ここにいる

 突然春香から送られてきた、なにも書かれていないメール。それが一体なにを意味するのかは分からない。急いで日和は電話をかけてみるが繋がらなかった。メールを送信したあと、すぐに電源を切ってしまったのだろう。


 どうして…なぜこのタイミングでこんなメールを…


 頭をフル回転させて考える。きっとこれはなにかのサインだ。自分が春香の立場だったら、どんな想いを込めてこのメールを送るだろうか。


「日和ちゃん?」


 賭けになるだろう。ある答えにたどり着き、日和は決心して頷いた。


「月音、夏休暇で帰省する時、春香はどうやって帰ってた?」


「新幹線だよ。新山口駅まで一緒に行って、そこで別れたんだ。それがなにか…」


 そこまで言って月音も気付いたのだろう。一瞬驚いた顔をしてみせ、すぐに目付きを変える。


「いるんだね? まだそこに…」


「多分だけど、いる。春香はまだ逃げてなんかない」


 もう戻れなくなる最後の一歩を踏み出す場所。悩んで、何時間もそこに佇んでしまうような場所。それが新幹線のホームだ。


 夏休暇の始まりの日、実家に帰ることが怖くてずっとホームのベンチに座っていたことを日和は思い出す。そして偶然そこに奏星が現れ、自分の背中を押してくれたことを。


 きっと春香はそこにいる。悩んで、怖くて、一人震えていることだろう。


 今度は自分が助ける番だ。日和は大通りに駆け出し、最初に目に入ったタクシーを止めた。電車を使えば防府駅から十数分だが、本数が少ない。車で直接新山口駅を目指したほうが早いだろう。


「今から新山口まで行くと、多分帰隊時間には間に合わない。私一人で行ってくるから、月音は先に帰ってても…」


「いいや、違うね。私が一緒じゃないと間に合わないんだよ」


 迷いのない日和の動きに、月音も瞬時に決心したようだ。急いでタクシーに乗り込むと、すぐに携帯を取り出して電話を始めた。


「もしもしお父さん? 仕事終わった? …うん、そっか、良かった。ちょっとお願いがあるんじゃけど…そう、小郡から基地まで…急ぎよ! 超特急! お父さん得意じゃろ? …うん、ありがとう」


 家族と話しているようで、少しだけ方言が混ざっている。普段は標準語だが、こちらが彼女の素の姿なのだろう。


「私のお父さん、この辺で働いてるんだ。裏道も沢山知ってるから、タクシーよりかはうんと早く着く。帰り道だけでも乗せて貰えば、きっと門限に間に合うよ」


 携帯を閉じ、ニッと笑ってみせる。こんなギリギリの状況であっても月音は笑うことを忘れない。その笑顔が、日和にとってはとても頼もしかった。





 もう決めたことなのに、後戻りはしないと思っていたのに。


 ずっと沈黙させていた携帯を一瞬だけ起動して、中身のないメールを送った。それがなにを意味しているのか、自分自身よく分かっていない。


 未練だろうか、悲鳴だろうか。それとも、なにかへの期待だろうか。


「坂井さん…」


 名前を呼び、昨日の夜のことを思い出す。どうして彼女を選んだのか、それも分からない。けれど何かが変わるとするなら、変えてくれるとするなら彼女しかいないだろうと思う。


 列車が来ることを告げるアナウンス。ややあって眩しいヘッドライトの光と共に、上りの新幹線がホームに進入してきた。



 遠くで誰かの声が聞こえた気がした。





 これは春香の最後の叫びだ。助けて欲しいという、聞こえてこないSOSだ。


 あれからなにも反応しない携帯を握り締め、日和は頭を絞る。残された時間は少なく、それなのに未だに春香を引き留める言葉は見つからない。


 車は新山口駅のロータリーへと滑り込む。それと同時に、高架の上を走る広島方面行きの新幹線が見えた。確信は全く持てないが、きっとあれに春香は乗り込むのだろう。


「おじちゃん、いくら?」


 すぐに下車できるように月音が支払いの準備をする。彼女はこういう細かい部分で気を使えるので、一緒に来てもらって正解だったなと日和は思った。というより、こんなことに気付けるほど今の日和には余裕がない。


 停車してすぐに車を飛び降りる。列車はもうホームに入線し始めており、発車するまであと数分しかないだろう。


 しかし、それだけでも十分だ。


「春香、いるんでしょ?!」


 そこに居るかどうかも、聞こえているかどうかも分からない。それでも構うもんかと日和は声を張る。


「向いてるとか向いてないとか、最初から、そんな話をすべきじゃなかったんだ!」


 走る。人の視線なんて気にならない。


「どういう答えが春香にとって正解なのか、そんなの、私に決めれることじゃない!」


 理屈じゃなくていい、感情的な言葉でいいという月音の言葉を思い出す。どんなに考えても良い言葉は見付からなかったのに、いざ勢いだけで口から出してみると、するすると心の内が吐き出されていった。


