よりも厳しいだろう」
「この中で高校時代、運動部に所属していた者は?」
中隊長の言葉に多くの者が手を挙げた。
「その中で全国大会、又はそれに準ずる大会に出場することを目指していた者は?」
数人が手を下ろす。
「お前たちも部活で相当なしごきを受けてきたと思う。体育会系という面では自衛隊とあまり変わらんだろうな。だが勘違いするな。部活以外の時間で、いかなる時も規律を求められたか? 家に帰れば支えてくれる家族がいなかったか? 授業中は? あまり怒らない先生とかいなかったか?」
手を挙げている者たちの顔から、どんどん自信というものが無くなっていく。
「ここには今まであったものが何一つない。テレビや漫画、ゲームといった娯楽もないし、携帯の使用も大幅に制限される。お前たちの心を支えてくれるのは、今周りにいる同期たちだけだ」
日和は隣に座る月音と顔を見合わせた。すっかり意気消沈し、顔から血の気が引いていた。もしかしたら自分も同じ顔をしているかもしれないと、日和は震える拳を強く握りしめた。
「入隊式までに少しずつ慣らしていくつもりではあるけど、それも体験入隊程度のものでしかない。入学式後は扱いがガラッと変わるからな、今が最後の分岐点だ。今一度自分の人生についてよく考えておきなさい。以上、終わり」
訓話が終わった後、日和たちは写真班に向かって身分証明書の顔写真を撮ることになった。ここで撮られた写真は身分証に使われる他、群庁舎一階のロビーにも飾られることになる。
「中隊長の話、どう思った?」
写真を撮る列に並びながら、後ろから月音が日和に声をかけた。
「どうって…」
怖じ気づいた、とでも言うべきなのだろうか。日和は後ろの月音に一度目線を送るも、すぐに正面に向き直った。
「私は、今まで厳しい環境で生きてきたわけじゃないし、今の段階で既に戸惑ってばかりだよ」
中学、高校と、日和は陸上部に所属しており、毎日のように走らされてきた。強豪校には及ばないものの、それでも十分体育会系の世界で過ごしてきたし、精神力も鍛えられてきた方である。だからこそ、着隊直後の自衛隊独特な空気にも、様々な環境の変化にも咄嗟に対応してこれたのだ。そんな彼女だが、体こそ反応するが心はついていけてなかった。こんな調子で本当にやっていけるのか、ついていけるのか不安で一杯だ。
「でも、それって当たり前なんだと思う。中学に入った時も高校に入った時も、何時だって最初は不安だったんだ」
「でも、やってこれた」
日和につられて思わずそんな言葉が口を出る月音。それを聞いて日和は大きく頷いた。
どんなに厳しい環境でも、いつか必ず慣れる時がくる。大切なのは、その時が来るまで折れることのない、強い心を保ち続けることだ。
「一緒に頑張ろう。きっと私たちなら大丈夫だよ」
「そう…そうだよね!」
月音はいつもの笑顔を取り戻す。そうしている内に日和の順番がやって来た。
「次、坂井学生。椅子に座ったら背筋を伸ばして、顎引いて」
何人もの写真を撮る為、撮影時間は一瞬だった。しかしその瞬間の日和の表情は、どこか自信に満ち溢れているようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます