その冬はとても暖かくて

 いつも彼女を見て走っていた。


 高校に入った時からずっと同じクラス、同じ部活で同じ種目。3年間ほぼ毎日、登校してから下校するまでの殆ど同じ時間を彼女と過ごし、共に走り、共に汗をかいて高校生活を送った。


 が、それだけと言ってしまえばそれだけで、友達以上の関係に発展することはなく、二人きりで登下校したりとか、一緒に遊びに出掛けたりとか、ついぞそんなことはなかった。


 それでも彼女のことが、いつも真っ直ぐ前を向いて走る彼女のことがどうしようもなく好きで、その気持ちを伝えることが叶わなかったとしても、いつまでも彼女の近くで走り続けることができたらと考えていた。


 そのはずなのに…


 彼女が、坂井日和が大学へ進まずに就職するという話を聞いたのは受験勉強に忙しい高3の冬の頃だった。


 自衛隊に入るらしい、と。


 どうして…という疑問よりは諦めの方が強かった。結局のところ、彼女は自分と別の世界で生きているのだ。これだけ長い時間を共にしながら、自分は彼女のことをなにも理解できていなかったのだ。


 きっともう二度と会うこともない。そう割り切って地元の大学に進学した。そこでまた新しい憧れの人を探せばいいのだ。


 しかし半年の時が経っても、日和のことを忘れることはできなかった。新しい友達も沢山できたし、女性とデートする機会だってあった。それでも日和以上に魅力的だと思える人はいなくて、できることならもう一度彼女に会いたいと願いながら、そんな未練を抱えて大学生活を送っていた。


 そんなある冬の日のこと、彼女と出会った。


 偶然だった。いつものように犬の散歩ついでにランニングをしていたら、近所の公園のベンチに腰掛ける日和を見つけた。辺りにはうっすらと雪が積もり、手がかじかむような寒さの中で一人寂しそうに、そして美しく儚げに…


 幻の様に見えた。


 同時に運命だと思った。


 こんな日にこんな場所で一体なにをしているのだろうと不思議に感じたが、そんなことは些細な問題だ。もう会えないと思っていた憧れの人が目の前にいる。これは神様がくれたチャンスというものだろう。ここで声をかけなければ一生後悔することになる。人生に幾つかの大きな分岐点があるとするならば、きっと今がその時なのだ。


 これまで踏み出して来なかった一歩を、今度こそ。胸が激しく波打つのを感じながら、直也はゆっくりと口を開いた。


「お前…日和か?」


 掠れるような情けない声。けれどそれはしっかりと届いて、一瞬驚き戸惑うような仕草を見せた後、彼女は天使のような笑顔を返してくれた。


「里見、だね? 久しぶり」


 瞬間、雪が溶けるみたいに身体が暖かくなり、きっと直也は日和に恋をした。





 一度歯車が噛み合い始めると頭の回りも早くなるもので、最初の一言を発してからの直也は、彼自身が驚くくらい積極的に日和へ歩み寄った。どうやら彼女は両親とあまりうまくいっておらず、休暇で帰って来たものの家にあげて貰えないという状況らしかった。


 チャンスだ、と直也は感じた。人の不幸を目の前にしてなんとも卑しい考えだが、困っている彼女をここで助けてあげれば、もしかしたら日和は自分の恋心に気付き振り向いてくれるんじゃないだろうか、と。


 最低な下心だという自覚はある。しかし日和の助けになりたいという気持ちに嘘はない。たとえ動機が不純であっても、彼女がそれで喜んでくれるならそれでいいじゃないか。


 行く所がないならうちに来ればいいと、遠慮する日和を半ば強引に家に連れ込み、とにかく会話が途切れないように話し続けた。こうして時間が経ってしまえば、日和は流されるままにうちに泊まってくれるだろう。願わくばこの冬休みの間ずっと彼女と一緒に過ごしたい。そんな風に直也は考えていた。


