呉・江田島研修

 広島県呉市。明治時代に港が作られてからずっと軍港都市として栄えてきた。現在でも海上自衛隊第4護衛隊群や第1潜水隊群の本拠地となっており、埠頭には多くの護衛艦や潜水艦が停泊している。


 その日学生たちが目指していたのは、呉と海を挟んで向かいに位置する江田島市。まるで上陸用舟艇のような見た目の50トン型運貨船に乗り込み、瀬戸内海を渡って行く。学生たちが乗っている場所はもともと荷物を積み込むスペースなので、乗り心地は良くない。さらに外の様子も分からないので、ちょっとつまらないなと日和は感じていた。


 呉・江田島研修。萩、そして築城・小月に続いて三度目の研修訓練だ。一日目に江田島の海上自衛隊幹部候補生学校で海上自衛隊の文化や歴史を学び、そこで一泊する。二日目はまた呉基地に戻り、護衛艦などの見学が行われる予定だ。


 運貨船が岸壁に接岸され、学生たちは次々と上陸していく。船から顔を出すと、少し冷たい潮風がつんと香った。


「江田島かぁ。緊張するね、日和ちゃん」


「うん、気を引き締めていこうね」


 今回の研修では幹部候補生学生に入校中の学生たち、それも海自航学出身者に面倒を見てもらう予定だ。空と海で組織が異なるとは言え相手は航学の先輩、絶対に失礼があってはならない。


 うちも相当だけど、江田島はもっと厳しい場所だからね。研修と言っても、お客さん気分で行ってはいけないよ?


 対番の巴がそう忠告したことを日和は思い出す。海上自衛隊は帝国海軍の頃から続く伝統を重んじる組織。その昔は海軍兵学校が置かれ、今もなお多くの幹部を輩出している江田島は、その総本山とも言うべき場所だ。航学とは比べ物にならないほどの歴史や伝統、それ相応の厳しいルールがそこにはあるのだろう。


 船からバスへと乗り換え、学校を目指す一行。目的地はもうすぐだ。


「月音は先輩からなにか聞いてる? 注意点とか…」


「えっと、若宮先輩が言うにはねー」


 パラパラとメモ帳を開く月音。今回の研修にあたっては、各自が先輩から色々とアドバイスを受けている。


「5分前行動は必ず守れ。先輩の説明には必ずリアクションを取れ。食堂では絶対に椅子を引き摺るな、とかとか。変わったのだと「この床は?」と訊かれたら「初代金剛」と答えろって…なんだろこれ?」


「金剛っていう軍艦の甲板が、施設内のどこかに使われてるらしいよ。私も詳しくは知らないけど…」


 そもそも船にあまり興味がない。学生の中には、飛行機以外のことに無関心だという者が少なくない。というのも、元々パイロットになりたくてこの世界に入った者が殆どだ。空自の装備品ならともかく、旧海軍が保有していた艦船の名前なんて分からなくて当然だ。


 なぜ海自の部隊なんか研修するのか。どうせなら空自の部隊、それも戦闘航空団などの実戦部隊を見に行ったほうがモチベーションも上がるというもの。せめて航空機を扱っている部隊に行きたかったと、数人の学生たちが愚痴をこぼしていた。


 しかし日和は今回の研修を、実は意外と楽しみにしていた。 普段見ることができない海上自衛隊の内側。特に幹候校かんこうこうや護衛艦の内部を見せてもらえるなど、今回が最初で最後だろう。


 日和の好奇心をかきたてる理由として、海自航学の同期である臼淵奏星うすぶちかほの存在がある。彼女が将来勤務する場所。たとえ自分に直接関係がないのだとしても、そこがどんな場所なのか、友達として知っておきたかった。と、月音に言うときっと嫉妬するので、今は黙っておくことにする。



 江田島には幹候校の他にも第1術科学校や教育参考館などの施設が置かれているため、敷地内はとても広かった。さすがに全てを観て回る程の時間はない為、一般人に公開されているものとほぼ同じルートを学生たちは見学していく。自衛隊の建物には見えない、歴史を感じる赤煉瓦の建物。戦艦「陸奥」の主砲や、その他様々な艦の装備品。普段触れることのない海上自衛隊の文化や歴史に、初めは無関心だった学生たちも、徐々にテンションを上げていった。


「この階段を登った所にあるのが遺髪室だって」


 教育参考館に入ってすぐ目の前にある大きな階段。その前に立った日和は、資料を見ながら月音に教える。


「遺髪?」


「東郷平八郎や山本五十六、あとはネルソンの遺髪が納められてるみたいだよ」


「すごーい! 誰だか分かんないけど」


「いやいや、前者の二人くらいは知っときなさいよ」


 通りかかった冬奈が月音の頭をコツンと叩く。いつも通り説明役の登場だ。


「冬奈、分かるの?」


「どれも有名な海軍軍人よ。確かネルソンはイギリスの軍人だったかしら」


 日本海軍は古くからイギリス海軍の影響を色濃く受けてきた。交流も盛んに行われており、その繋がりは海上自衛隊となった現代でも変わらない。


 イギリス海軍最大の英雄とも呼ばれるネルソン。どのような経緯によるものなのかは分かっていないが、彼の遺髪がここに納められているということも、英国海軍との絆を象徴するものの一つだろう。