 人々の間を縫うようにすり抜け、階段を駆け上がる。新山口駅の構内はそこまで広くなく、新幹線のホームまでさほど距離はない。


「そんなことで春香の心が動くわけなかったんだ! 私は、春香を舐めてた!」


 まるでアクション映画みたいに改札機を飛び越える。こんな思いきったことができるなんて、日和自身も驚いていた。


「ちょっとお客さん?!」


「入場券! 大人2枚で!」


 日和を止めに行こうとする駅員に月音がお金を見せる。訳ありだ、許せと目で訴えると、駅員もすんなり応じてくれた。


 列車が止まったことを知らせるアナウンスが聞こえ、発車まであと数十秒程しかないことが分かった。それでも日和には間に合う確信がある。上りのホーム、自由席の車両に近い階段、全て日和は分かっている。


「もっと単純で良かったんだ! 私は、私は!」


 最後の階段を駆け上がった。新幹線のホームほ長く、そこそこ人もいて春香の姿は見えない。それでも日和は思いのたけを込めて叫んだ。


「春香ぁぁ!」





 名前を呼ばれた気がした。


 とても聞き慣れた声だった。


 まさか…そんなはずはない。あんなメールひとつで、ここに来れるはずがない。


 未練から聞こえた空耳だろうか。そうだとしたら、まだ自分はここを発ちたくないのだろうか。


「あっ…」


 動けないでいると、目の前で列車の扉が閉まった。これで帰ろうと思っていた新幹線。それが何事もなかったように、時刻通りに発車していく。


 お前はまだこれに乗るべきではない。そう言い残したようにも見えた。



 下車した乗客が数名いるだけで、ホームはほとんど人がいなくなる。そうなって初めて二人は相手を認識した。


 いた。本当にいた。


 安心からだろうか。二人は溢れる涙を拭いもせず、ホームを走り出す。


「春香…春香!」


「坂井さぁん!」


 必死に、絞り出すように名前を呼ぶ。もう逢えないはずだったその人。逢いたくて仕方なかったその人の名前を。


 ちょうど中程で二人は互いを抱き締める。強張っていた身体から力が抜けていき、膝から崩れ落ちて泣いた。


「ごめんなさぁぁい…!」


 謝るな、と日和はさらに強く春香を抱き寄せた。


「もう辞めるなんて言わせない。私は…春香と一緒に空を飛びたいから!」


 瞬間、春香の心臓が跳ねた。同時に、心の中で絡まっていた想いがするすると解けていく。


 ああ、そうか。ようやく分かった。


 パイロットになりたいとか、自衛官になりたいとか、最初からそんなものは求めていなかったのだ。


 作らなくても、本当の自分でいられる場所。心が通じあって、助けを呼べばこうして駆け付けてくれるような仲間がいる場所。友達なんて軽い言葉では表せない、そんな人達がいる場所。どこにも居場所がなくて、だからこそ探し求めてやって来た場所。それが航学だった。そしてその選択は間違ってなかったと思ったし、今もそう感じている。


 ずっと守っていたい場所があるから、大切な人がいるから頑張れる。戦闘訓練も射撃訓練も、そこに大きな意味なんて、自分には必要ないのだ。


 この仲間たちと一緒にいたい。少なくとも今はそれでいい。それだけでいい。航学を続ける理由なんて、春香にはそれで十分だった。


「はぁっ、はぁっ! 速すぎるよ日和ちゃん…見失うかと思った…」


 やや遅れて月音も駆け付けてくる。苦しそうに息を切らすが、春香の姿を確認してすぐに笑顔になった。一つは無事に間に合ったという安心から。そしてもう一つは迷いの無くなった春香の瞳から。


 春香は日和と立ち上がる。もう大丈夫だから。そう言っているように月音には見えた。


「ま、二人に水を指すようで悪いんだけどさ、そろそろ帰らないと時間的に不味いんだよね。うちのお父さん、もう駅前に来てるみたいだから、取り敢えず帰ろう?」


 月音は腕時計をちらと見せ、門限までもう時間がないことを告げた。どうやらまだハッピーエンドというわけにはいかないようだ。


「そうだね、帰隊遅延するわけにはいかない。でも、間に合うかな? 大人しく当直に連絡したほうがいい気がするけど…」


「そこは大丈夫、任せてよ」


 新山口駅のある小郡から防府まではそれなりに距離がある。もう間に合わないのではないかと日和は思っていたが、対して月音はそこまで慌てていなかった。





 駅を出ると目の前のロータリーには真っ赤な日産GT-Rが停めてあり、月音の父親がエンジンを吹かしていた。曰く彼はその昔「走り屋」を自称していたらしく、県内であれば知らない道はないという。