「里見はさ…」


「なんだよ、他人行儀な。高校の頃は名前で呼びあってただろ?」


 嘘だった。日和が誰かを名前で呼ぶ時は本当にその人を信頼している時(特に相手が男性の場合は)だけで、もちろん直也は彼女に名前で呼んで貰ったことなど一度もなかった。けれど彼女が少しでも自分のことを意識してくれたらと思い、こんな嘘を吐いてしまう。


 卑怯だろうか。けれど、好きな人に振り向いてもらう為に一生懸命になることが、そんなにいけないことだろうか。少なくとも彼女の場合は、この機会を逃したらもう次回はないかもしれないのだ。だったら今自分にできることを精一杯やりきって、後悔のないようにしたい。そうすればきっと、たとえこの恋が実らなかったとしても、気持ちを切り替えて次に進むことができるだろうから…


 胸が締め付けられるような感覚に襲われる。対して昔話をしては笑う日和の表情は、高校の頃からなにも変わってなくて、そしてたまらなく愛しかった。





 薄く澄んだ光が山々を照らす昼下がり、大きく広がる湖を横目に見ながら、日和たちはジョギングコースをそこそこのペースで駆けていた。まだ雪は積もる程降ってはおらず、足元に気を付けてさえいれば思い切り走っても大丈夫そうだ。


「はぁ…はぁ…ゴール! 結構いい運動になったね!」


 湖周り一周、約16km程あるコースを走り終えてなお、日和はまだまだ元気そうに身体を動かす。本当は途中で折り返して、比較的短い距離で練習を終わらせるつもりだったのだが、どうも今日は調子が良かったので本気を出してしまった。


 息が白くなる程に空気は冷たいのに、全身にぐっしょりとかいた汗が逆に心地いい。


「ふぅ…飛ばしすぎじゃないか? 最初は身体を慣らすだけって言ってたろ」


 一緒に走ってくれた直也の方は少し息が上がった程度だ。やはり陸上を専門として毎日練習している者とは体の出来が違う。


「そのつもりだったんだけどさ、なんか走ってると懐かしくなって」


「懐かしい?」


「高校生の頃はよくここで走ったなぁって。卒業してからまだ一年も経ってないのにね」


「ああそういえば、部活でも自主トレでも、ここでランニングすることは多かったな。随分昔みたいに思えるよ…」


 当時を思い出しているのか、直也は少し寂しそうな顔をする。きっと今が充実しているからこそ、少し前のことが遠い昔のように感じるのだろう。


「私、高校とか、地元のことあまり好きじゃなかったんだけどね」


「うん?」


「でも、楽しいこともあったんだなって今では思えるよ。部活で頑張ったこととか、こうやって湖の周りを走ったこととか、直也と過ごした時間とか…」


 帰省する度に、嫌いだった地元のことが少しずつ好きになれる。多分それは明や直也といった友人たちが気付かせてくれているのだ。あともう少し時が経てば、実家のことや故郷のこと、そして自分自身を好きになれるのだろう。


 きっとそれは遠くない未来に。今の時間が懐かしいと思える頃に。


「…日和、見てみろよ」


 呼吸を落ち着けて、直也が遠くを指差した。澄んだ空気の向こう側に見える大きな山、富士山だ。


「日の出くらいに来るとな、あれが朝焼けに照らされてオレンジ色に光って綺麗なんだ。見たことあるか?」


「一度くらいは、あるかな」


「春は高島城に行ってみろ。桜が満開で凄い綺麗だぞ。富士見台もいい。7月になるとニッコウキスゲっていう花が綺麗でな。黄色い花なんだけど…あと湖上花火大会。俺だけが知ってる絶景ポイントがあるんだ」