「詳しいんだね、冬奈ちゃん」


「高校の頃、世界史の授業でたまたま出てきただけよ。興味があるわけじゃないわ」


 そう言いつつも冬奈は熱心に展示物を見て回る。自衛官という職業柄、ミリタリー関連の歴史には関心があるようだった。


 自分も見習わなければと、日和も参考館の中を歩き回る。旧海軍の戦艦や巡洋艦御紋章、海軍軍人の私物など、歴史的資料価値のあるものが沢山展示されている。が、こういったものに全く興味を持って来なかったので、どう価値があるのかがわからない。せいぜい「珍しいな」という感想を抱く程度で、自分の知識の浅さを日和は痛感した。


 と、一人つまらなそうに部屋の隅で佇む学生を見つける。沢村だ。


(相変わらず可愛げがないなぁ…)


 他の学生は楽しそうに見学しているというのに、彼はまるで子守りでもする父親のように、どこか達観したような目で同期を眺めていた。恐らく本当に興味がないのだろう。


「あんまり無関心でいると、研修態度が悪いって怒られるよ?」


 よせばいいのに、声をかけてしまう。


「連帯責任で非常呼集なんて、私はごめんだからね」


「ふん。くだらねえ」


 そうは言いつつも沢村は資料館の中を歩き始めた。見学しているフリくらいはしてくれるみたいだ。


「退屈そうだね。研修なんて、楽しんだ者勝ちだと思うよ?」


「逆になんでお前はそこまで楽しめるんだ」


 少し後ろをついてくる日和に、沢村は冷たい目を向ける。


「空自のパイロットになるのに、海自のことなんか学んだって無駄だろ」


「視野を広げるって意味では有意義だと思うよ」


「視野が広がれば空もよく見えるようになるっていうのか? 笑えねぇ」


 いいか、と沢村の口調が強くなる。他の学生や基幹隊員に話が聞こえてしまわないか心配だ。


「俺は一日でも早くパイロットになりたいんだ。そこまでの間に、寄り道なんかする暇はない。なんとなくの気持ちで航学に来たお前には分からないだろうけどな。こんな遠足を楽しむのは勝手だけど、自分の価値観を他人に押し付けんな」


「そんなつもりじゃ…」


 けれど日和はなにも言い返せず、沢村は彼女を置いて立ち去ってしまった。自分だって軽い気持ちで研修に臨んでいるわけではないのに、その悔しさからなのか僅かに手が震えた。


 これが本気でパイロットになりたいと考えている人と、漠然と空を飛びたいと思っている自分との差だろうか。沢村にとって自分は、そんなに目障りな存在だろうか。


 去っていく彼の背中が、やけに羨ましく、恨めしく見えた。





 江田島で一泊した学生たちは再び場所を呉へと移し、引き続き海自の部隊を研修することになった。


 最初に案内されたのは護衛艦「いなづま」。むらさめ型汎用護衛艦の5番艦で、9隻の同型艦が就役している。


 艦内を歩き回り、主要装備品や艦橋の見学を行うのだが、中でも一番学生の興味を惹いたのは、艦後方に設置されたヘリ格納庫や飛行甲板だろう。見るからに離着が難しそうな狭い甲板に、RAST発着艦支援装置やベアトラップシステムといった独特の装備。海の上という特殊な環境下での運用。パイロットを目指す者として気になる部分があるのか、多くの質問が案内役の海上自衛官に寄せられた。


「海自パイロットは儲かるぞー。飛行手当に加えて航海手当まで貰えるからな」


 そう語るのは海自航学出身のパイロットだ。いいなぁ、と羨ましがる声が学生たちからあがる。


「そんなに儲かるんですか?」


 珍しく沢村が興味を示した。周りの学生ほ特に気にしていないが、日和だけは目を丸くさせる。


「儲かるし貯まる。が、それだけの金を使う暇もないというのも事実だ。一度航海に出てしまえば、長くて半年帰って来れないということもあるしな。その間は携帯も繋がらないし、彼女にも会えやしない」


 彼はカラカラと笑って話すが、それを聞く学生たちの顔はひきつっていた。娯楽の少ない航学生活において携帯電話は必需品だ。唯一存在する外部との連絡手段であり、娯楽品でもある。それが使い物にならない生活なんて、一体なにを楽しみにすればいいのか。


 空自で良かった、と呟く学生が一人。それに同調するように何人かの学生が頷く。しかし沢村だけは少しも表情を変えることはなかった。





 一通り「いなづま」を見た後は、第1潜水隊群の潜水艦「けんりゅう」を見学、そして呉基地の食堂で昼食となった。今回の研修はここで終わりとなり、この後は基地に戻るだけだ。


 今日は金曜日ということで、昼食にはカレーが振る舞われる。今では陸自や空自でも浸透している金曜カレーという習慣だが、もともとは海自、もっと言えば帝国海軍から受け継がれてきた伝統だ。本場の海軍カレーが食べられるということで、学生たちは胸を踊らせながら配食場を進む。