「門限が2130。正門から隊舎まで徒歩で移動しなきゃだから、15分には基地に着きたい。行ける?」


「なんじゃ、そんなもんか? 任しちょけ」


 すっかり暗くなった田舎道をGT-Rがかっ飛んでいく。大通りや裏道を縦横無尽に走り回り、まるで戦闘機にでも乗っているかのようだ。


 この調子なら余裕で門限に間に合うだろう。心に余裕が生まれてきたのか、日和と春香の二人に笑顔が戻ってくる。


 あっという間に防府市内までたどり着き、田島山の航空灯台が見えてきた。くるくると光を回すそれが目に入ると、いよいよ基地に帰って来たのだなと感じるものだが、今日はその気持ちが一層強い。


「ほれ、もう基地じゃ。明日からまた訓練とか頑張ってな」


「うん、お父さんも仕事頑張ってね。あと、安全運転で帰るそよ?」


「なに言うちょる。俺はいつでも安全第一じゃけ」


「どこがぁ!」


 親子揃って楽しそうに笑う。きっと普段からこれくらい仲が良いんだなと、日和は少し羨ましく思った。


「坂井さんと桜庭さんだっけ?」


「あ、はい」


 基地の正門直前になって急に話をふられる。


「月音から話は聞いちょるよ。良い友達を持ったみたいで、親としては嬉しい限りじゃ。これからも娘と仲良くしてやってくれな」


「ちょっとお父さん! あんまり恥ずかしいこと言わんでよ!」


 聞き流していいからね、と月音が後部座席に身を乗り出す。照れているのか、少しだけ顔が赤い。


「友達じゃ…ないです」


 と、ずっと黙っていた春香が口を開く。


「同期ですから」


「うん?」


 月音の父にはあまり意味が伝わらなかったのだろうか、キョトンとした顔をする。


 けれど日和と月音にはちゃんと分かっていた。友達でも親友でもない。それ以上の絆で結ばれた、強い仲間。それが自衛隊、そして航学における同期という存在だ。


 この仲間たちといつまでも何処までも飛んでいく。この仲間たちとなら飛んでいける。その居場所を守る為なら、どんな壁だって乗り越えられる気がした。





 週の始まり、月曜日から早速行われる戦闘訓練。土日の間にピカピカに仕上げた戦闘服や網上靴も、あっという間に泥だらけになる。


 草の根を分け、地面を這いずり回る学生たち。そして頭上から浴びせられる強い日射しと助教らの怒声。いつも通りの光景だが、今日は少しだけ空気が違う。


「突撃に! 進め!」


 春香の合図で第3分隊は敵陣地に突っ込んでいった。引き金を引き「ババン」と大きく叫ぶ。次いでに銃剣を標的に突き刺し、これで制圧は完了だ。


「四周警戒!」


 分隊員が散らばり、敵が潜伏していないことを確認する。訓練なので、当然そこに敵がいるはずはないのだが、これも大切な戦闘行動の一部だ。


「報告!」


「1班、異常無し!」


「2班、異常無し!」


 それぞれの班長から、分隊長である春香に報告が上がる。特に異常がなければそこで戦闘を終了だ。


「剣取れ、弾抜き安全点検!」


「よろしい、3分隊は状況終了。良い指揮だったぞ」


 助教の指示で訓練が終了し、一同はほっと息を吐く。所々つたない部分こそあったが、春香の分隊長動作に大きな不備はなく、分隊長なかった員もスムーズに行動することができた。先週までの頼りない分隊長はどこへ行ってしまったのだと、同期たちは目を疑う。


「いつの間にか腹くくりやがったな、あいつ」


 遠目に春香を見ながら沢村が呟く。今週になっても彼女がなにも変わらないようなら自分から一言ぶつけようと考えていたが、それも必要なさそうだった。この土日で彼女に一体なにがあったのかは分からないが、特に気にならなかった。


 助教から分隊長動作について細部指導を受け、合格という評価を貰う春香。彼女が久しぶりの笑顔を見せた時、ふと沢村と目が合った。


 ありがとう。そう春香の口が動いたように見えた。しかし沢村としては、彼女に礼を言われるようなことはなにもしていない。戦闘訓練の分隊長を無理矢理勤めさせて、むしろ恨まれてもいいくらいだ。


(けどまあ、それであいつが変わるきっかけになったなら…)


 今は感謝されておこう。少なくとも、いつもみたいに「ごめんなさい」と謝られるよりかは、ずっとましな気分だった。

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