「へぇ…詳しいね」


「俺にとっては全部当たり前の景色だ」


 直也は日和の隣に立ち、軽く彼女の肩を叩く。


「日和が望むなら、俺はいくらでも長野ここの良いところを教えてやる。日和にとってもこれが当たり前の景色になるくらい、何度でも連れて行ってやる。だからさ…」


「…うん」


「日和の故郷でもあるんだ。もっと好きになって欲しい。嫌いだなんて、言わないで欲しい」


「ごめん、ありがとう」


 いいんだ、と今度はくしゃりと頭を撫でてきた。走った直後の汗まみれなので少し恥ずかしかったが、自分のことを大切に思ってくれてることが嬉しかった。


 彼と一緒なら好きになれるだろうか。今よりももっと強い自分になれるのだろうか。


 そしてそれが、恋をするということなのだろうか。


「帰ろっか」


 紅くなる顔を隠すようにタオルで汗を拭った。あまり長居すると身体を冷やして風邪を引いてしまう。帰ったら暖かいシャワーでも浴びて、少し休んだらまた出掛けよう。


 他愛もない話をしながら、二人は肩を並べて家路についた。





 日和がメールを送ってから、関はすぐに返信をくれた。地元に戻っていることや、高校の同級生と再会したこと、その彼から告白(のようなもの)を受けたことを伝えると、やはり彼は真面目に日和の相談に乗ってくれた。




From:関先輩

To:坂井日和


 まずはありがとう。こんな大切なことを、きっと誰に相談していいか迷っただろう。その中でも僕のことを選んでくれたことを嬉しく思うよ。


 告白されたんだね。坂井は女性としてもとても魅力的な人だから、そのこと自体には驚かないよ。おめでとう…と言うべきなのかな? 難しいね。


 さて、坂井はとても真面目な人だから、僕はあえて忠告をしておく。


 人に好きだと伝えることはとても勇気がいることだし、なにより自分の魅力に気付いてくれた人なんだ。相手が誰であろうと、その人には敬意を表さないといけない。


 けれどそのことと告白に応じるということは別の話だ。好きだと伝えられたからと言って、その相手を好きにならなきゃいけないという必要は全くない。


 なにを当たり前のことを、と思うかい?


 でも坂井は、今の自分が冷静で、ちゃんとその人のことを見極めた上で好きなんだと、そう自信を持って言えるのかな?


 僕には…坂井がひどく焦っているように見えるんだ。恋に恋してるというよりは、恋を「しなきゃいけない」と考えている。


 この間も言ったと思うけど、恋をしたいから人を好きになるんじゃない。気付いたら人を好きになっていて、それが恋だったと後で気付くんだ。


 坂井に告白してきた人は、本当に良い人なのかもしれない。坂井は本気でその人に恋をしているのかもしれない。そこは僕にも分からないけど…


 でもね、坂井に告白をしてきたその人が、心から坂井のことを大切に想っているかどうか。そこはしっかりと見極めないといけないよ。恋は盲目…とも言うからね。


 それじゃあ、どうか良い休暇を。




 携帯片手に日和は何度もその文面を読み返す。祝福こそしてくれているが、決して心から喜んでいるわけではないという内容。それだけ真剣に考えて返信してくれたのだと思うと、やはり相談する相手は彼で間違いなかったのだなと思う。


「焦っている…か」


 似たようなことを忘年会で月音に言われて気がする。もしかして今の自分は、恋に対して盲目的になっているのだろうか。しかし言われてみれば、どこが好きなのかと答えれる程に、自分は直也のことを知らない気もしていた。