「でも、どうせなら護衛艦でご飯を食べたかったよねー。ふねごとにそれぞれカレーのレシピがあるんでしょ?」


 愚痴をこぼす月音だが、海自の給養員から盛り付けされたカレーを受け取り、美味しそうだと目を輝かせる。


「限られたスペースにしか食材を置けないわけだし、私達みたいな大量の外来を受け入れることはできないよ。勿論、私も食べてみたかったけど」


「確かに。潜水艦とか、そもそも私達全員が入りきらないくらいの狭さだったもんね。ふねのカレーが食べたけりゃ、船乗りになるしかないってことかぁ」


 配食を受け、順次席に着いていく学生たち。皿をはみ出るくらいに大盛りしている者もいて、そんなに食べれるのかと笑いを誘う。


 偶然なのか、日和の正面には沢村が座った。今回の研修で、江田島では全く興味を示さなかった彼が、護衛艦の見学では質問をぶつけていた。その理由が日和はずっと気になっていた。


 ちょうどいい機会だ。この際だから訊いておこうと、日和は彼に声をかけるタイミングをうかがう。


 取り敢えず目の前のカレーを頬張る。防府北のカレーも美味しいが、やはり海自のカレーは一味違うような気がした。ふねごとに拘りがあるように、基地ごとにもそれぞれのレシピや伝統があるのかもしれない。


 旨い、と唸る学生たち。これで研修は終わりということもあり、それぞれ話が盛り上がっていたが、沢村だけは黙々とカレーを食べ続けた。正面にいる日和とは目も合わせてくれず、話しかけるなというオーラを前面に出す。しかしそれで怯むような日和ではない。


「沢村はさ、なんで航学に入ったの?」


 突然の質問に沢村の手が止まる。


「なんだよ、藪から棒に…」


「研修中、ずっと退屈そうにしてたけど、護衛艦研修はそうでもなかったみたいだからさ。なにか引っかかる部分があったのかなって」


 ちなみに潜水艦研修でも沢村は積極的に質問を投げていた。潜水艦には航空機は搭載されておらず、パイロットには直接関係のない内容ばかりにも関わらず、だ。


「別に…同じ自衛隊でも、空自のパイロットよりも儲かる職種があるんだなって思っただけだ」


「お金の話?」


 海自パイロットには飛行手当や航海手当、潜水艦乗組員には長期潜航手当等が与えられる。過酷な環境下で働く隊員には、それ相応の給料が支払われるもので、自衛官において最も高給取りなのは潜水艦乗組員だと言われている。


「沢村って、お金の為にパイロットになりたかったの?」


「悪いか?」


「悪いとか言うつもりはないけど…」


 空を飛ぶ理由は人それぞれ。それは日和も十分分かっていた。しかしそれだと、なにも空自でなくたっていいじゃないかという話になる。


「確かに、今では海自に入れば良かったかなと思ってる。そういう意味じゃ今回の研修は、かなりためになったかな」


「…そんな目的で、この研修が組まれた訳じゃないと思うよ」


「勘違いすんなよ。この世界に入った以上は、この道を進み続けるつもりでいる。ここにいればパイロットになれることは保証されてるんだからな」


 カレーを食べる手が止まってしまう。訊かなければ良かったなと、日和は少しだけ後悔していた。


 沢村は決して悪くない。彼のように「稼ぎたくてパイロットを目指す」人はそれなりにいるし、そんな人達を責めれるほどの大した夢を、日和は持っていなかった。


 それでも、どんなことがあっても自分を貫き通す沢村が、誰よりも真剣にパイロットを目指している彼が、心の支えにしているものが「お金」だったなんて…


 ぎゅうっと、スプーンを持つ手に力が入る。残念というか、理想を壊されたような気分になる。お前が人の夢を語れる立場か、と言われるとそれまでだが。


「ふん、こっちとしては海自に行ってもらったほうが嬉しいんだけどな」


 隣で話を聞いていた樫村が毒を吐くが、沢村は全く相手にしない。相変わらずの図太さだ。しかし単に「稼ぎたいから」だけで、そこまで強くなれるものだろうか。そのメンタルの強さを作っているものは、本当にお金だけだろうか。


「また難しい顔してるよ」


「え…?」


 月音に脇腹をつつかれ、日和は我に帰った。


「正面にいる人がそんな顔してちゃ、せっかくの海軍カレーも美味しくないよ。ねー沢村くん?」


「…飯くらい黙って食え、菊池」


「無理だね。なにせ普段流し込むように食べてるんだから、こんな時くらい楽しく食事したいもん」


 それもそうだと笑う同期たち。それにつられてなのか、沢村も少しだけ唇を広げた気がした。


 日和もカレーを頬張る。ちゃんと美味しい、と笑顔になる。難しいことは置いといて、今はこの研修を楽しもう。これだけしっかり味わってカレーを食べれるのも、きっと今だけなのだから。



 遠い埠頭のほうから、護衛艦が汽笛を鳴らすのが聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る