小さな救難信号

 昨夜はどれくらい呑んだのだろう、と散らかったダイニングを眺めながら日和は小さく息を吐く。下宿の中はとても静かで、彼女以外はまだ寝ているようだった。


 片付けをするのはみんなが起きてからでいいかと考えていると、日和はテーブルの上に妙なものを見つけた。


「置き手紙、かな?」


 丸っこい字で



先に帰ります、ありがとうございました

桜庭



 そう書かれたメモ用紙が、空になったコップに敷かれて置いてある。その傍らにはミネラルウォーターが人数分買ってあり、そんな皆への気遣いがなんとも春香らしかった。


 早速その一本を手に取り、蓋を開けて飲む。まだ少し冷たさが残っているあたり、ここに置かれてからまだ時間は経っていないように思えた。


(本当は一緒に帰ろうかと思ってたんだけどな…)


 もともと春香は今回の外泊にあまり乗り気ではなかった。同期の皆に迷惑ばかりかけていて、その上で休日に遊び回るのは後ろめたい、と。


 そんな心の負担が少しでも和らげればと思っていたのだが、日和の言葉では彼女の心を動かすまでには至らなかったようだ。


 焦っても仕方ないとは分かっているのだが、同期として彼女の力になれないというのは、やはり悔しいものがある。



「おはよー、日和ちゃん」


 少しして、まだ眠そうに目を擦りながら月音が起きてきた。


「早くないよ。もう10時だよ?」


「むぅぅ…他のみんなは?」


「まだ寝てる。春香は先に帰っちゃったみたいだけど」


 水と一緒に春香の起き手紙を渡すと、月音は少し驚いた顔をしてそれを受け取った。


「昨日はあんまり楽しくなかったのかなぁ?」


「そんなことない、と言いたいところだけど、どうだろうね」


 テーブル上を軽く片付け、二人は席に着く。昨日はどれくらい呑んだのかとか、いくつか言葉を交わすが、いまいち盛り上がらない。いつもの二人なのだけど、今日は少しだけ空気が重たい。


「春香ちゃんは、やっぱり辞めるつもりでいるのかな?」


 その名前を出され、日和は顔を歪ませた。


「うん、昨日はそんなこと話してたよ」


「…酔った勢いとかじゃなくて?」


「冗談でこんなこと言う子じゃないよ、春香は」


「だよねぇ…」


 冗談であったならどれ程嬉しいだろう。辛いことでも嫌なことでも、全部酒で忘れられるくらいに春香が軽い性格だったら良かったのだが、いかんせん彼女は真面目過ぎた。


 真面目だからなんでも真剣に考えるし、真面目だから自分を責めてしまう。彼女の一番の武器であり、一番の欠点だ。


「私も、春香ちゃんからそこそこ相談されてたんだけどね?」


 月音と春香は同じ教授班だ。座学の間はずっと一緒にいるわけだから、春香と過ごしている時間は、7区の中で一番月音が長いかもしれない。


「空を飛ぶってことを、私たちはあまりに軽く考えてるんじゃないか、その責任の重さに耐えきれないって言ってたんだ。難しく捉えすぎだよ、って返したんだけど…」


「でも、春香の言っていることも分かる気がする。今の私たちは目を剃らしているかもしれないけど、いつかは向かい合わないといけない問題なわけで…そう思うと「続けていればいつか慣れる」なんて、無責任なことは言えないよね」


「そうかなぁ? 日和ちゃん、本当にそう思う?」


 一口水を飲んで月音は続ける。


「責任なんてさ、初めから背負えないくらいの重さなんだよ。ただでさえ私たちはお金を貰いながら勉強させてもらって、将来は何十億という飛行機を飛ばすことになる。場合によっては人を殺さないといけないかもしれない。そんなの、個人で背負える責任じゃないよ」


 その為に組織があるんだと月音は言う。命令に従って訓練し、戦う。その時生まれる責任は命令を発した者だけが負い、命じられた者が咎められることはない。


 軍隊(厳密には自衛隊は軍隊ではないが)の基本だ。その基本があるからこそ「上官の命令に服従する義務」というのが自衛隊法に明記されている。命令に従う代わりに、そこに生じるあらゆる責任から個人を守ってくれるシステムが確立されているのだ。


「だから…というつもりはないけど、もっと軽く考えてみようよ。空を飛びたい! 今はそれだけでいいの。国民の負託が~とか、自衛官たるもの~とか、重たくて持てないものは持たなくていいんだよ。私たちがもっと大きくなって、背負えるようになったらその時背負う。そしたらほら、随分軽くなるんじゃない?」


 春香同様、月音はとても頭が回る。理屈で物事を考えるのが得意で、自分なりの答えを導き出すことができる。違いがあるとすればその方向性だろうか。


「それとね、春香ちゃんの将来のことでも、私たちは責任をとれないんだよ?それは私が日和ちゃんに、日和ちゃんが私に対してもそう。どういう答えがその人にとって良い選択なのか、それは本人以外に分からない」