「出かけるのか?」


 直也に声をかけられ、別にやましいことをしているわけでもないのに、日和は隠すように携帯をしまった。


「うん。ちょっと友達と会ってくる」


「ふぅん?」


「明だよ。藤風明。ほら、一緒のクラスだった…」


 関東の大学に通っている明だが、今は冬休みなので長野こっちに戻って来ているらしい。日和が連絡すると、すぐに「じゃあご飯でも行こうよ」と誘ってくれた。


「えっと、合唱部の?」


「そうそう。さすが、よく覚えてるね」


「クラスメイトだしな」


 怪訝そうに眉をひそめていた直也の表情がふっと柔らかくなる。会ってくるのが女友達で安心した、というところだろうか。


「一緒に来る?」


「いや、いいよ。俺が行って水をさすのも申し訳ないし。夕飯は?」


「それまでには帰ってくるつもりだけど、遅れるようなら早めに連絡するよ…ふふふ」


 クスクスと笑う日和に、直也は首を傾げる。


「どうかした?」


「いや、なんか家族みたいな会話だなぁって」


 里見家にお世話になり始めてからもう数日。彼の家族は皆とても優しくて、まるで家族の一員のように日和に接してくれている。実家に帰ることすらできなかった日和にとっては、ここがあまりにも居心地よくて、このままではいけないと思いつつもその優しさに甘えてしまっていた。


 もうすぐ大晦日、そして正月がやってくる。こんなに良い人たちだからこそ、家族水入らずで過ごしてもらいたい。このままではいけない。いい加減自分の本来の実家に帰らないと、と日和はずっと考えていた。


 そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、直也はまた寂しそうな顔をして、なにかを言いたそうに強く拳を握る。


「じゃ、行ってくるね」


「うん…いや、日和」


 意を決したような声で呼び止められた。このタイミングで彼がなにを伝えようとしているのか、なんとなく日和にも察しがついて、だから特に驚きもせずに振り替える。


「多分、お前なら気付いているんだろうから言うけれど…」


「うん」


「俺、日和のことが好きだ。ずっと前、きっと高校の頃から。伝えたい、伝えなくちゃと思いながら、結局そのまま放っておいたけれど、今なら言える」


「…うん」


「お前、ずっとうちにいろよ。友達とかじゃなくて、家族としてさ。そしたら日和も苦しい想いをしなくてすむし、俺が絶対に幸せにしてやるから」


 強い、意志のある言葉だった。恥ずかしがることもなく、真っ直ぐに日和の目を見て、真剣に。だからこそ日和も、決して目を逸らさずに直也の気持ちを受け止める。


 関が言ってくれたように、相手に敬意を持って。


「プロポーズ…ってことでいい?」


「言い換えるなら「結婚を前提に付き合ってくれ」といった感じかな。ベタだけど」


「どんな言葉でもいいよ。なんだろう…素直に嬉しいよ」


 嬉しい。胸の奥がじわりと暖かくなる。高校生の頃にも、航学の生活でも感じたことのない麗らかな気持ち。多分、これは恋だろう。今までに経験したことがないけれど、間違いなく自分は直也のことが好きなんだ。


 焦って盲目的になってはいないかと関は心配してくれたが、きっとそれも杞憂に過ぎないのだろう。


「ありがとう。しっかりと考えて、私の言葉で、改めて返事をさせてもらうね。それでもいいかな?」


「もちろん。待ってるよ」


 彼が本気で想いを伝えてくれたから、日和も本気でその答えを考える。その場で思い付くような言葉じゃなくて、真面目に、慎重に…時間がかかってもいいから。


 気を付けて、と見送られて日和は直也の家を出た。太陽はもうほとんど山際に隠れ、薄暗い街の中を冷たい冬の風が駆け抜けていく。


 火照っていた身体が、頭が少しずつ冷えていって、今の気持ちを整理するにはちょうどいいかもしれないなと日和は思った。



 だからだろうか。


「あ…れ?」


 一瞬、心にノイズが走る。


 直也の言葉が何回も繰り返され、なにかが胸の中で引っかかった。


 とても幸せな気分のはずなのにどうして、彼が伝えてくれた想いのどこに、なにが日和を惑わせるのか。



 師走の長野を包み込む空気は氷のようで、しかしそれでも彼女が何かに気付くにはまだまだ春の陽気のように暖かかった。

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