「じゃあ、私は春香になんて言ってあげたら良かったと思う?」


「うぅん、私も分からないけど…もっと単純な言葉じゃないかな、って。そこは理屈じゃない部分なのかなぁ」


 やはりそう簡単に答えは出てこない。どうしたらいいのかと頭を抱えていると、そこへ夏希たちが起きてきた。


「あれ、二人とも早いねー。もしかして呑み直してんの?」


「そんなわけないでしょ! ほら、みんな起きたんだから片付けするよー」


「ちゃんと証拠は消しとかないとね。下宿点検で区隊長がビールの空き缶を見つけた、なんてのは勘弁よ?」


 月音が動き出し、日和も少し遅れて席を立つ。春香の姿がないことに皆気付いたようだったが、特にそれを口にする者はいなかった。





 一番早く異変に気付いたのは秋葉だった。


 下宿の片付けを終えた後、日和たちはそれぞれ好きな時間を過ごしていたのだが、その中でも彼女は比較的早めに基地に帰っていた。


 外出から帰ってきた学生は外出証を当直室に返納するのだが、その際誰が帰隊しているのか確認することができる。そこで秋葉は、春香がまだ基地に戻って来ていないことに気付いたらしい。


「ただ外出しているだけじゃないの? そんな慌てる話でも…」


 動揺している秋葉を日和は電話越しに落ち着かせる。その時日和は、月音と一緒に買い物をしている最中だった。


『電話、繋がらないんだ』


「えっ?」


『念のため春香の携帯にかけてみたんだけど、出てくれないんだ。もう二時間は経ってる』


 緊急時に即応できる態勢を整える為、外出中は常に連絡手段を確保するよう徹底されている。当然、真面目な春香はいつもそれを守っており、外出中に連絡が取れなかったことなど今まで一度もなかった。


 これは確かに様子がおかしい、と日和は直感する。いつもならそこまで騒ぐ話ではないだろうが、今の春香は非常に不安定な状態だ。


「他の皆にはこのこと話してるの?」


『いや、まだ』


「秋葉はそのまま基地にいて、春香の帰りを待ってて。冬奈と夏希には、春香が立ち寄りそうなところを探してもらおう」


『分かった。日和は?』


「月音と一緒に、一度下宿に戻ってみる。どうしても見つからなければ、その時は…」


 当直か、もしくは区隊長など基幹隊員に報告となるだろう。しかし一度話を大きくしてしまえば、もう後には引けなくなる。できることなら自分たちの間だけに事を収めておきたいというのが日和の本音だ。


「定期的に連絡は入れるね。秋葉は冬奈たちにこのことを伝えて」


 携帯を閉じ、隣にいた月音と目を合わせる。会話の全ては聞いていないが、大体の状況は理解できているようだ。


 二人は持っていた買い物かごを戻し、下宿に向かって駆け出した。





 自分は一体なにをしているんだろう、と春香は真っ暗な携帯の画面を見つめる。今やっていること、やろうとしていることがどれ程大変なことなのかはよく理解している。


 また皆に迷惑をかけてしまうな…


 春香の中にある大きな良心が悲鳴をあげる。だけどそれもこれで最後だから。これで全部踏ん切りがつくから。


 カタンカタンと車輪が線路を叩く。窓の外を流れる景色を、春香は焦点の定まらない目で眺めていた。





 下宿に戻ってもそこに春香の姿はなかった。ダイニングも彼女の部屋も綺麗に片付けられており、日和が最後にここを出た時となにも変わっていない。


 取り敢えず秋葉たちに現状を伝えて、日和たちは再び下宿を出た。今後は街中を探すことになるのだが、もうあまり時間がない。日は落ち、辺りはすっかり暗くなっている。消灯前の点呼までに基地に戻らなければ帰隊遅延として罰を受けることとなる。


 それで済めばいいが、場合によっては脱柵(脱走すること)と見なされるかもしれない。


(逃げたかな…)


 あり得ない話ではないと日和は考えていた。自衛隊において脱柵はかなりの重罪であり、逃げた隊員が捕まるまで徹底的な捜査が行われる。これに捕まった隊員はそれなりの処分を受け、大抵の場合はその後退職していく。


 これ以上続ける気力もなく、辞めると言い出すこともできない者が最終的に行き着く答えが「脱柵」だ。今の春香の心内は、まさにその状態ではないだろうか。


「ねぇ日和ちゃん、メモ用紙にあった「先に帰ります」って、本当に基地に帰るって意味だったのかな?」


「私も同じこと考えてた」



先に(実家に)帰ります

(今まで)ありがとうございました



 あの置き手紙は、そういう意味で書かれていたのではないだろうか。どうしてその可能性に気付けなかったのだろうか。辞めたいと相談されたその翌日であったにも関わらず、彼女が発信するSOSを受けとれなかったことが日和は悔しかった。


「もし実家に戻っているんだとしたら、もうとっくに着いてるよね…春香ちゃん家って、確か広島だったから」


「朝からこっちを出ているんだとすれば、そうだろうね」


 だとすればこれ以上は日和たちにできることはない。今日のところは大人しく基地に戻り、当直や基幹隊員にこのことを報告しなければならないだろう。


 しかしそれでもまだ時間的に多少の余裕はある。まだ春香がいなくなったと決まったわけではないのだから、ギリギリまで粘ってみようと日和が歩き出したその時だった。


 ポケットから鳴る短い着信音。通話ではなく、メールが届いたことを告げる音。基地にいる秋葉からか、それとも冬奈か夏希からか。いずれにしても朗報であって欲しいと願いつつ、日和は携帯を取り出した。


「え…?」


 画面を見て驚き、思わず立ち止まる。


「どうかした? もしかして、春香ちゃんが基地に帰ってきたとか?」


「いや、これ…」



 日和に届いていたのは、件名も本文もない空メール。



 送り主は、春香だった。

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